「氏の写真そのものが、あたかも禁断の〈人体改造アート〉である。独特のレタッチ技法を使って、被写体を変形し、歪曲し、リアルなまでに異形化する。まるで「孤島の鬼」の怪物製造者のような仕事ぶり(ただし、被写体には、ボディ・アート界の巨匠ルーカス・スピラ氏のような、本物の怪人も含まれている)だが、その過激さゆえか、これまで本格的な写真選集の出版は企画されてこなかった。」 ゴスにしてフェティッシュな分野で活躍するフォトグラファー・谷敦志氏。
氏と、4人の作家のコラボレーションは「天然の魔・人造の美 谷 敦志パノラマ館」と題された。井上雅彦氏はパノラマ館内の案内に徹し(「来館者心得」)、奥田哲也氏は「胡蝶の夢」や「円環の廃墟」を彷彿とさせる悪夢を(「黄金の夢」)、友成純一氏は人造化していく人間を道化的に演じさせ(「玩具」)、そして、皆川博子女史は本作
「創世記」によって天然の魔・人造の美というパノラマ館のテーマを丸写しにした。
恵帝のとき、洛陽の都に、一人で男女二体をそなえている人がいた。そして男女両性の機能を兼ねていたが、性質はきわめて淫乱であった。天下に戦乱が起こるのは、もとは男の陽気と女の陰気との混乱によるのであり、このような奇形も生ずるわけである。(干寶『捜神記』巻五 「一人両性」より)
あら探しのため『書物の王国9 両性具有』を開いたが、カストラート、男装の美女、アンドロギュヌスと帯に踊っている文字からも知れるとおり、やはり男女の性質を併せ持つものとしての〈両性具有〉が多い。カストラートといえば『死の泉』、男装の美女といえば『開かせていただき光栄です』の判事助手
アン=シャーリー・モア、『双頭のバビロン』の花木蘭などが浮かぶが、須永朝彦『ふたなりひらの系譜』では役柄ではなく役者そのものがアンドロギュノス的魅力を放つ例として『花闇』でおなじみの三代目澤村田之助が挙げられている。
「少女性と少年性は分かちがたく融合し、そこに特異なセクシュアリティが形作られていった」(『中井英夫――虚実の間に生きた作家』安藤礼二「密室論」より)とされる中井英夫でさえ、「世代という枠を乗り越え、より純粋化されていく両性具有」――『光のアダム』を書いた。本作の〈両性具有〉も、性の混在だけとは言えなさそうだ。
登場する神と人、転写しようとするならば、神こそ
「天然の魔」、人こそ
「人造の美」ということになろうか。世界は「魔」と「美」の交合によって生み出される。人外の魔と人道の美。露骨な人間原理である。たとえば、公式を逆にしてみてはどうか。
人こそ
「天然の魔」……人がこの世に生じたことが唯一無二の奇跡であるならば、紛うことなき天然の象徴である。しかし、属するは魔。一方の神こそ
「人造の美」。その偉大な力や造形、人間の知覚では想像の一部にでも成り下がるであろう神の御姿(もちろんこれは単なる姿形のことだけを指すのではない)は、人類にとって驚異であり、脅威でもあろうが、最上級の理想型だ。ゆえに、美しい。
神と悪魔は充実と空虚、生産と破壊によって区別される。「はたらき」ということは両者に共通である。はたらきは両者の上に存在し、神の上の神である。なぜなら、それはそのはたらきによって充満と空虚を一にするからである。
(中略)
これはお前たちの知らない神である。人類がそれを忘れ去っていたからである。われわれはそれを、その名にしたがって「アプラクサス」と名づけよう。それは神や悪魔よりもなお不確定なものである。
神をアプラクサスから区別するために、われわれは神を「ヘリオス」あるいは太陽の神と名づけよう。
(中略)
アプラクサスは知ることの難しい神である。その力は、人間がそれと理解することができないので、最大である。人は太陽から最高の善を、悪魔からは最低の悪を経験するが、アプラクサスからはあらゆる点で不確定な「いのち」、善と悪との母なるもの、を経験する。
アプラクサスのちからは二面的である。しかし、お前たちの目には、その互いに対向する力が相殺されてしまうので、それらを見ることができない。
太陽の神の語るところは生であり、
悪魔の語るところは死である。
アプラクサスは、しかし、尊敬すべくまた呪わしい言葉を語り、それは同時に生であり死である。
アプラクサスは同一の言葉、同一の好意の中に、真と偽、善と悪、光と闇を産み出す、したがって、アプラクサスは恐るべきである。
アプラクサスは、一瞬のうちにその餌食を倒す獅子のごとく素晴らしい。それは春の日のごとく美しい。それはまさに偉大なる牧神そのものであり、また卑小なものである。それはプリアーポスである。
(中略)
お前たちが太陽の神に乞い求めるものはすべて、悪魔の行為をよびおこす。
お前たちが太陽の神と共に創り出すものはすべて、悪魔の働きに力を与える。
これがまさに恐るべきアプラクサスである。
ユング『死者への七つの語らい』で言及されている〈アプラクサス〉について、河合隼雄は
「「原初の両性具有」として、あらゆる相反するものを包摂する存在となる。」とまとめているが、ここでの悪魔はすなわち本作の「天然の魔」であり、人そのものだとするならば、それと神の間に生まれた“わたし”こそ、2つの世界の葛藤を示すもの――アプラクサスそのものなのである。
*
抑も、若者か、されは女人(をみな)か、
女神か、はたまた男の祇家。
恥辱をおそれ、恋慕の情も、
打明けかねて、ためらひ迷ふ。
この呪はれた美を創るため、
両(ふたつ)の性が、貢を献げた。
『アフロディット』と、すべての男、
『キューピッドよ』と、すべての女。
ああ芸術の、はた逸楽の、
燃ゆる空想、至高の努力、
蠱惑の畸形よ。われ、種々の
美をそなへたる、おん身を愛す。
美術家の夢、詩人の夢よ、
幾夜、心を奪つたことか。
わが気まぐれは、これに執して
愚かなわざと認めもしない。
快いかな、不思議な音色よ、
男で、女の、二重の音よ、
奇異なる混合、コントラルトよ、
声の、ヘルマフロディートよ。
恋うちあけるお小姓を
あざける笑ふ城の奥方。
城壁の下、打仰ぐ者、
櫓の露台、見おろす姫君。
かろやかに飛ぶ黄金の梯子を
昇り降りする、天の御使。
青銅の声、白銀の声、
これを溶かして入れ混ぜた鐘。
裳の襞の上に坐つて、
今宵のそれは、サンドリヨンか、
炉端で埋み火かき起しては
蟋蟀相手のよもやまばなし。
「柳」を歌ふデスデモーナ、
マゼット揶揄(からか)ふゼルリーナ、
さてはマントを肩にマルコム、
コントラルトよ、汝を愛す。
その声こそは、睡つた心を、
愛撫の裡に、眼ざましながら、
恋する男の雄々しい調子を
恋する女の吐息にまじへる。
(テオフィル・ゴーティエ「コントラルト」より)
私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されていることだった。単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。空気のいささかな動揺にも、対比、均斉、調和、平衡等の美的方則を破らないよう、注意が隅々まで行き渡っていた。しかもその美的方則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、異常に緊張して戦いていた。
「影を買う店」で亡くなった弟が愛読していた「猫町」の一節。語り手がかの有名なヴィジョンを目撃する直前、影のように行き来する人々や町の風景を眺めながら、思索に耽っている場面である。
既成の辞書には存在しない架空の猫熟語を創造して一本の短篇を書く。それが『猫路地』のコンセプトである。編者の東雅夫氏によれば、
①猫たちによって誘われる「異界」を描いた物語
②異界への導き手たる「猫」たちの幻妙なる生態を描いた物語
以上の2つに大別されるようだ。「猫町」が①を代表する作品であることは瞭然としているが、では本作
「蜜猫」はどちらだろうか。
部屋が増殖するのはある条件がととのったとき。父は時間の密度を変えようと苦心している。ある部分を濃くすれば、他の部分は希薄になる。薄くなって穴が開けば、そこに自分だけの時間を押し込むつもりだ。父は、自分の時間を受け入れてくれるポケットをスケッチブックに描いた。設計図と呼んだが、裁断図の方が合ってる。母が遺した婦人雑誌の付録のような。 私は洋服を縮尺した裁断図よりも、苺ジャムの作り方のページが気に入っていた。煮詰められるジャムは視覚的に魅力があった。けれど、読むだけで作りはしない。 父はスケッチブックに緊縛された女の絵を描いた。縛られて膨れた部分に矢印を差し、〈ココ、肉ノ密度濃シ。〉と注釈を入れるが、私はゴム風船を例に出し、膨らんだ部分の密度は逆に薄くなっていると指摘する。皮膚が、血液が、と相互に言い返しては自信を失っていく父。 希薄な部分を求めていたのに、濃密な部分を矢印で示してばかりの父。父の死と前後して汚い猫が家に居座った。それが息苦しい春。夏には、家が呻くようになった……。 これはもはや「異界」を描くのみに留まらず、「猫」の生態どころか「異界」の生態を描いているかのような倒錯、驚愕、困惑の一篇。勝手知ったるはずの家が「異界」に変わっていると一言で言うのは容易だが、その変わる様こそまさに奇譚の骨頂。「猫」の話かと思ったら、家の話でズッコケと高をくくっていれば、「猫」の生態を描きつつ、変貌していく家の生態が描かれるという驚き。さながら家を
「構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠のみに集中されてい」るかのような眩惑を乗り越えたあと、ラストには
「異常な、唐突な、全体の調和を破るような」「私自身の宇宙、意識のバランスを失って崩壊した」かのような
「何人にも想像されない、世にも奇妙な、恐ろしい異変事」があらわになる。
猫、といえば、本書収録「猫座流星群」や名ばかりの「猫舌男爵」はほっといたとしても、「閉所空間願望」で共通となる「たまご猫」や本作に登場する猫の亜種とも見える「沼猫」(『骨笛』所収)、片目を潰され波に放られたのち戻ってくる「黒猫」や「風の猫」の猫又(ともに『皆川博子作品精華 伝奇 時代小説編』所収)など、猫を冠するものを取り出しても、あのちいさな躰に孕んだ不気味さが際立つ品々の目白押しである。
なかでも筆者は「猫の夜」を筆頭に挙げたい。その登場の仕方は「猫座流星群」の鼠さながら、被害者役ではあるが、文字どおり物語をひっかき回すという役目はやはり猫でなければならない。それに「猫の夜」の退廃的な情景は、「猫町」の雑踏が時代を経り変遷を繰り返した果ての社会であるような、
「第四次元の別の宇宙」的重ね合わせもしてみたくなる。
『異形コレクション 伯爵の血族―紅の章』のテーマは吸血鬼。女史が用いたのは幾何学形詩。
ユングの概念からしてみると、意識統合の中心として定義される自我に対して、意識・無意識を含めた心の中心としての自己(self)が最も重要とされている。
「自己は心の中心であって、自我の一面性を常に補償するような働きをもち、夢の中では曼荼羅などの幾何学的図形によって、その統合性と中心性を顕現する。」 執筆のきっかけは塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』にあるという。
幾何學的な圖形に詩句を収容する場合、その圖形自體数知れぬほどのパターンが考へられる。(中略)このシンメトリカルな形象の中に詩句を配する時、オートマティスム方法ならば、突然の改行も許されようが、これはまことに容易であり、形に卽して次次と字を追ひ込めば濟むのだから、形を造るのには、ほとんど努力も熟慮も必要としないだらう。意味の切れ目以外では絶對改行せぬやう、細心の注意を施しつつ、しかも美しい幾何學的形象を詩句で生む、この造形美術的要素をも含む詩の試作を、私はかねてから夢みてゐた。
として、『ことば遊び悦覧記』のなかで塚本邦雄氏は、六家集のなかから愛誦の歌を選び、翻案、幾何學的圖形に落とし込んだものを掲載している。
露と呼ぶ清らかな狂気がとある朝 私の昏い枕許におかれる それは夏の死の徴 夕風に 時間の刃の 靡く樹樹には 使者 まだ蒼い血脈が透く だがその後の水は涸れ涸れ 秋きぬと目にはさやかに見えねど 見えない秋が心をむしばむ 風の 見えた時は身の終り 音にはたと 宵闇に泡立つ 息を止めあたりを 男郎花 覗ふのは後ぐらいゆゑか 眞晝間の枕邊に屍臭を放つ女郎花 今更何を驚かう悲しまう 夏の始めから刃を 亂れる 研いでゐた 露はたましひ 秋よ 風に煌めく霜こそ肉 はなればなれに秋をむかへ 人と生れた悲しみを風につたへる 藤原定家の
「秋といへど木の葉も知らぬ初風に われのみもろき袖の白玉」を下敷きにしている。
試作するにあたって、
「難事は「幾何學的圖形」に殉じ、意味の切れ目を改行の契機とする原則を枉げないため、いかにも無理をした感じ、流露感を缺く文脈にならぬやうにすることであつた。」と前置きしているように、これらの詩句の要は決められた文字数のなかにことばを置いていくことにあり、自動筆記(オートマティスム)の極致でもある即興詩とは、逆方向の技術を要す。確かにそれは難事であるが、編者解説でも触れられている「遊びとは、美的快樂創造享受の志である」のことばを踏まえれば、美への快楽を追求するための創造・享受には遍く苦しみが同居しており、だからこそのおもしろみが生まれるのだろう。
本作の場合の、意味の切れ目、ことばの切れ目に注視して見れば、
抱擁も 去ねや なく 吾妹 血 子 の雫 跡のみ や、 のあたりに若干の破れが生じている。
しかし、けして結ばれぬ運命にある男女の交信である本作においては、絶え絶えとなった各々の声、その息づかいすら感じられるではないか。
全体としての形状に視点を戻せば、『ジャーロ2013春号』女史の特集に掲載された『Homage to HM』の一篇、井上雅彦「グラーフ・フィルム」では吸血鬼の牙の形状を模していることが判明する。2つの牙か、首すじに食い込まんとする牙か、それは解釈にもよるだろうが、その牙自体が、闇の種族である男のみならず、それを慕う女の心情を内包しているところに意味がある。
『月蝕領彷徨』……この闇の煌めき、無月ゆえの孤高な幻視をもよおす題。1978年
「その日おそらく私の生誕したと同じ時間に、月はこの醜い地球の影に徐々に徐々に涵され、ついに窮まって暗緑色に輝き出すそのひととき、私はあらゆる手段・あらゆる奸智を弄してでも月蝕領主にならねばならぬことを知ったのである。」(『中井英夫全集9 月蝕領崩壊』「月蝕領宣言」「殺人者の憩いの家」より)と宣言した中井英夫、その終の棲家の呼称として生まれ出たのが「月蝕領」だった。
さて「殺人者の憩いの家」を読み、本作を読み、そして唐突ではあるが「陽はまた昇る」に立ち返ってみよう。本作に登場する闇の種族たる男のみならず、「陽はまた昇る」の〈風〉が何者か想像がつくようになっている。そんな解釈の一例をご紹介しよう。
「殺人者の憩いの家」の語り手が領主にならねばと思った理由――。
1つ目はみずからの誕生日が皆既月食であると知ったため。
2つ目は
「自殺か発狂かのいずれかによって自分を罰したいという思いに苛まれてきたが、もうひとつ、殺人を犯すというもっとおぞましい手段があること」に気がついていたものの、
「まだ自分に何かが欠けていると知ってこれまで実行に移す気はなかった」、しかし
「“最後の小説”を書く気になれば、あるいはそれも許されるかもしれない、いや絶対に許される筈だ」と思うようになったため。そして、3つ目。
それは、三島由紀夫が1970年11月25日に自決した理由に思い当たったからだった。
「つまり彼にとって11月25日は、自決の日であるより先に、最後の長篇『豊饒の海』が完結した日だという点を重視すればよかったので、本当はあの年の8月に擱筆しているものを、なぜ意地になって“11月25日完”と記したのか、年譜を辿りさえすればいい。その22年前、昭和23年の11月25日に、ほかならぬ最初の長篇『仮面の告白』を起筆しているからである。」「陽はまた昇る」で〈風〉の自決のきっかけにもなったある小説家の死を思い出してほしい。名は伏せられているが三島由紀夫氏であることは明白だろう。ここで形作られるのは、〈大戦〉に引きずられた作家として度々紹介される中井英夫氏こそ、〈風〉の正体ではないかという推測である。
「汝が項に戦ぐ風 そは我がくちづけ」。本作で〈風〉は、闇の種族からの恩寵としてふたたび顔を見せる。
「日常においては遠い人だけれど、中井英夫は、常に、私にとって師のひとりだった。美という規範において、きわめて厳格な。」 中井英夫全集に寄せられた女史のエッセイは、病臥する中井英夫に美神の姿をなぞらえたのちにこう締めくくられる。
「我らもやがて闇に沈まん、とつぶやいて、私は擱筆する。」
(『中井英夫全集2 黒鳥譚』付録「冬の薔薇」より) 人外であることを望んだ作家は、ここに晴れて人外となり、領主の振る舞いをみせることができた――無月の域に相まみえる2人の愛の彷徨は、こうして解釈することで一個に交わる。
星新一没後10年、デビュー50周年すなわちショートショート誕生50周年の2007年に出版された『異形コレクション ひとにぎりの異形』。毎度、多種多様な(癖のある)テーマを取り上げてきたシリーズにしては初の試み、ショートショート81篇――「作家それぞれが、自らの流儀にのショートショートを書くことで、ショートショートの可能性を追求し、読者の未來、ショートショートの未来を豊かにしていく」がコンセプトだった。収録されたのが、この
「穴」。
「幻想文学に灯る遊び心は、ショートショート魂の琴線に触れる。」と編者も解説しているが、女史が編み上げたのは「月蝕領彷徨」のさらに上を行く「美的快楽創造享受」の賜物であった。
星新一、〈穴〉……とくれば
「捨てたいものは、なんでも引き受けてくれ」る〈穴〉が登場する「おーい でてこーい」より有名なものはない。確かに本作も覗きこんだ〈穴〉の底がみずからの頭上につながるという、メビウスの輪構造だけを取り上げれば、「おーい でてこーい」の華麗なるパスティーシュといえる。しかし、それだけで語り尽くせないと思えるところが実に憎たらしい。
表向き2ページで収まるほどの作品であり、事実とびきり短い文字数でありながら、「結ぶ」の奇想から派生する
「無は無限の有」という概念をさかしまに取り込んで、限りなく長い文字数で書かれている作品と解釈することも可能だ。初出の際には原稿用紙10枚以内という規定があったようだが、そんな文字数規定の裏をかいたといってもいいだろう。
〈穴〉が本書の他の作品にも頻出することは知ってのとおり。「猫座流星群」における便所の〈穴〉、「沈鐘」「釘屋敷/水屋敷」「断章」における井戸の〈穴〉……〈穴〉のなかに満ちているもの、ぽっかりとあいた〈穴〉から立ち上ってくるもの。それは恐怖であり、覗きこませようと好奇心をかきたてる。
「穴は絢爛たる悖徳の闇への通路である」とは、『文芸読本 江戸川乱歩』において乱歩『蟲』の主人公・柾木の窃視願望によせたレトリックであるが、それをも想起させる魔のメタファーである。
さらに、
「穴の底にあるのは」という文章が形成する具象。それは「こま」における、記憶と幻視の上映会に到達するための螺旋階段と同質のものである。これに「迷路」「影を買う店」など〈弟〉の物語における〈投身〉を組み合わせれば、〈穴〉への落下も、〈弟〉の〈投身〉も一緒くたになって、地上から奈落、すなわち〈下の世界〉への没入と言い換えることも可能だろう。もっともその没入自体が、〈弟〉の〈投身〉の再現・反復であるというおそれもあるのだが。
また螺旋階段めいた文章は、此岸と彼岸のあわいがないように、
「穴の底にあるのは」から
「穴の底にいるのは」といった風にモノからヒトへの話に変じる。みずからの頭上へのループという「おーい でてこーい」の恐怖の変奏でありつつも、覗きこんでいる視点が変わらない以上、頭が見えている自分は他者であるとも考えられる。
主観と客観が渾沌とした状態――を引きずりつつ、再び寺山修司『田園に死す』を顧みてみよう。みずからの境遇と、精神を観察したかのような散文詩「新・餓鬼草紙」の一篇「悲しき自伝」が目に留まる。本作の、観察者たる虫眼鏡が覗きこんだ〈穴〉も、言い換えるならば異形の〈穴〉、その底に見えるのが別ものでも、尽きぬ恐怖と好奇心はまさに同穴から出でしものだ。
裏町にひとりの餓鬼あり、飢ゑ渇くことかぎりなければ、パンのみにては充たされがたし。胃の底にマンホールのごとき異形の穴ありて、ひたすら飢ゑくるしむ。こころみに、綿、砂などもて底ふたがむとせしが、穴あくまでひろし。おに、穴充たさむため百冊の詩書、工学事典、その他ありとあらゆる書物をくらひ、家具または「家」をのみこむも穴ますます深し。おに、電線をくらひ、土地をくらひ、街をくらひて影のごとく立ちあがるも空腹感、ますます限りなし。おに、みづからの胃の穴に首さしいれて深さはからむとすれば、はるか天に銀河見え、ただ縹渺とさびしき風吹けるばかり。もはや、くらふべきものなきほど、はてしなき穴なり。
「もはや水槽の水は灰乳色の液体ではなく、いまは、前ほど濁っておらず、胸のむかつくようなピンク色で、それを通して、大きな貝の輪郭と、その近くの、人間の白骨とがはっきり見えた」 編者が引き合いに出したカール・ジャコビ「水槽」からの引用である。
「夕陽が沈む」は『異形コレクション 怪物團』で初出となったのち、大森望・日下三蔵編の年刊日本SF傑作選2009年版『量子回廊』に再録された。編者大森望氏は
「現象が社会的に認知されている点からSF」として収録の意図を明かしている一方で、
「美しい悪夢のような幻想ショート・ショート」と呼んでいる。
「それ以上におそろしいのは、床の上の跡だった――まだべとべとしている、赤い渦巻状の模様が、水槽からエディス・ハルビンのからだへとのび、また水槽へと引き返しているのだ」「水槽」で特徴的なのは専門学的な趣向を覗かす背景に、息を潜めたモンスター、そしてショッキングな惨劇のしるしであるわけだが、本作もまた一般的な意味で本書中随一のショッキングな場面が描かれる。「蜜猫」のラストや「使者」の光の破片、「こま」の目潰しや「真珠」の接吻……数え上げれば各篇それぞれにトリッキーともいえるショッキングな場面が用意されているのだが、ここであえて一般的ということばを使ったのは主観ではなく客観として描かれるからに過ぎない。よりはっきりとこじつければ、
「現象が社会的に認知されている」ことによって、他の作品では語り手の主観をはみ出すことのなかったおぞましき幻視の力が、いよいよ実像として具現化してしまったとも言えるだろう。しかし単なる猟奇モノでまとめてしまっては「純粋幻想小説」とは言えない。だからまず、実にキネマティックな(キネマジカルな?)、新聞から滑り落ちた活字が水槽を目指すというシュールレアリスムの奇想からはじまる。
浅瀬で拾った二枚貝を、熱帯魚と指たちを飼っている水槽に入れた。口を開いた貝のなかから伸びてきたのは指だった。すでに3本飼っているが、どの指も活字を欲しがったりはしなかった。〈命がいかに大切か〉という大義を元に、生きねばならぬという強迫観念で独立し変化する指。成功率の高い水中での飼育が流行になっていった。変化しないまま腐爛する指は生命希求欲が弱い。 動脈と静脈――指と同じく刷り込み力によって再生を果たした、躰が2つに割れた女。元の名を文子というが、わたしはそう呼んでいる――が訪ねて来た。兄の亡骸を引き取りに来たのだ。防腐処理を細越した亡骸が眠る寝室へと、2人を案内する。すると、水槽のなかの指も欲しいというので、貝の奴を壜に入れて渡してやった。文子は一方的に兄を好いていた。2つに割れたのも、兄の病を知り逆上したためだ。死後、躰を提供すると約束していた兄は、くだんのスローガンに蝕まれていなかったため、あっさり死んだ……。 水槽に吸い込まれていく活字。着想は、70数年前(!)作者が幼少期に遊んだ、紙を水に浮かべると文字だけが水面に残る玩具らしいのだが、奇想はそれにとどまらず、「心臓売り」(『結ぶ』所収)と似通った世界観の上に、血腥くもありながら、抒情的な逸品に仕上がっている。
弓雄の小指を、香子は自分の部屋の、ガラスの水槽に沈めた。
朱色の蘭鋳が三尾、藻のかげを泳ぐガラス鉢の底に、指はゆるやかに下降し、白い玉砂利の上に横たわった。
窓越しにさしこむ西陽は水槽を貫き、蠟細工のように青く冷ややかな指が、ほんのりいろづいた。
という今にして思えば既視感のある書き出しで始まるのは、79年12月『別冊小説宝石』に掲載され、のちに『ペガサスの挽歌』に収録された「朱妖」である。本作の原型といってしまいたい。指、水槽、そして西陽、男女の荒んだ恋。「朱妖」に奇想をプラスしたのが本作であり、本作から奇想を差し引けば「朱妖」になるかのような。
あるいは、「朱妖」の頃から夙に生まれていた〈指〉の怪物が、初登板から実に30年ほどかけて、幻想を捕縛していた軛からようやく解放されたのち変化に至ったというべきか。奇想自体が、
〈生きねばならぬという強迫観念〉に突き動かされた結果であるともいえよう。
血腥くもあり、抒情的……水槽を染めた赤は、果たして夕陽の朱か、血の紅か。
あえて、このタイミングで恨みつらみ(でもないか)を記してしまうが、『小説すばる』にこの後の2篇が掲載されたとき、きっと同じ形式のものを纏めた単行本が出るのだろうと高をくくっていた。そしてそれがとびきり上質な少年小説集の傑作になるのだろう、とも。しかし蓋を開けてみれば、わずか2篇で途切れ、本書に収録されたということはまた別の機会を待つしかないのだろう。
『小説すばる』での連作といえば、写真や絵画から物語を生みだす『ジャムの真昼』、詩篇を基に描かれた
宇野亞喜良のイラストから物語を生みだす『絵小説』など実験・意欲的なものが多い。今回の2篇は「月蝕領彷徨」でみせた幾何学形詩を生み出したのち、さらに物語を生みだす(もっとも順序は逆かもしれまいが)形式になっている。
「月蝕領彷徨」で語りかけられた「吾妹子」はおおよそ恋人の意であろうが、「吾が背」と「吾が兄」の違いを引くまでもなく、本作は死んだほんとうの妹に対している。妹の死を悼み、ひとりその墓を探して漂浪する兄。安らかに睡らせておくれと兄を説得する妹。その形状は、
「墓標」と墓標を抱く夜の如き背景を表象している。
猫が海峡を渡る季節。港町の食堂に、三つ編みの女の子を連れた客が訪れた。食堂の窓辺でシャボン玉を吹く少年。海ではうまく膨らんだはずのシャボン玉はすぐにはじけてしまい、傍らの少女は落胆する。カウンターでは少年の母親である女亭主と、少女の連れである無精髭の男が話し込んでいた。霧のせいで連絡船は足止めをくらっている。鳥猫の渡りが終わるまでは欠航だと母が言う。 男が2人をそばに呼んで、手品を見せた。読心術。ブラック・アート。少年は少女と男がグルであると分かった。しかしどんな方法で教え合っているのか。近所で〈蒸発〉を題材にした映画を撮っていたらしいと母が言う。男は少女の母親も蒸発したという。東京で店を開いていた男の妹だ。すると少女は、嘘、と言った。「蒸発したんじゃない。お母さん、死んだ」……。 ふと読み返すとさながら古語のパッチワークとも呼べそうな冒頭の幾何学形詩、被衣の陰とはなんと大胆な伏線であることか。賤の田長という呼び名から転じて死出の田長すなわち冥土から来る鳥と意味付けされた杜鵑にまで叫べと煽り、妹を思うあまり柩の蓋を開ける兄の倒錯は、現実でも妹の影を追っていた。
『鳥少年』読了後に読むと、さながら「サイレント・ナイト」の影がつきまとう少年少女の交流。あちらの悪魔主義がアンファンテリブルに根付いたものだっただけに、こちらの秘密が暴かれてなお密着する2人の姿には素直に胸が暖かくなる。
「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことがいちばんいい方法である」とはユングのことば。「秘密をどの程度打ち明けるかによって相互の親密性が測られる。しかし、この親密性はうっかりすると無意識的な結合による近親相姦的な親密性へと退行しやすい。(中略)秘密は自我の存在を脅かすと言った。しかし、そのような脅かしに耐え、自我がその秘密を自我の中に取り入れようと努力しつづけるとき、その個人はむしろ個性実現の道を歩みつづけることになろう。(中略)発達に応じて秘密であったことが秘密でなくなり、また新しい秘密が生じたりする様相は興味のあることだが、ある個人にとって劇的な変化を生じねばならぬときに、今まで抱きかかえていた秘密を明らかにしなければならぬときがある。」とは河合隼雄の一論である。
また、男と、妹および少女の関係は男が「永遠の少年」であることを示すものになるだろう。「永遠の少年」とはなにか。
「子供はやりたい放題のことをして、母親はひたすらその尻ぬぐいをさせられている。これは大なり小なり母子のパターンとして生じることであるが、それが年 齢が大人となってもちこされたり、程度がひどくなってくると、そこに「永遠の少年(ブエル・エルテネス)の元型が働いていることが感じられるのである。少年は自分の影を自分で背負うことをしない。自分の影の存在にすら気づいていないときもある。」「永遠の少年」の登場が「サイレント・ナイト」と決定的に違うところではあるが、他にも強制的とはいえ〈服装倒錯(トランスヴェスティズム)〉の端緒を担う作品であることも重要だ。そこに芽生えたのは友情であると綺麗事を言うつもりもない。秘密の受容は、明らかに〈同性愛〉の肯定であるのだから。
さらに言ってしまえば、〈近親相姦〉という関係を蘇らせるために男は〈影〉を欲したわけで、これは少女(便宜上、そう呼ぶ)が妹の〈影〉ドッペルゲンガーであるのはもちろんのこと、元をたどれば、澁澤龍彦が「ぼろんじ」で見せたようなドッペルゲンガーでありながらふたなりの片割れとして描かれる男女関係さえ浮かんでくる。
とまで書いたところで、不安が生じる。ここから先〈両性具有〉の俎上に乗せれば、作中の男の妄執にどんどん近づいてしまうのではないか。だからといって、アニマ・アニムスというユングの解釈を引き合いに出すのも、やめだ。
悪魔主義を奇蹟的に逃れた作中の少年たちを、わざわざ解釈によって倒錯の目を浴びせるのもいかがなものかと思う。
*
寒 暁の夢 黒い薄冰に 桃の花がにじむ この景色に重なつて 屍體陳列所が見えたとて 今はさらさら驚かないだろう 昔 私には 夢の他にも 喪ふべきものが おびただしく煌めき 世界は厚い磨硝子の彼方 四季は薄墨色に移ろふばかり 現 贋の夢 人生は陥穽 甘美な失墜の刻 夏の夢には暗い時雨 秋の夢には逝く歳の吹雪 見盡した夢のぬけがらが未來 冬の夢の驚きはつる曙に春のうつつのまず見ゆるかな 良經 春 君よ 今こそ 別れの時 さやうなら 目を閉ぢても 天に浮ぶ雁の影 かりに私が逐つて 行かうとも果ては幻 すべて滅びてしまつた ただ一つ殘つた愛さへも この曙の光にあやふく漂ふ いざさらばまた秋の夕暮まで もし私がまだ生きてゐたら一言 彼方にはうつくしい日日が周ると 教へておくれひややかな死者の聲で ただ今ぞかへると告げてゆく雁を 心におくる春の曙 良經(塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』より) 2008年に行われた同志社大学ミステリ研究会主催の皆川博子講演会で、
「あと、万華鏡、これは更紗眼鏡ともいうのですが、これを主題に短編を書きたいと思っていますがまだ果たせていません。」という発言があったらしい。思い返すのもいやになるのだが、参加できなかったのは致し方ないにしろ、同講演会記録が載っている同志社ミス研機関誌が諸事情で購入できなかったといういわくがある。その話はやめとこう。
「更紗眼鏡」の主題よろしく冒頭に置かれたるは、3つの三角形。川に浮かべた笹舟の漂流が、いつしか記憶や時代の波間に彷徨い込んで行く、綺羅の儚さゆえ哀切感きわまることばの細片である。本篇は、碧、玄、そして春と名のついた3人の少年少女の物語。
「碧」
薄闇にまぎれた小川のそばの窪地。碧は熊笹で笹舟を作っていた。碧がひとつ作り終えないうちに、器用なゲンはさっさと4つ作り終えている。数日前、川べりで碧に近寄ってきたゲン。碧はそこで更紗眼鏡を落としたのだった。ゲンはなだめ、反古を舟の形に折ってみせる。蠟燭の帆柱を立たせた笹舟は船出したがすぐに没してしまった。 ゲンは父がおらず、母は女郎をやっていると春が言う。春の体は碧が借りているところだ。提灯の明かりが見え、春の母親が迎えに来た。碧は居場所を失う。川に飛び込んでいたゲンが碧を手招いた……。「玄」
料亭を経営していた母親が内地に引き揚げ、ついていかねばならなくなった玄は作り溜めた戦艦の模型を失った。料亭の離れに住み、隣り合う寮の芸姑たちから折り紙を教わったが、やはり模型作りに惹かれていた。士官の送別会やら歓迎会が華々しく開かれている夜、離れの庭の池を訪れた玄は、水面に巡洋艦の模型を浮かべた。玄がハモニカで吹く「江田島健児の歌」の調べに合わせて、深みのある歌声が聞こえてきた。若い海軍士官だった。その静かな歌声に玄は涙を浮かべ、士官は裸身になって池に入った……。「春」
全国珍味展のためにデパートに足を運んだつもりが、催されていたのは「金剛舷作品展」だった。軍港街で生まれ、病死した母の元を離れたあと鍛冶職人のもとで育ったという作者、金剛舷のことを貼るは知っていた。あの子と遊ぶんじゃないと言われて育った。雑木林の中の小屋に住む離れ鍛冶は子どもながらに怖ろしかった。そして、身寄りがなく春の家に引き取られてきた遠縁の子、碧のことを思い出す。 金剛舷が製作した作品――ステンドグラスを立体的にしたような、鉄とガラスを組み合わせたオブジェに惹かれながら奥へ進むと、舷その人らしき男を見つける。彼が客に紹介していたものは……。 圧倒的に美しいのは、夜に灯る蠟燭や螢、賑やかな軍港街の夜景、そして更紗眼鏡の玻璃の外装から醸しだされるアンティークの風情、連想される色硝子の動き、そんなような視覚から得られる映像美だけではない。
三者三様の人生は、互いに干渉しあいながら悲劇的な航路を辿ってきた。しかしながら、そのどれかが欠けてしまえば、それぞれの半生はここまで煌としなかっただろう。「ゆびきり」(『鳥少年』所収)が珠玉のものとしてああも不朽の輝きを絶やさぬのは、単に約束が果たされないからではなく、純粋な幼心と奇縁によって結ばれた2つの人生の対比が、人生の奥深しさを語り、胸を打つからである。
本作もまたしかり。しかし序盤で仕掛けが提示されながらも読者は全体像を把握できぬままに、視界のなかで目くるめく3人の人生を直視しなければいけない。冒頭の詩片、上部は「漣」という言葉でつながっているが、下部は切り離されている。「碧」の章で描かれる玄、春とのつながりが表面的であることを思えば、切り離された下部に碧が宿っていることは分かるだろう。それと同じように終盤に至ってやっと、切っても切れない三者の人生の結びつきが分かるという仕組み。「ゆびきり」ではあえて背景の一部として後退した、燦然として褪せることのない〈約束〉の在り様が浮上してくる。
これら構造美もさることながら、やはり末期にこの上なく美しいと感じるのは、人間の純みきった心なのである。
*
月はどこに照るのか 卯月は空木に死者の影
冷かに四季が周り 皐月の盃にしたたる毒
人の世のことも 水無月に漲るわざはひ
いつとはなく 夏の間闇に沈んでゐた
忘れた頃に 私のこころも
浮び上る 秋は炎え上る
黄昏の 風はときのま
須磨の關 花はたまゆら
柵の彼方に 散れ
悲しみを逐ひ 白露
沖から汀へ迸る 靡け
歡びを堰きとめた 秋草
それが私の犯した科 散りつくして
夢を見た夜はない 後にきらめく
千鳥が鋭い嘴で 人の掌の窪の
啄んでしまふ 一しづくの淚
殘るのは砂 文月の文殻の照り翳り
乾いた藻 葉月わづかに髪の白霜
月の影 長月は餘波の扇の韓紅
ひねもす 皆わすれがたみの形見
よもすがら
逐はれた心と
堰き止められた
心が昏い渦を卷き
せめてもの夢を葬る
月もいかに須磨の關守ながむらむ 散らば散れ露分けゆかむ萩原や
夢は千鳥の聲にまかせて 濡れてののちの花の形見に
家隆 定家
舟人よ波の上の月を碎くな 月一夜
はりはりと月光が破れる時 闇七夜
鏤められた夢も粉粉になる 風の下
櫂のしづくに消える花の夢 漣の上
棹が掻き亂す時鳥の語らひ 夢の中
澪に紛れる星會の淚 煌めく
さざなみにゆられる 昨日昃る明日
鳰の浮巢のその薄情 ここ過ぎれば
濃く契ればたまゆら 霙の巷霰の辻
契らねばよどむ餘波 ここに停れば
風が吹き裂く とこしへの秋
二藍の小袖を 人は陰晝の中に眠り
流れてすゑは 漆黑の紅葉犇く森に
夢の世の水口 不老の人はさまよふ
淺いえにしを 失樂園に水は泡だち
白白と 時あつて逆に流れる
渚の砂 みづうみに映るのは風の痕
なすな 風に斷たれた夢のきりくち
水底の そして溺れたたましひの月
夢の戀 舟人よ夜の波の下を覗くな
さざなみや鳰の浦風夢絶えて夜渡る月に秋の舟人
定家
(塚本邦雄『ことば遊び悦覧記』より)
『影を買う店』/皆川博子・後篇の2に続く。
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