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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『影を買う店』/皆川博子・後篇の2

『影を買う店』/皆川博子・後篇の1 の続き。






 江戸時代中期に実在の藩士・稲生平太郎が遭遇した怪異をまとめた『稲生物怪録』。今なお根深い人気をもつ本朝妖怪譚に真正面から挑んだパスティーシュアンソロジー『稲生モノノケ大全 陽之巻』。なお、『陽之巻』は書き下ろし競作集であり、その前前年には既出のものを集めた『陰之巻』が刊行されている。
 本篇の原稿が編集部に到着したのは、締切の数日前だった。当然のことながら一番乗りである。わくわくしながら紙葉を繰るうち、武家屋敷変じて西欧中世の城塞と化す綺想に茫然、巧緻をきわめた文藻に陶然……この原稿を頂戴できただけでも本書を企画した甲斐があったと、しばし感じ入った。副題にある「遠い日の童話劇」とは、メーテルリンクや小川未明ら十九世紀末の象徴派とその継承者が耽溺した薄明の世界でもあろうか。やはり、その流れを汲む国枝史郎の夢幻劇集『レモンの花の咲く丘へ』を、かつて私が復刊(『伝奇ノ匣1 国枝史郎ベスト・セレクション』所収)した際、皆川氏は励ましの言葉をお寄せくださり、それに付言して「機会があれば、こんな作品を思うさま書いてみたいものです」と漏らされたことがある。その盟約(?)がこうして成就されたことを、読者とともに歓びたい。(東雅夫氏による編者解説より)
『稲生物怪録』の〈魔王〉といえば、稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」でもおなじみ武士姿の大男・山本五郎左衛門と、覇権争いの相手・神野悪五郎であるが、本作に登場する「魔王」は西欧ならぬ北欧の神話における主神、戦神にして、詩と魔術の神。
 寝室に集まるは、城主の奥方と侍女、小姓。窓の外から波と琵琶の音にまじり聞こえてくる歌声、侍女は恋の歌だという。南の宮廷から来た吟遊詩人ではないかと。壁に飾られたタペストリーを照らす。外は嵐。司祭が到着し、十字軍として出征している伯爵の無事の帰還を祈る。灯りをともせと司祭。しかし灯りは開かれた窓から吹きつける風で間もなく消されてしまう。妃は、楽人の歌が聞こえなくなるからと閉めたがらない。
 色欲にくらんだ司祭は妃の着替えを覗く。侍女に見つかると、贈り物があると嘯いて何処かへ連れていった。寝衣に着替え、ひとり窓辺に歩む妃。タペストリーが動き出す。人々が歌を歌い、少年芸人が力闘をはじめる。絵の人々のなかには侍女、小姓、司祭の顔もちらほら。長持から半裸の青年と南国風の美女が顕れ、妃の目の前で睦み合う。少年芸人が、恋を知らずと歌ったために逆上する妃。周囲に増えはじめた水泡めいた人々の顔が、妃めがけて押し寄せる。拒めど抗えど、その寝衣を毟り取られ、堪えかねた妃は渾身の力を込めて叫んだ。オーディーン!……。
 魔王について記すより先に、幾代もの「薄命の世界」を泳ぎ渡ってきた水妖の系譜を明らかにしよう。

 声もとどかぬ水底の           伝へ聞く 海鳴りの底
 水の都の同胞は             稲妻の夜を裂くとき
 行方知れずの人魚を           かいま見ゆるは
 浮藻の恋になぞらえて          人魚てふ怪しき生類
 はかなきものと語り合う、
(国枝史郎「レモンの花の咲く丘へ」)   (本作)

 メーテルリンク『ペレアスとメリザンド』のメリザンドは森の妖精たるファム・ファタールであるが、誑かされた王子の弟・ペレアスは兄に刺殺され「盲目の泉」に没す。そもそもメリザンドという名前は「薔薇密室」(文庫版『結ぶ』所収)でフィーチャーされたジロドゥ『オンディーヌ』におけるオンディーヌの母メリュジーヌにもつながる。とくれば赤子を産み落として死んだメリザンド、売りに出された娘を取り戻しにくる小川未明「赤いろうそくと人魚」、「人魚姫」の物語を宿命として背負い込み「死に行く人魚」の歌を息子に伝えた国枝史郎『レモンの花の咲く丘へ』における公子の母……と一線で結ばれていく。
「死に行く人魚」の歌よろしくメリザンドが諳んじる「メリザンドの歌」、その歌詩は『十五の歌』という連作詩篇の一節でもある。

 三人のめくらの姉妹
(まだあきらめてはいけないわね)
 三人のめくらの姉妹が
 手に手に金色のランプをもっています
 
 塔にのぼってゆきます
(三人のほかに あなた方も私たちも)
 塔にのぼってゆきます
 七日七夜 待っているのです……

 あら と姉妹のひとりがいいました
(まだあきらめてはいけないわね)
 あら と姉妹のひとりがいいました
 あたし ランプのあかりが聞こえるわ

 あら と姉妹のひとりがいいました
(三人のほかに あなた方も私たちも)
 あら と姉妹のひとりがいいました
 王さまが塔にあがっていらっしゃるわ……

 いいえ といちばん清らかな娘がいいました
(まだあきらめてはいけないわね)
 いいえ といちばん清らかな娘がいいました
 あたしたちのランプはもう消えました……
(『メーテルランク詩集 温室』杉本秀太郎訳 『十五の歌』「五の歌」より)

 ここに登場するランプは「赤いろうそくと人魚」では、山のお宮に燈った赤い蠟燭へと転じたかのように思えるし、さらに衣鉢を継ぐ前述の『レモンの花の咲く丘へ』第2幕「死に行く人魚」では、青い灯が音楽堂に灯るのだ。本作でタペストリーを照らしだす燭台に結びつけるのは強引過ぎるが、それは逆に燭台を灯さなければいけない時間どき――すなわち「薄明の世界」ゆえにこれら物語が生み出されたことの顕れでもある。『レモンの花の咲く丘へ』では序を語る人の独白によって、「夜はこの脚本の舞台であります。」と宣言している。
 話は変わって、本作中、オーディンは「異教の神」として崇めることを禁じられている。ここで強調したいのは北欧神話の誇示ではなく、キリスト教と対立せしものとの構図にありそうだ。
 河合隼雄氏の著書からまた引用しよう。「ドイツにおけるナチスの台頭を、ユングはこのような見方で見ていた。1936年に発表した「オーディン」というエッセイにおいて、ナチスの動きはキリスト文明においてあまりにも抑圧された北欧神話の神のオーディンの顕現としてみるとき、もっともよく理解されると述べている。」
「ナチズムは、宗教ではないでしょう」というギュンター・フォン・フュルステンベルクの問いに「宗教以上に宗教なのだ。」と応えたのはナチの施設〈レーベンスボルン〉所長クラウス・ヴェッセルマンだった(『死の泉』より)。
 主神オーディンそのままの名前を付けられた《薔薇の若者》誕生の背景(『薔薇密室』)を重ねて引かずとも、ナチスとオーディンとを結びつける力は凄まじいものがあるようだ。
 そもそもキリスト文明のオーディンに対する抑圧は、「倒立の塔の殺人」や「柘榴」の主題ともなっている戦前戦後の〈倒立〉問題にも関わってくる。たとえば「赤いろうそくと人魚」において、赤い蝋燭が不吉と見るやお宮参詣をする者がいなくなったという後日談ですら、この〈倒立〉問題の〈影〉にも思えてくる。
「集団の成員がすべて同一方向、それも陽の当たる場所に向かっているとき、その背後にある大きい影について誰も気づかないのは当然である。その集団が同一方向に「一丸となって」行動してゆくとき、ふと背後を振り向いて、自分たちの影の存在に気付いたものは、集団の圧力のもとに直ちに抹殺されるであろう。(中略)このような集団は、あるときに強烈な影の反逆を受け、それに対してまったくの無防備であることを露呈する。」
 先に挙げた河合隼雄の弁は、〈影〉の反逆の一例として述べられたものである。
 さて、肝心要の『稲生物怪録』との関連についてであるが、人魚の歌、吟遊詩人の歌声は「めきめきゆさゆさと」強まる家鳴り(巻之一「一族中相談勝弥を預ける事、並に燈の怪、水の出る怪」)やら何処からともなく聞こえてくる鬨の声(巻之二「反蹄の事、並に鯨波の怪、足跡ありし事」)と共鳴するようだし、あぶくのように現れる人間の顔は「くるくると入れ替わって、顔の上に別の顔が交わり、睨むものや笑うものなど様々の顔が現れる」(巻之二「西江寺祈禱札の事、並に輪違い貌の怪」)と同種の怪だ。そして魔王たる山本五郎左衛門が様々な難を与える構図というのは、本作では貞節を疑った城主による奸計に変じている。どちらもあまりに頑ななな相手に負け伏してしまうあたり共通ではあるが、それが別の〈魔王〉の存在を明らかにしてしまうところに前述の宗教同士の対立という根深い業が潜んでいるようにも思う。
 ところで、今回は底本として『書物の王国18 妖怪』を手にとったのだが、併録されているなかに柳田國男『遠野物語』から泉鏡花「草迷宮」に共通する「中心のシンボリズム」を扱ったエッセイ澁澤龍彦「ランプの廻転」がある。「草迷宮」といえば、『稲生物怪録』に原点を置いたもっとも有名な作品であろう。このエッセイでは三島由紀夫が言及した『遠野物語』「炭取がくるくると廻つた」、『草迷宮』「洋灯ばかりが、笠から始めて、ぐるぐると廻つた」の描写について語り、「妖怪の存在を認知するための指標として、日常の器物の廻転が作者によって利用されている」ことを導いている。
 ここで筆者なりに得意のこじつけをしてしまえば、本作における「器物の廻転」はランプそのものではなく壁にかけられたタペストリーとなる。「一瞬灯を受けてはまた闇に没する」タペストリーが、妃がひとりになった寝室で「裏から光が射したように輝く」さまは「廻転」と呼べそうな変異である。無理に「器物」へと置き換えるならば、ゾエトロープやプラキシノスコープのような廻転絵ではないだろうか。「エリアーデが比較宗教学の領域で、「中心のシンボリズムということを提唱しているのはよく知られているが、何によらず物体の廻転を愛するという傾向のなかにも、このシンボリズムがあらわれているのではないか、と私は考えている。独楽であれ、ランプであれ、炭取であれ、迷宮であれ、およそすべての物体の廻転運動は、中心軸を抜きにしては考えられないからである。」これら動作観察だけ取り上げられれば「こま」「穴」「更紗眼鏡」との不思議な共通項も見いだせよう。
 当エッセイでは、ミノタウロス神話からカフカの『巣』を引いて、鏡花小説における母胎構造を再確認している。この中の「世界中の民俗において、迷宮と母胎とは、しばしば同じ螺旋のサインによって表現されているともいう。」という一文は「こま」「穴」に対する重大な示唆とも受け取れるがとりあえず除けておこう。
 『草迷宮』が「秋谷海岸の前史ともいうべき過去の物語」である「第一の時間」、主人公・明の「幼年期の物語」である「第二の時間」、そして「秋谷屋敷の現在」である「第三の時間」という「3つの時間が同心円状に重なっている」ことを見定め、迷宮構造と重ねたのちに「何重構造になっていたとしても、それは中心の窮極の円のなかに吸収されてしまって、最後には無時間の夢になってしまう」と明かす。
 迷宮からの脱出が「大きく変化した新しい自我」の獲得であると述べるマルセル・ブリヨン『ホフマンスタールと迷宮体験』を引き合いに出して、「『草迷宮』の幕切れで、明が幼児の眠りを眠っていた時間は、すでに時間の廃棄された無時間の時間である。」「秋谷屋敷という一つの迷宮世界、一つの魔圏が、主人公たる明の退行の夢の世界でしかなかった」ということから、「『草迷宮』の主人公は(中略)イニシエーションの試練を受けても、それによって新しく生まれ変る、つまり、一人前の大人になるということがない」とした上で、ついには「超越への志向が欠けている」と言われる鏡花小説全体に対して「退行とは、もしかしたらマイナスの超越、あえて言えば逆超越ではあるまいか。」とシブサワはつづけて講釈してみせる。
「無時間の時間」というものには「秋谷屋敷に出現する秋谷悪左衛門が、自分たちは「人間の瞬く間を世界とする」と公言していたのは、この文脈から考えると、まことに意味ふかい暗合と言わねばならぬであろう。」と『草迷宮』に登場する〈魔王〉の関連も結んでいる。秋谷悪左衛門の科白はより正確にすれば、次のようなものだ。
「凡そ天下に、夜を一目も寝ぬはあつても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ夥間一統、即ち其の人間の瞬く間を世界とする」
 本作において、「妙に清らの常乙女」という歌詩が妃をまま伝えているとすれば、貞操を守ったうえに「一人前の大人になるということがない」常なる乙女であることが分かる。叙任式を終えていない小姓も、侍女にからかわれるとおり「まだ子供」だ。そんな2人がみずから瞼を縫い閉じ、切りつけたのも、「我らが大神は、北の空、北の海を、およそ人が瞬き一つなす間に、人の一期を超えた時を馳せ行かれます。その敏捷さ。人の〈時〉では追いつけませぬ。妾は、人の〈時〉を捨てました。命絶ゆるまで、瞬きすることのなきよう」という理由による。
 人の〈時〉では追いつけぬオーディン神。彼もまた、数多の物語と伴に立つ「人間の瞬く間を世界とする」〈魔王〉の一柱であるという符合。彼が統べる異教の世界への出奔は、作者の興趣どころか信念にも相通じる〈逆超越〉の顕れとみていいはずだ。
 また一方、ユング心理学からのグリム童話解釈で行けば、「女性の心のなかの男性」(アニムス)の化身としてさまざまな人物が登場してもその背後にはオーディンの姿を見ることが出来るらしい。魔法の類が登場しない物語であっても、「話の流れのすべては人間を超えた知恵によって仕組まれていたのだとさえ感じられる」。それこそ「ドイツの国民のすべての心の奥深く生きつづけている」「オーディンの力」なのだという。



「奥さんはあなたを肉体的に所有されるんですからな。ところが、ジュリエッタのほうは、いつもあなたの朦朧たる夢のような分身しかもたないんですよ」
(E・T・A・ホフマン『大晦日の夜の冒険』より)



 雁の列に槍を投げたのは誰
  槍など誰も投げやしない
   あの人が薄の穂を拔き
    私の胸に放つたのだ
     柔かい矢に刺され
      さわぐ心の鳥影
       亂れる天の雁
        心には蒼い
         血が滲む
          移ろふ
         秋の人よ
        雁の行方は
       知らぬがよい
      北の涯に生れて
     露霜の天に飼はれ
    悲しみに滿ちた地と
   淚あふれる眼を愛する
  悲哀に飽いて姿を消す時
 私とあの人の影だけが殘る

 いかにせむつら亂れにし雁がねのたちども知らぬ秋の心を
                         定家


 神話・童話への傾倒は更に中枢を目指し、『猟奇文学館』と冠し、『監禁淫楽』『人獣怪婚』『人肉嗜食』とインモラルかつサジェスティヴ(か?)なアンソロジーを編纂したことでも印象的な七北数人氏をして「残酷絵さながらに生々しい」と言わしめた「青髭」
 父親と3人の兄と一緒に少女は森のなかの小屋に暮らしていた。ある時、木々の隙間から金色の光が漏れるのを少女は見る。現れたのは馬車だった。降りてきた男は、青いひげの男。男は革袋を父に放ち、娘をもらいうけると言った。金貨に目が眩んだ父はすぐさま譲ると応えたものの、3人の兄が抵抗する。しかし、すでに妹は青ひげの腕に抱かれてしまっていた。拒むなら、父を踏み潰し、お前の喉を裂くと少女を脅す青ひげ。必ず助けに来てと、妹は兄たちと約束し、青ひげに拐われていった……。
 かくも有名な「青髭」の物語だが、グリム兄弟版はシャルル・ペロー版からしてみると印象では押し負けてしまっているだろう。それもそのはず、グリム兄弟が著した『グリム童話集』、1812年の初版にこそ『青ひげ』は収録されていたが、2版以降は「人殺し城」とともに削除されてしまっている。そこにはペローのそれが有名であったことと、グリム兄弟自身が内容に不満を持っていたからだという。本作の初出『絵本・新編グリム童話選』解説によれば差し替えられた「フィッチャーの鳥」は、青髭の代わりに惡魔が娘をさらう物語で、「女性に開けてはいけないという禁止の罠をかけ、殺していくという話のモチーフはかわりがないが、「青髭」や「人殺し城」の女性にくらべ「フィッチャーの鳥」の女主人公のほうが、よりアクティブに運命にたちむかい行動している。」とのことである。グリム自身、ペロー『青髭』こそ最上の『青髭』譚であると認識し、「妻を次々に殺すモチーフとして、『千夜一夜物語』冒頭の初夜に妻を殺すサルタンを想起させる」と自註している。
「青髭」という話はそもそも200篇を超すグリム童話を分類した際には、少数派なモチーフで構成されている。『絵本・新編グリム童話選』巻末のエッセイ『グリム童話とグリム兄弟をめぐって』のなかの一、ジェンダー視点でのグリム童話研究者である武庫川女子大学教授・野口芳子「グリム童話の“悪人”――継母と魔女」に詳しい。そこで示されている統計をまとめると、
 老婆の出現回数:178回(うち魔女:54回、継母:34回)
 老人の出現回数:47回  (うち小男:14回、男:10回、父:8回)
 悪人女性 〃 :36回
 悪人男性 〃 :23回
 父という存在については、河合隼雄はこう論じている。「父なるものは、切断の機能をもつ。それは母なるものが一体化するはたらきをもつのに対して、物事を分割し、分離する。善と悪、光と闇、親と子、などに世界を分化し、そこに秩序をもたらす。」
 本作の場合、母なるものは存在せず、実父と青髭という2人の父なるものが現れることが分かるだろう。秩序の実行者となるのが3人の兄である。この3という数字の象徴的意味である「正反合の図式に基づいて、対立するものの統合ということがまず考えられ、キリスト教の三位一体の象徴と結びついて、ますます精神的な統一を表すことが強調された。これに対して、ユングは夢内容の分析を通じて、無意識から算出される象徴としては、むしろ4が完全統一を示すことが多く、3はそれに至る前の力動的な状態を反映していると主張した。」ということを踏まえれば、「今までの規範性の体現者としての王は何らかの意味で危機におちいっており、それを改変し救うものとして、新しい男性性のダイナミックな動きが必要とされている状態」であると思われる。これらの点、ペロー版では姉が登場し、兄も2人であることを考えると、よりグリム童話の象徴性がにじみ出てくるだろう。
 ところで『青髭』を語るうえで欠かせないのが、そのモデルとなった人物だろう。ジル・ド・モンモランシ=ラヴァルまたの名を、ジル・ド・レという。
「1404年の終り頃、アンジュー地方にあるシャントオセの城館で生まれたことが記録に残っている。ジルの家はフランスの古い名門の血統で、彼が生まれたのは、「黒い塔」と呼ばれる城中の一室だった。
(中略)ジルが10歳になると、父親は狩でイノシシの牙にかかって死に、母はそれからまもなく、ジルと弟を棄てて別の男と結婚してしまったので、母方の祖父ジャン・ド・クランが幼い兄弟の後見人となった。(中略)この老人は、いかにも封建社会の頽廃を一心に集めたような、物欲と野心にかたまった堕落貴族の典型で、幼いジルにきわめて悪い道徳上の感化を与えた。」
 そんな少年時代を過ごした彼は一方で、「15世紀における文芸愛好家として有名な大貴族(中略)と肩を並べられるだけのディレッタント」でもあったという。その後、「自前の費用で軍を起し、あの救国の聖女ジャンヌ・ダルクを助け、アンジューやメーヌの地方に転戦して、幾多の功労を立てたことが知られている。」。その後、彼は趣味的生活に溺れ、いよいよ後世に伝わる嬰児殺しを犯すまでに至るのだが、詳細は澁澤龍彦「ジル・ド・レエ侯の肖像 Ⅰ~Ⅳ」などの文献を参照していただきたい。ここで思い出すのは「陽はまた昇る」に登場したベルトランという名の騎士である。モデルとして挙げたベルトラン・デュ・ゲクランは、ジルの父・ギー・ド・ラヴァル2世の義理の伯父にあたる。「陽はまた昇る」で描かれたベルトランの惨憺たる行為の数々は、子孫であるジル・ド・レから遡及していったものかもしれない。
 さて、元となる話の忠実なる語り直しである本作であるわけで、これ以上踏み入ることは避けよう。より専門的な『青髭』研究の畑を荒らすようなものである。
 したがって後世の繋がりを少しだけ紐解いておこう。『青髭』を題材にしたものとして先にも触れたメーテルリンクに『アリアーヌと青髭』という戯曲がある。青髭の6番目の妻としてやって来たアリアーヌが、禁じられた鍵を使って殺されたとされる5人の妻を城内を探しまわるという話だ。これは先の『ペレアスとメリザンド』と姉妹編ともいうべき作品であり、作中でパロディが見受けられたりもする。
 次いで、バルトークのオペラ『青ひげ公の城』。こちらも新妻であるユディットが、殺されたと噂の3人の前妻を探して7枚の扉をめぐる話である。拷問部屋―武器庫―宝物庫などを経て、最後の扉に現れた3人の妻の美しさとユディットの悲劇、そしてラストの青髭の科白が印象的である。シナリオはハンガリーの作家バラージュ・ベーラによるもので、『アリアーヌと青髭』が執筆のきっかけだという。
 そんな『青ひげ公の城』をさらに下敷きとしたのが寺山修司の同名戯曲である。こちらはバルトーク版青髭の科白から仄めき立つメタ的な趣向をさらに研ぎ澄まし、さらに派手に仕立てあげたものである。ここではもはやオペラ『青ひげ公の城』は役柄と役者を描き分けるための背景にされ、主人公は新妻ユディットを演じる“はず”の女優である。青髭は台本と衣装のみとなり実物は登場しない。結果的に、役柄と役者という虚構と現実のあわいに放り出されて終わるのだが、それこそメタ的「残酷絵」巻とも呼べるだろう。
 と、ここまではWikipediaにも載っている項目であるが、今回の〈影〉の主役である中井英夫氏にも同名の短篇がある。こちらはバルトークのオペラからインスパイアされていると思しき一篇で、赤緑色弱を抱え、嫁ぐ希望を失った女・葉室麻子が知人である夫人の別荘へと赴いた矢先に少年と知り合い心惹かれてしまう。麻子は少年と親睦を深めるうちに、自らがもつ「少年時代の青髭」というイメージを少年のなかに見ることになる……。
「少女期は、(中略)童話だけが慰めになったが、それも、アンデルセンやグリムの主人公たちを、勝手に置きかえ、並べかえして作りあげる城のほうが大事だった。麻子はそこの城主であり、童話はむしろ、異国からの貢ぎ物に近かった。」というだけあり、さながら〈少女外道〉の言葉を付したくなるほど皆川作品風の女であるが、その実、オペラはオペラでもソープオペラ的な作品である。やがて「青髭」というイメージが少年ではない者と重なっていくことで、「幼児殺戮者」たる「青髭」の物語を根底から覆すかのようなまさに〈少女外道〉という言葉が似合ってくるかのような、もしくはU……とそれはさておき。
 ここで強調しておきたいのは、やはり皆川女史と中井英夫氏の(作家としての)境遇である。「青髯公の城」は1969年『中井英夫作品集』に収録され、巻末に「作品ノオト」と題された作者解説が付してあった。
「青髯公の城(1964)
『虚無』のあと、恋愛心理小説を、という文芸雑誌の注文で、忽忙の裡に書きあげた作だが、筆のすべりが注文主に気に入らなかったかして、そのままになった。今回やや手をいれてみたものの、さまざまな自重は免れない。」
 ということで、塔晶夫名義で「虚無への供物」上梓のあと、「あなたは純文学が書ける人だ」という編集者の勧めがあったそうだ。「書きたいことは書くな」と言われ、泣く泣くミステリ小説を書き続けてきた皆川女史に重なることは言うまでもない。さらにムック本『中井英夫――虚実の間に生きた作家』には「青髯公の城」より前に執筆した「人魚姫」が収録されている。これが実質デヴュー後第1作であるという。「人魚姫」から「青髯公の城」へ――?
 もしやこれも、闇の貴族たる、詩神・魔王たる「人間を超えた知恵によって仕組まれていた」ものなのか。――いまここに、闇から「人魚」と「青髭」が立ち現れる2篇がこうも立て続けに収録されていることは。



 招かれて美しい旅に出たとは
 言はない言はないけれど夕べ
 夕べ砂の上の筵に臥す時には
 微かに通ふ風だけがなぐさめ
 その風はどこからどこへ吹く
 海の上に消えて行くのは記憶
    面影も薄れたみじめな
 遅い   戀の餘波の曇り日
 月の出に   天の裂目から
 いらいらする   腥い風が
 この旅は終るまい   吹く
 蕁麻の枕が髪にからみ
 やすらかに眠つたこともない
 逐はれる夢刺される夢刺す夢
 さすがに暁はわづかな假睡に
 ちちはははらからの顏が浮ぶ
 白妙の袖を翻して手も振らず
 黄泉へ吹く風に乘つて消える

 袖に吹けさぞな旅寢の夢も見じ思ふ方より通ふ浦風
                      定家


 さて、世にも稀なる「純粋幻想小説集」掉尾を飾るのは、日本ミステリー文学大賞受賞のあかつきに特集の組まれた『ジャーロ2013春号』に掲載された受賞記念特別短篇。本書収録作中では最新であり、本書刊行と同年に発表された唯一の作品である。
※なお、本書解説では「現在のところ、著者最新短篇」とあるが、これは誤り。『オール読物 2013年8月号』に「夏を病む」が掲載されているので、最新短篇といえばこちらになる。
 また、「宿かせと刀投出す雪吹哉―蕪村―」、「希望」を挙げて「内容や発表時期の関係で収録しきれなかった」と解説にはあるが、その2作は別としても『異形コレクション 物語のルミナリエ』に収録された「そ、そら、そらそら、のダンス」が割愛されているのは実に惜しいことだ。野口雨情の歌詩を題にし、わずか文庫本1ページの作品であるが、その奇抜な幻想は「結ぶ」や「釘屋敷/水屋敷」にも登場した奇想と同属のものである。同じ光文社で刊行されているものだけに本作が収録できて、そちらの収録が叶わないというのにはいささか首を傾げる。さては今後さらなる「純粋幻想小説集」が編まれるのかとか期待が高まる一方で、文庫落ちしていないものという制限がある『皆川コレクション』はないにせよ、妙な場所での収録となるのは心苦しいものがある。
 なにしろ
そ、そら、そらそら、のダンス」の兎というモチーフは、本作「連禱」で名を挙げられている“作家”と大いに関連を見つけることが出来るからだ。本作そのものには関係ないにせよ一冊の本として、解釈の可能性を削られてしまった。
 とまあ、私怨はそのへんにしておいて、「影を買う店」にはじまり本作で〆るという構成はなかなかキマっていることは確か。それは後述することにして、先に進めよう。
 僧侶が祭壇に靴を捧げる。老婆が歌う。死も眠りもない老婆たち。かつて、法定に乗りこみ銃を乱射した老婆たち。隊に取り囲まれ返り討ちにあったものの若者の姿で蘇った老婆たち。老婆は新宿を進む。都市が崩壊しても尚死なぬ老婆たち。
 十字に割れた頭のなかから、目玉がクバルガイを見つめなおす。涙を流し、頭蓋は水槽になった。湖になる前に目玉は溶ける。
 祭壇に天井はなく壁もない。非在が存在し、天と地は無限の平行平面。上は下、天は地。幾重にも重なる。陽は昇らず、沈まず。先頭に立つ者は死ぬ。栄光は二番手に。死が欲しければ、先頭に立つ。母はぼろ布でクバルガイを造った……。
「魔王」「青髭」から続く泰西の説話をイメージすると足もとを掬われかねない。もはやここはどこでもない場所。しかし、どこでもある場所なのだ。冒頭から犇めき、押し寄せ、雪崩れ込んでくる歯切れのいい、奇怪な叙述。ただしこれを無から生まれたものと思ってもいけない。副題と献辞によって、この物語が2人の作家による2人の物語のトリビュートであることは明示されている。
 まずは劇作家・清水邦夫による戯曲「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」。今年5~6月には蜷川幸雄ひきいる演劇集団《さいたまゴールド・シアター》によって国内凱旋およびパリ公演まで為されたという。チャリティショーの舞台で歌唱中の女性歌手めがけて手製爆弾が投げ込まれた。群衆によって拾っては投げ捨てられた爆弾は、2人の青年の手に落ち、パスが狂った爆弾は関係者席へ。青年は逮捕され、裁判にかけられることとなった。青年の祖母を含めた総勢16人の老婆はホーキ、コーモリ、三味線、モノサシ等の武器を手に法廷に侵入、裁判官や弁護士を人質に籠城する……。
 本作の老婆たちはここに登場する16人の老婆(鴉婆、虎婆、かいせん婆、はげ婆、とむらい婆、いわく婆、ばくだん婆、三味線婆、おぼこ婆、すがめ婆、絶叫婆、ノーパン婆、どもり婆、そうじ婆、おっぱい婆、さみだれ婆)なのである。本作ではさりげなく、そして大いに「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」のネタバレをしているのだが、終盤、警官隊の突撃を受け、銃弾の嵐のなか、老婆たちは恐怖にひしがれていく。しかし、2人の青年の祖母であり老婆衆のまとめ役でもある鴉婆と虎婆が立ち上がった。そのラストシークエンスを引用してみよう。

虎婆 なにをぶーたれてんだい、死ぬんじゃない。くたばってたまるか。生きるんだ、若者の血をよみがえらせて生きるんだ……
鴉婆 (身を起し)真の闇よ……日本の一万年前にあった真の闇よ……あたしたちの憎悪をはぐくんでくれた真の闇よ……あたしたちに甦る力を与えておくれ。
  その声に、逃げ腰の婆たち、あちこちで踏みとどまる。
  異様なうめき。
  その時、集中弾が法廷の背後にあたり、大きな柱がどっとくずれる。
  銃声がやむ。
  と、世界が切り裂かれる。
  そして、天井から細いキラキラしたガラス状のものがいっぱいに降ってくる。
  その中で、老婆たち全員が、屈強の若者あるいはりりしい美青年に変身していく。
  立ち上る若者たち。
  全員、素手で前方に向う。
かいせん婆 鴉よ……
はげ婆 恥でくろく身を染めた鴉よ、
いわく婆 おれたちの日々の鴉よ、
鴉婆 鴉よ、
とむらい婆 鴉よ、
虎婆 鴉よ、
ばくだん婆 おれたちは弾丸をこめる。
  前方の闇に肉薄していく若者たち。
  一斉射撃。
  全員射ち殺される。
  静寂。

 本作では射ち殺されたあと若者たちがまた立ち上がり、新宿の町を歩き出す。そして再び老婆に戻っていくのだが、ここで頭蓋を割るという行為が持ちだされる。「円規の針を頭頂に刺し、円弧を描けば。自ずと十字に割れます。頭蓋がケルト十字を思い起こすからです。嘘つけ。思い起こすなら轡十字だろう。」という一節があるが、キリスト教以前に起源をもつケルト十字、轡十字は江戸時代に信仰を禁じられたキリスト教徒が十字架をカモフラージュした家紋であったことから、「魔王」と共通するキリスト教と旧教との対立をかいま見る。
 他方、フランスのSF作家アントワーヌ・ヴォロディーヌ『無力な天使たち』。著者略歴によれば「初期はSF的な作風だったが、90年代以降はみずからの文学実践を「ポスト=エグゾティシズム」と命名し、この架空の文学カテゴリーに属する作品を複数のペンネームを使い分けながら発表し続けている。作風はカフカやマジック・リアリズムの影響が色濃く、政治性と幻想性がないまぜになった独特な世界を創造している。」とのこと。
『無力な天使たち』は、「全面的にポスト=エグゾティシズム的なテクストを、私は物語(ナラ)と名づける。私が物語と呼ぶのは、ある状況や感情、記憶と現実ないしは空想と回想のあいだの葛藤を定着させるロマネスクなスナップショットのことである」という序文のとおり、『無力な天使たち』は49篇の短い断章によって構成されている。世界を断片的に切り取った断章は、規則に従って配置され、「例外的に長い25章を中心に、その前後の部分が照応し合う合わせ鏡のような構成になっている」という。さらに、これらの断章が作中人物によって語られたものという入れ子構造になっている。
 作品の前提にある「ポスト=エグゾティシズム」とは何たるかについては原書の訳者あとがきに詳しい。
「「エグゾティシズム」、すなわち異境的なものへの関心 は、歴史的には西欧からその外部へと向かう支線として見出されたのであり、そこでは彼我を分かつ境界線が自明なものとして前提されていた。ポスト=エグゾ ティシズムはそのような態度の乗り越えとして構想されたと言うことができる。それはこちら側と向こう側という世界の切り分けが不可能になり、異質なもの同 士がモザイク上に入り組んだ世界、いわばあらゆる場所が異境となった世界における態度なのである。ヴォロディーヌは、ポスト=エグゾティシズムを「他所か ら出発し他所へと向かう文学、さまざまな傾向と潮流を受け入れる異国の=異質な(エトランジュール)文学」だと述べている。」
 前半だけ取り出せば、日本でいうところの彼岸と此岸の区別がない世界、まさに皆川女史が描く幽明一如の世界観にほど近い。構成の妙や世界観へのこだわり、それぞれに特色際立つ長篇小説をものしている皆川女史が目をつけるのもむべなるかなといったところだろう。
『無力な天使たち』を構成する49篇は、それぞれ人物名が題された明快な繋がりをもたない断片である。よって踏み込んだ概要を書くのは憚られる。原書の扉に書かれたあらすじで代用する。ぼろ切れから生み出された「救世主」、荒廃した世界で資本主義を復活させたヴィル・シャイドマンが、生みの親である不死の老婆達に語った、49の断章からなる、結末を欠いた奇妙な物語……。これだけでもうあからさまなトリビュートを感じうるのだが、なかでも特に第10章がメインの引用元となっている。
 本作を一読してまず思ったのは、クバルガイってなんぞや、ということだった。検索しても出てこない。辞書を開くにも検討もつかない。だが、幽霊の正体見たりなんとやら。10番目の断章こそ、「マリナ・クバルガイ」と言うのだった。そして中身を呼んで唸る。

 ニコライ・コチクロフ、またの名をアルシオム・ヴェシオリ、ここに眠る。彼を殴った乱暴者たち、および彼を撲殺した乱暴者たち、ここに眠る。警官どもによって祭典が中断されたとき、コムソモールのマーチを奏でていたアコーディオン、ここに眠る。血だまり、ここに眠る。誰も飲み終えず、誰も拾わないまま、長いこと壁の下に放置され、何週間も何ヶ月も濁った色の雨水がたまり、約1年後の1938年5月6日にはその中で2匹のスズメバチが溺死したお茶が入ったグラス、ここに眠る。
(『無力な天使たち』「10 マリナ・クバルガイ」より)

 祭壇に靴を捧げた。踵は磨り減り、つま先は破れていた。僧侶が、クバルガイの頭に口づけした。長靴おっ母さんここに眠る。クバルガイの頭の十字に裂けた傷口は、涙の色の水を湛える。
 老婆たちが歌う。長靴おっ母さんここに眠る。羨望にみちて、老婆たちは歌う。老婆たちには死も眠りもない。長靴おっ母さんここに眠る。
(本作より)

「魔王」における人魚の歌に近いバックグラウンドポエムとなっているものの、詩華のパッチワークを思わせる「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」と『無力な天使たち』「10 マリナ・クバルガイ」が巧みに融け合わさっている。
 そもそも「マリナ・クバルガイ」の章における先に挙げた眠りについたものたちはすべて、マリナ・クバルガイが「記憶に刺繍をほどこすために」行っている「聯禱」により繰り返される記憶の断片である。これを「救世主」ヴィル・シャイドマンの祖母レティシア・シャイドマンが語っているという体だ。聯禱での言及が多いアルシオム・ヴェシオリという作家は、対をなす「40 ディック・ジェリコー」の章では「世間的に評価はされていないが重要な小説家」の一人とされている。マリナ・クバルガイは彼が、共産党の祭典に赴いた矢先にスターリンによる政治弾圧「大粛清」の一端である暴動に巻き込まれてしまったがため、引き裂かれてしまった恋人であった。2世紀以上にもわたって聯禱を続けているマリナ・クバルガイは、かつての若々しい魅力を失っていた。彼女が聯禱によってみずからの死の記憶まで掘り起こすさまを、レティシア・シャイドマンは淡々と観察している。
 さて、注目すべきはこのレティシア・シャイドマンである。章を遡って、6章と7章を見てみよう。
「6 レティシア・シャイドマン」では、レティシア・シャイドマンが200歳の誕生日の日に孫をつくるという宣言をし、それを実行するところを描く。
「彼女たちは、その頃から、自分たちが決して死なないだろうことを知っていた。」
「失われた平等主義の楽園を根本から立て直すためには、彼等の大多数は抹殺されるべきだったと考えていた。ヴィル・シャイドマンの誕生はこうした観点から検討された。老婆たちは集団でしかるべき復讐者をつくり上げようとしたのである。」
「彼女は共同寝室に布切れや糸くずのかたまりを集めた。(中略)それら収集したものを整理し、ぎゅっと押し固め、クロスステッチで縫い、胎児をつくりあげた。」
「夜になると、老婆たちは個室や共同寝室に集まった。彼女たちは体を寄せ合い、全員で一つの存在、凝縮された一人の祖母になろうとしていた。」
「7 ヴィル・シャイドマン」では、そこで生まれた胎児が成長した後の顛末を描く。
「4、50年後、レティシア・シャイドマンは、自分の孫を罰するための法廷で議長を務めた。」
「黄ばんだような色の小さな窪地の中心に、シャイドマンを縛りつけておく柱があった。」
「審理が繰り返されたが、すべてはあらかじめ決定済みだったので、ひどく退屈だった。」
「彼は自分で自分の弁護をしていた。」
「老婆たちは羊の毛皮にくるまっていた。(中略)垢だらけのマントの裾には異様な刺繍が入っており、さらには彼女たちの手の皮膚にも、あるいは頬の皮膚にさえ、同じように刺繍がほどこされていた。彼女たちはおしゃれをすることを完全に忘れたわけではなかったのだ。」
「祖母たちは肩をすくめた。」
「資本主義が復活する以前の、組合の集会や養老院での夜会の思い出に没頭していた。ヴィル・シャイドマンを射殺するために残っている銃弾を数える作業に没頭していた。」
「今晩の計画を練ることに没頭していた。その計画というのは、羊の乳を搾りに行き、羊の糞を集めて乾燥させ燃料をつくり、テントの中を片づけ、凝乳をかき混ぜ、ストーブをつけ、お茶を淹れる、というものだった。」
 それぞれの終となる章は、「43 マリア・クレメンティ」と「44 リム・シャイドマン」。
 前者は、ヴィル・シャイドマンが語った49個の断片的な物語(ナラ)を集成したものに、『無力な天使たち』と題付けることを提案する。自身が著したあるロマンスと同題である。やがて、いつか朗読することになる『無力な天使たち』がそのどちらなのか判断つかなくなった彼女は、「老婆たちと同じように、永遠に終わらないものを前に途方に暮れた。」
 後者は、アルシオム・ヴェシオリの転生後ともいうべき何らかの関わりを匂わせる、演説家であり、旅人であり、殺し屋であるヴァルヴァリア・ロデンコと、真の意味での「救世主」――「秩序と収容所と博愛を打ち立てることになる」リム・シャイドマンとの邂逅を描く。「12 ヴァルヴァリア・ロデンコ」では「彼女こそが火花をはじけさせ、大地をふたたび燃え上がらせることになるだろう。」と太陽的なシンボルとして描かれようとしている彼女も、こちらでは「枕元のランプを破壊しようとして」物語から去る。「何度も床に投げつけたが、ランプは壊れずに転がるばかりだった。彼女はそれを血まみれの手で拾い上げ、スイッチを切った。」
 さて、長々と引用遊戯を極めてきたが、本作での活用に目を瞠るばかりか「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」との不思議な符合に唖然とするだろう。どれもこれも資本主義や政治圧力への復讐譚でもありながら、不死という人間にとっての永遠の夢あるいは悪夢に魅せられ、永遠に囚われていくさまを描いている。不死というテーマを際立たせるために、〈老い〉があることは言わずもがなだろう。とりわけ本作の主人公にも引用されたマリナ・クバルガイは〈老い〉を凝縮したような人生だった。
 そして、〈老い〉というテーマを明かしてしまえば、ここまで紹介してきた2作と併記させられたとある“作家”――“女流作家”ではない――が立ち現れてくる。これまで何度か本稿でも引用の種にしてきた澁澤龍彦の元妻であり、童話翻訳の第一人者、そして――森茉莉のドッペルゲンガーよろしく、本作の献辞にも記されているとおり「不滅の少女」たる矢川澄子女史である。
 先に「そ、そら、そらそら、兎のダンス」との関連と嘯いたが、矢川女史ほど兎に囚われた作家はいないだろう。物語が物語を生み、寓話調から「かぐや姫に関するノート」、そして戯曲調へと発展変異を遂げていく作品世界に兎が飛び跳ねる長篇『兎とよばれた女」のみならず、詩篇や未刊短篇にも多く兎というモチーフは登場する。その傍らにアリスという名の「不滅の少女」がいることはさておき、「ルイス・キャロルにあやかってアナグラムをこころみるうち、わたしの名まえのなかには偶然USAGIが潜んでいることを発見した。」(「《名ノ謎唄》のあとさき」より)というアリス的ラビリンスからの恩恵は天性のものかもしれない。
 あまり深くは語らず、エッセイを取りまとめた『いづくへか』から数篇を取り出して、この項の〆としたい。

 子供を受け入れる環境が、胎内とおなじ安らぎと温もりを与えてくれるのであれば、その子は幸せだ。のびのびと、くつろいで、屈託のない子供に育つだろ う。反対に、オヤたち自身が心うちとけず、ぎくしゃくした関係をもてあましているとすれば、敏感な嬰児の魂はたちどころにそれを嗅ぎつけてしまう。
 むかし神谷美恵子氏の文章にふかく共感させられたことがある。神谷氏は人生最初の記憶として、乳児期に感じた「飢え」を率直に語っていらしたのだ。
 一見、恵まれて何不足ない環境に生まれ落ちたかに思われるお嬢さんに、そのような体験があったとは。いまのわたしにはあのような告白を記された神谷氏の心境が痛いほどわかる。
(『私空間』「ホームとハウス」より)

 創作意欲としての〈飢え〉とも覚えるクバルガイの「飢え」とここに挙げられている「飢え」は根本的に異なるのかもしれない。むしろ『私の父、私の母 Part2』というエッセイに皆川女史が寄せた「医学と超能力と」で強調される親子間の軋轢に近いだろう。
 このエッセイの依頼があったとき、はじめ、ご辞退した。親を謗る言葉は書きたくないし、読者としても、読まされるのは、快いことではないだろうから。 親との葛藤の時期を、私はいまだに、冷静に距離をおいてみることができないでいる。 すでに、両親とも老いた。過去になにがあろうと、いたわりの目で見るのが当然だと自戒しても、親について書こうとすれば、みぞおちが痛くなる。この年になれば、とっくに溶け消えていい感情だ。
(『私の父、私の母 Part2』「医学と超能力と」より)
 しかし、「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」、『無力な天使たち』と祖母と孫の関係が描かれ、父母の不在については蔑ろにされている点などに、女史特有の視点があるとは思えないか。意識的なものではないかもしれない。いや、ほとんど無意識と言ってもいいだろう。しかしこの無意識が、創造性を育成たらしめるのは間違いないのである。

 少女と老女。両者に共通するものはなにか。
 大ざっぱに生物学的相違からいえば、破瓜以前と、閉経後と。妻になり母になりといった表現はあまり用いたくないのだが、いずれにせよ、婚い、孕み、生み、育て、といた種族維持のための繁殖の義務からは当面解放されているという点ではどちらもおなじであろう。
 女性にかぎらず、少年期と老年期と。その間にはさまる3、40年というものは、つめたい言い方をすれば、ヒトはただただ自然の盲目的な意志につき動かされて生殖のいとなみを繰返しているにすぎず、それだけならばまだいいものを、幸か不幸か文明化された社会では、そうした生まの獣性を取りつくろうためのもろもろのペルソナをおしつけられ、おふくろとかおかみさんとか、ウカレメとかミソカメ(味噌・甕ではありません、念のため)とかいった役割をせいいっぱい演じながら、がたがたとせわしなく時を過すというのが、少なくとも20世紀中葉までの大方の女たちの生きかたではあった。
 一人前の女。女ざかり。ことばはいろいろあろう。そして人間の寿命がいまみたいに莫迦々々しく引延ばされるまでは、少女と老女とはこうしたいわゆる「女の一生」のうちの、ほんの両端のはみだし部分にすぎなかったのだ。
 これからはちがう。はみだし部分の比重が確実に大きくなってきている。二度童子とかいうべんりな形容があるけれど、今後はよい意味での二度目の少年期、もしくは一生つづくその季節を積極的にたのしむためにこそ、少女というものの本質がもう一度見直されてしかるべきであろう。
(「使者としての少女」より)
「本当に「死んでいる」と意識したのは……結婚してからですね。結婚する少し前から、自分はもう何もできないんだ、という感じで、何もできないのなら、死んでるのとおんなじだ、と。思いあきらめて、結婚して子供を産んで、子供を育てているあいだも、もう私は死人なんだから……という。」
(『ホラーを書く!』より)

「物心ついたときは、すでに物語の海におぼれていました。おぼつかない手つきで、自分でも紡ぐようになって、ふと気づいたら、40年を経ていました。八十路に踏みいった生の半ば近くになります。踏み跡は葎に消え、創り出したものの中には、再読に耐えぬ醜いものもあり、そのとき、この大きい重い賞をいただくことになりました。これに勝る励ましがありましょうか。」
(「第16回日本ミステリー文学大賞受賞のことば」より)
『無力な天使たち』のマリナ・クバルガイに、レティシア・シャイドマンに、女史の心根を重ねるのはたやすい。本作は皆川女史が2度目の少女期を迎えた宣言であるといってもいいだろう。それは「退行」ではなく、〈老い〉を受容し「積極的にたのしむ」ようになった謂である。「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」に登場する語を引用して表現するならば、本作「連禱」は皆川博子「80歳のロマンチシズム」の結晶である。



 鴉よ
 今日も火の空をとんで
 恥で
 くろく身を染めたからだを
 燃える
 街の炎で焦す
 鴉よ
 今日も街の戦場で
 くろく
 身を横たえる無名戦士を
 燃える
 街の炎で葬う
 鴉よ
 おお おれたちの愛
 鴉よ
 おお おれたちの死
 鴉よ
 おお おれたちの日々
 鴉よ………

(清水邦夫「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」より)



 一穂さんは悲しく
 順三郎さんはさびしい 

 修造さんははなやぎ
 由紀夫さんはあわれ

 詩人たちは貧しく
 男たちはよわい

 子供たちはたわむれ
 そしてたがいに傷つく

 わたしは女の子
 母たちはさかえ
 石女だけが美しくほろびることができる

(矢川澄子『ことばの国のアリス』「ふしぎの国」より)



       天の涯まで雨
     天使が鼻唄を歌ふ
   雨が降ります雨が降る
 ノアの洪水はいつ來るのか
       天使はめくら
     あの洪水なら夙に
   始まつてもうおしまひ
 溺れた人の魂が浮び薄靑は
       赤ん坊の浮標
     それも神の寵の中
   惡魔も逃げ損つて流れ
 ソドムもゴムラも皆水の底
       高見の見物の
     神は天河に御逗留
   惱みも欺きも關りなし
 五月五月雨寢亂れてくらす
       薄靑の浮標が
     核分裂をはじめた
   神の留守の十月までに
 牽牛花のやうに殖え續ける

 天の川八十瀨も知らぬ五月雨に思ふも深き雲のみをかな
                        定家



『影を買う店』/皆川博子・補遺に続く。



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