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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『影を買う店』/皆川博子・前篇の2

『影を買う店』/皆川博子・前篇の1 の続き。




 どんな家にもその家の者だけが知る「秘密」がある。
 他人には決して漏らしてはならない「恐怖」がある。

「釘屋敷/水屋敷」が収録された家にまつわる怪談競作集「怪しき我が家」はその文句から始まる。専門誌『幽』絡みの怪談作家が名を連ねるなか、巻頭に現れたこの作品で度肝を抜かれた読者も多いだろう。併録された作家たちもまっさきにこんな奇想怪談の傑作を載せられたんじゃ一溜まりもなかったのではないか。
 それぞれの屋敷の名を題につけられた2つの章。
 まずは、〈釘屋敷〉。すれ違った釘屋敷の若のあとを着いて行こうとする千沙を、ツルは制止した。結局、千沙は着いて行った。土手を歩いて行くと、藁葺屋根の屋敷が見えてきた。若に続いて屋敷に入ると、土間を抜けた座敷の真ん中に鋸のように釘が突き出ている大きな柱が立っていた。抜いてみろ、と若が言う。おそるおそる千沙は釘を抜こうとする……。
 そして、〈水屋敷〉。奥座敷の真ん中に掘り抜き井戸がある。水屋敷の姫・ツルは井戸が室内にあるのはおかしいと、千沙に言われる。うちで預っている親無しのくせに、遊んでやっても千沙はありがたがらず、石蹴りでさえつまらないと言い捨てるほどだ。10畳間の中央、朱塗りの竹で縁取られた井戸。水面は四尺も下にあり、深さは分からない。大人たちは井戸にツルが近づくことを喜ばない。身を乗り出していると加江婆っぱに追い払われてしまった。敷居をこえたところで、釘屋敷の若と出会した。若は何ヶ月かに一度、包みを抱えて水屋敷にやって来る。ツルは、そんな若に恐怖を感じていた……。
 秘密。もっとも怖ろしい秘密は、自らが生きる世界に関する秘密だ。自分が普段気づかないだけで、自分の知らない世界が〈影〉のようにこの世界のすぐそばに存在しているのかもしれない。傍らも怖いが、足元も怖い。文字どおり足場が揺らぐ真相が待っているのかもしれない。大人たちは教えてはくれないだろう。子どもの知らないことはたいてい大人たちが知っている。けれど、教えてくれるとは限らない。教えてはくれないくせに、釘を差されて遠ざけられて、水を差されて誤魔化されてしまう。秘密を知ることはイニシエーションなのかもしれない。我が家を、知ることは、自らの世界を知ることになる。覗きこんだその深淵は〈井戸〉のように深い。
 地底の世界が地上の世界を支えるように、秘密は個人の意識の底のほうに存在して、個の存在を強固にするための支えとなっている。
 けれどその深淵がすべてを明らかにするとは限らない。〈穴〉はなんでも呑み込むのだ。むやみに覗きこんだらきっと自らも呑み込まれてしまいかねない。呑み込まれたら〈無〉になるか、〈無〉は〈無限の有〉とも呼べる。2つの座敷の凹凸――柱と井戸、は互いが互いの(生命の)入口であり出口であるという解釈も可能だ。ただし答えは出そうにない。始まりが終わりとなるこの物語と同様に、問答は永久に解決しないのだ。だから好奇心は棄てた方がいい。人は、生き死にに纏わるルールなぞ、知ろうとしない方がいい。


「沈鐘」の〈井戸〉は、釘も呑まなきゃ、鐘も沈まず、往々にして人を呑みこむ。
「おもいで・ララバイ」(『たまご猫』所収)で主人公の女が突き落とされる〈井戸〉も、記憶や秘密、犯罪などを呑みこむほど深かったのだが、こちらもまた深淵。
 蔵の中。土間の物陰にある井戸を「振袖井戸だ」と彼は言った。両親と姉を空爆で亡くした9歳の少年が地方の豪農である遠縁の元に預けられた。広い土間を散策していると家の者に怒鳴られ、蔵に閉じこめられてしまった。蔵の中で、錦紗に似た着物を見つけると、つい着てみる少年。姉が正月に着ていた物と似ていた。かすかなうしろめたさが生じた。さらに歩きまわって、井戸を見つける。井戸には蓋がなかった。水面に彼の顔、背後に筒袖の着物の男がそっと立っていて、「振袖井戸だ」と言った……。
 さて、「釘屋敷/水屋敷」の変奏、あるいは時代小説のパターンかと予想すると外れてしまう。これは実に濃密、呑舟之魚と言わんばかしの一大スペクタクル絵巻(恥 なのだから。それもそのはず源流は象徴主義の名品と謳われるドイツの作家ハウプトマンの「独逸風の童話劇」、且つそれを泉鏡花が登張竹風とともに訳した『沈鐘』にある。そしてその引用の仕方はそれこそ童話劇さながら、登場人物の語りと身のこなしによって反復されるのだ。
 井戸への身投げの話から、少年が着ている着物が山のお姫様のものであると男の話は転じていく。山姫こと朗姫(ラウテンデライン)と埴生理非衛(ハインリヒ)と、かつてその話を教えてくれた誰かと自身とを交錯させて語る男。『沈鐘』の物語と、その誰か――くにさん、そしてくにさんの相手だった、しいちゃんとの物語、並列して語られるその2つに、男と少年の蜜月が芽生えていく顛末がさらに重なっていく。
 ここでひと遊び。本作本文と、泉鏡花全集から抜き出した同じ箇所を接いでみる。たとえば、原書における第3幕。
 鐘造りは、ふたたび山に戻ってきた。
 白銀嶽の山續き、間近に雪の原展開せる崖の下に、以前硝子の製造所なりけるが、荒廢したる一宇の此の小屋。右の方、鏨崖荊門を開く趣(おもむき)して、巖自(いはおのづ)から壁をなし、空に連る絶壁に、清水の流滾々(ながれこんこん)として白絹を裂いてほとばしり、仕掛けたる土管を通じて、大石を穿てる槽(をけ)の中に、倒(さかしま)に落ちて且つ溢る。
 左の方、巖窟に鐘乳石の簾を捲いて、
「ここが、理非衛が鐘を鋳る仕事場。肉蝦魔も虞修羅も、腹がたってならない。なぜって、呪ひ殺して遣りたいな、ほう。固(もと)より活けて置く奴等でない。いや其につけ這奴(しやつ)、眞以て何者なれば、恁う一統に仇をしをらう? 憎んでも餘りあるぞ。
 先づ早、此の方ども、魔の縄張りの山中へ踏み込み居つて、山を穿つ、木の根を崩す、巖を倒す、――そりや、そりや次第に增長して、鑛金を掘る、地金を焠(なま)す、熔かす、鑄掛ける……仕たい三昧。
(中略)苔、水を搔探して、其處に巢籠る侏儒(いつすんぼし)を、馬代りに虐使(こきつか)ふに、遠慮も會釋もする事かい。」
 へ、へ、魔女の中の女菩薩、天下一美しい姫上めが。(中略)姫の奴、好いた男へ心中立てに、俺が大切(だいじ)な花を盗む。盗むは何ぢや、撫子色の水晶に、黄金に金剛石(ダイヤ)、あらゆる寶石、瑪瑙に琥珀。(中略)
「其の中で、夜晝なし、晝夜ない。姫と申候者(まふしさふらふもの)は、お殿様に附切(つきき)りで、『くつつき通しで 彼の其の、口を其の、吸ふ口で、俺たちを叱るわ、ほうほう』。肉蝦魔も嘆くよ。『彼奴また姫ッ子へ御追從に、冠だわ、指輪だわ、腕飾まで創る騷ぎ。まで其で飽足らいで、姫の、姫の、くわッ、肩、胸のあたりを、撫る、擦る、頰ぺたをやい、嘗めるが、やい。』」     
 加えて、本作には島村抱月の歌も顔をだす。※本作の注釈には西条八十とあるが、何故?
 作中では山姫の歌とされているが、実際は島村抱月による「森の娘」である。
  どこからわたしや來たのやら
  いつまたどこへかへるやら
  咲いてはしぼむ花ぢややら
  むれてはあそぶ小鳥やら
 
  小鳥が森にさへずれば
  母さん知らぬ戀ひしさよ
  花さく春もすぎゆけば
  父さんあはぬなつかしさ
 
  ふた親知らぬ家もなき
  私は森の娘にて
  こがねの髪をすきながら
  小鳥や花とくらそもの
「森の娘」といえば〈カメラマン〉によって函に入れられた男が、地表に突き出た潜望鏡で子どもを肩車した現地ガイドの娘を見つける、『ジャムの真昼』収録の一篇が同名だ。七という数字、鈴の音と通じるのは確かに西条八十作の童謡である。
 山のふもとの/七村に/靑亞麻(あをぬめごま)の/花咲けど、/ひとにわかれた/若者は/今日も今日とて/歔欷(すすりな)く。
 山をめぐれど/戀人は/靑亞麻の/花がくれ、/夢と消ぬべき/銀の鈴/おぼろおぼろに/ゆくときも。
 (『砂金』所収 『遠き唄』「鈴の音」より)
 ところで、まだシュールレアリスムの呪縛が解けないらしい。
 本作の終の会話。
 「いい子だね、しいちゃん」
 「くにさん」
 自ずから男を恋人としての名前で呼ぶ少年の変容は、『去年マリエンバートで』の結末さえ思い起こす。


 e-NOVELSは作品を書籍や出版社から取り戻すためのルネサンス運動だと監修者・桐野夏生は語っている。「陽はまた昇る」収録の『黄昏ホテル』もe-NOVELSから発生した一冊である。画期的な取り組みだと思われたが時期尚早だったか、すでに遺産と化してしまった。「柘榴」は官能小説集『eROTICA』に収録された。
 語り手は女学校2年のわたし。開業医の父や国民学校に通う2人の弟をもつ。本作も作者の“故郷”を担う一作だろう。
 わたしは煙草工場の脇道でお化けに遭った。お化けは長髪を垂らし、前髪を輪ゴムで結わえ、擦り切れた とちびた下駄をはき、ちぎれかけた鶏冠を持つ雄鶏を連れていた。お化けに遭った日は悪いことが起こる。時代は真珠湾攻撃の翌年。下校途中も空襲のサイレンが鳴り響く。逃げ込んだ壕で浅黒い肌の少年のような少女を見つける。よく見ると、同じ制服を着た女学生だった。サイレンが止みそれぞれに帰途につく最中、彼女が歩きながら読んでいた文庫本から一枚の紙片が落ちた。楽譜の下に四行詩。
 音楽室のピアノ目当てに始業前登校したわたしだったが、音楽室には先客がいた。あの女学生だった。扉越しに彼女が奏でている旋律を聴いた私は、はじめて知る感覚を覚える。柘榴の実は他の果実と違ってストイック、自分で自分を作品化した彫刻のような異彩を放っている。彼女のピアノは、体内にそんな柘榴が生まれたような、そしてその赤い実が鳥の群れに変じていくような快感を生んだ。だからわたしは人知れず彼女のことを柘榴と呼ぶようになった。別の手が楽譜をめくった。柘榴の隣にもう一人、少女が座っていた。吉屋信子『花物語』の登場人物から拝借して、わたしはその少女に聖羅と名付けた……。
『eROTICA』ではそれぞれの作品ごとにセミプロ評論家たちによって詳細な解説が附されている。『黄昏ホテル』も同様の趣向を踏襲すればよかったのにというのは別の話し。
 本作については、読書感想サイトの重鎮でもあり同時にヘヴィーな皆川博子ファンでもあるフク氏(UNCHARTED SPACE。筆者も当サイトの皆川博子作品一覧には事あるごとにお世話になっている)が、本作はおろか皆川博子論と言っても構わないほどの熱量で喝破している。全文を載せたい気持ちは抑えきれず、e-NOVELSも消え去り、文庫化もされず、古本屋に置いてあるかどうかも微妙な単行本のみに刻まれている解説のなか、ノートブックであればマーカーを重ね塗りするほどの凄みのあるパンチラインを引用させてもらう。
 これまで発表されてきた皆川作品は、とっくに、そしてずっとむかしから、そのすべてが官能小説だということにある。男性・女性の機能に対する即物的な役割を担う官能(エロ)小説とは確かに違うものの、辞書的な意味での官能、即ち“主として性的な事柄に関する感覚器官の働きによって得られる充足感”は、独自の美学に縁取られたエロティシズムとして、これまでも全ての作品からびんびんに発揮されていた。(中略)
 だれかとだれかを結ぶ愛(男と女という決めつけさえ許されない)のバリエーションは、読者の想像を軽く凌駕して実に無限。そして、矮小な常識を嗤うかのように、インモラルであり、崇高であり、常に純粋なのだ。皆川世界においては、世間のいわゆる常識・良識は常に乗り越えるべき対象でしかなく、主人公の秘めやかな愛は闘いとも見紛う。彼らの裡に秘めた力強さが、またエロティックであり、そして愛を勝ち得るために、当たり前のように別の何かを喪っていく姿はストイックですらある。描き出されるちょっとした心象や、さりげない暗喩や隠喩に閉じこめられた一瞬の煌めきが、その物語の魅力を倍加する―――。(中略)
 だが、この「柘榴」は、そういったもともとの魅力を維持しつつ、また一段の高みに至っているように思える。(中略)
 女学校に通う一人の生徒が「柘榴」と心のなかで名付けた上級生に対して静かに育む禁断にして崇高な愛。(中略)しかし彼女は、まだ青い躰のなかで否応なく、そして無自覚に膨らむ性にまつわるうしろめたい感覚を抱えている。また、時代の道徳律や規範に縛られつつ、独自の活カンを持つがゆえに、友人や世間と根本的な部分で迎合することができない。この作品は、彼女の抱えた、相反する現実と精神の大きなギャップを、一つの世界に括ることで創造された物語。冷酷な現実が精神の官能に侵食され、支配されてできた小宇宙なのだ。(中略)物語が仄かに官能味を帯びているというレベルを超え、官能そのもので世界を創る。一読して分からなければ繰り返し再読し、一つ一つの事象の意味を噛み締めて頂きたい。これこそが皆川博子の「“純”官能小説」なのだから。
 より下層のアマチュア族である筆者が、これに付加することもないだろう。よって重箱の隅をつつくかのような、どうでもいい箇所に触れるに留めよう。
 柘榴というメタファーが彫刻であり、ストイックであると語られてもなお、幻視と語りの魔術は控えを示さない。終いには赤い宝石のような粒粒が鳥の群れとなり、官能と陶酔を呼び起こす。「皆川博子は、物語という何百羽、何千羽もの鳥を胸中に飼う希有の人だと思います」と書いたのは、60歳でありながら12歳でもあり続ける少女を描いた短篇「ざくろ」をものした北村薫氏だったか。(『死の泉』解説より)
 ユング心理学に頼れば、鳥は魂や突然のひらめき、空想を表す。河合隼雄氏のことばを借りれば、「鳥は突然にひらめく考えを表すが、このようなひらめきは、無意識内に存在する心的内容が突如として意識内に出現することによって生じる。このとき、自我はそれを把握し、既存の意識体系とそれをうまく結びつけることをしなくてはならない。ところが、無意識の活動が強すぎて、それが無方向に散乱するときは、自我はむしろそれをどのように把握し、どのように利用してよいか困惑してしまうであろう。このような状況に相応するのが、無数の小鳥が飛びかう様相であり、それはむしろ、非建設的な空想の断片を示している。」となる。
 カトリック系ミッションスクールの向かい側にある都立女学校を舞台ということから長篇『倒立する塔の殺人』とはさながら対岸の火事、か。業火のごとく旋律と熱風が逆巻くラストシーン。烈しく手の施しようもない妄執に、一陣の風――否、侘びしさが銷魂の果てに胸の芯で響鳴する。
 女史の作品を伝って、塚本邦雄を知った。まだまだ日が浅いファンである。浅薄なファンの出来心だということで赦してもらいたい。作中の時期も半月ほど異なれば、状況も酷似というわけではないのだけれど、我が芯で共鳴してやまない一首で締めよう。

     *

 ほほえみに肖て はるかなれ 霜月の 火事のなかなる ピアノ一臺
 (第6歌集『感幻楽』より)



 続いての官能は、柘榴の赤い実ではなく「真珠」の純白の玉を伴って弾ける。
 抱擁し口づけをかわす口のなかに真珠があふれる甘美な夢をみる。借家に戻ってくると、泰西名画の娘に似た家主が鋏で母屋の植木の枝を伐っていた。借家は元は家主の両親の家であり、娘の結婚の際に建ててやった離れで、娘は夫の転勤で海外に行ってしまった。私は、十七年も前に喪った夫・尚雄と暮らすために借りた何代目かの借家人だった。家主夫婦が死に、帰ってきた娘である今の家主。彼女も旦那と死別したらしく、馴れ馴れしく声をかけてくる。
 借家に届いていた差出人名のない洋封筒のなかにはバースデーカードが入っていた。カードと一緒に小さい真珠が転びでた。憂いな生活をして終えると、またあの甘美な夢が私を襲う……。
 夢診断では母性や女性としての豊かさ、妊娠などを表すとされる真珠。
 塚本邦雄は『千一夜物語』美しいアニス・アル・ジャリスについてこう記す。「ジャリスは「真珠」と称される。女身のすべてを象徴する美しい言葉だ。最上級表現と誇張大修辞の綴織の中に黄金時代の均等が浮び、その千紫万紅の彼方に、人の慾望の極限状況が、むしろ荘厳に描き出される。この白昼夢の世界に一度も恍惚としなかった人は、真の「物語」に生涯無縁だろう。」――皆川女史が最も影響を受けた作家・作品として挙げる『詞華美術館』収録の『青晶楽』でのフレーズである。
 しかし、本作における真珠を高貴な宝石そのものと見てよいのだろうか。幼少期の自宅応接間にしまわれていた横溝正史『真珠郎』を「うしろめたい思いをしながら、隠れ読みました。」と女史は明かす。由利先生シリーズ『真珠郎』の奇怪な物語については、のちのち起こる殺人事件を象徴するかのような「ヨカナンの首」に似た雲を見つけるシーンがよく取り沙汰される。
「ヨカナンの首」とは、サロメに伐り落とされた預言者の首のことだ。オスカー・ワイルドの戯曲でも有名な『サロメ』。真珠一粒と同封されたバースデーカードは、さながらヘロデ王の誕生日の宴を報せるものなのだろう。家主の女が王女サロメであり、語り手が洗礼者ヨハネだとすれば、ショッキングともいえる接吻、鋏の音、喉の傷などはまさしく「ヨカナンの首」が「出現」した証であると断言してもいいだろう。
 ワイルドの短篇童話「王女の誕生日」「漁師とその魂」に登場する溢れ出るような宝石たちのなかの一つとしての真珠よりも、『サロメ』においてヘロデ王がサロメに与えた首飾りの真珠の方が、本作との反射光は鋭い。いや、それよりも(ここまで続くと怖気も立つが)〈同性愛〉者としてのオスカー・ワイルド、その愛人であるロバート・ロスの手記に残されているというワイルド自身の発言も大いなる示唆をもつだろう。「彼女の真珠は彼女の肉の上で息を吐かなければならない。」
 なお、横溝正史『真珠郎』、ワイルド『サロメ』はともに『はじめて話すけど… 小森収インタビュー集』でのインタビュー「皆川博子になるための136冊」にしっかりと含まれている。
 ところで、「わたしはあなた、あなたはわたし」は女史の他の短篇、たとえば「水族写真館」(『結ぶ』所収)でも儘に扱われる重要な科白(テーマ)である。そしてこれも〈影〉から生じるテーゼであることを強調しよう。
 せっかく夢にまつわる本作であるからといって夢診断を用いるわけではないが、夢には自らの影の像が頻出する。河合隼雄の弁では人間は誰しもが影を持ち、それを認めたくないが故に投影する、と説いたうえでこう続ける。
「投影とはまさに自分の影を他人に投げかけるのである。(中略)
 このとき大切なことは、(中略)自分の個人的影を越えて、普遍的な影まで投影しがちになるということである。(中略)つまり、われわれは自分の影の問題を拒否するときに、それに普遍的な影をつけ加え、絶対的な悪という形にして合法的に拒否しようとするのである。」
 蛇足ながら、第三者的投影を試みる。

     *

女王。わたしはお前のその口が所望だ。お前の口は象牙の塔に結び付けた猩々緋の紐のやうな。熟した柘榴を象牙の小刀で切るやうな。チルスの園に生 えてゐる柘榴の花は、薔薇の花より赤いけれど、(中略)世の中にありとあるものにお前の口より赤いものは無い。どうぞ、お前のその口に接吻をさせておく れ。
(訳:森鴎外)

サロメ公主 約翰(ヨハネ)よ、わが身が覓めてゐるのはそなたの脣ぢや。その脣は象牙の塔の上にある猩々緋の紐のやうぢや。象牙の小刀で二つに切つた柘榴の實のやうぢや。推羅(ツロ)の邑(まち)の花園に咲く柘榴の花は薔薇(うばら)の花よりも紅いけれど、(中略)世の中にその脣のやうに絳いものとてはない。……そなたの脣に接吻けさせておくれ。
(訳:日夏耿之介)


サロメ その脣なのだよ、あたしがほしくてたまらないは、ヨカナーン。お前の脣は象牙の塔に施した緋色の縞。象牙の刃を入れた柘榴の実。ツロの庭に咲く、 薔薇より赤い柘榴の花も、お前の脣ほど赤くはない。(中略)どこにもありはしない。お前の脣ほど赤いものなんて……さあ、お前の口に口づけさせておくれ。
(訳:福田恒存)

サロメ わたしが愛おしいのはね、お前のその口唇なの、ヨカナーン。まるで、象牙の塔に刻まれた深紅の帯模様。象牙のナイフで切られた石榴の実みたい。テュ ロスの庭に咲く石榴の花は、薔薇の花よりも真っ赤なの、けどそれだって、お前の口唇ほどには赤くない。(中略)お前の口唇よりも赤いものなんて、この世に はないわ。……キスさせて、その口唇に。
(訳:平野啓一郎)

     *

 女よ、おまへは何にも知らない、
 黒くながい睫(まつげ)はいつかとぢて
 櫻貝のやうな唇からはしづかな寝息が洩れてゐる。
 はら、ら、ら、ら、……。
 (西条八十「落葉」――『見知らぬ愛人』所収)


 真珠の煌めきは余韻となって、遠くは南米からやって来た鉱物の綺羅へと化ける。都合5つの超掌編小説が連なった、その名のとおり「断章」は異形コレクション『水妖』初出。
 文芸ポストに連載されたきり、音沙汰のない幻の長篇『碧玉紀』(女史曰く「時代的には中性から、未来のいつとは分からぬ時代まで。その、未来が南米なのね、中性がヨーロッパで。ムスリムの第三世界とヨーロッパのキリスト教世界との勢力関係が逆転しちゃって、イスラム教がヨーロッパを席巻、それで南米に、ナチの残党が神聖ゲルマニア帝国を作っちゃって……という未来の話に、中世ヨーロッパからの話がつながってくるという。」 異端カタリ派+鉄腕の騎士 )の取材旅行に行った現地で執筆したという作品だ。
 ――爪と肉の間に水が満たされ、何かが泳いでいる。
 ――庭に連れ出してくれた異母姉にそこは歩いてはいけないと言われた。空を指して「井戸だよ」とその指先を見つめていたらわたしは空に向かって落ちた。
 ――小指の先から中身が溶け始めた。呑み込まれた針を抜き出すと金色の髪の毛が通っていた。
 ――貴女が飼う水は卵型の鉱石から生まれる。業者は裁断具で石を割る。内部をみたしていた水は捨てられる。たまたま通りかかった貴女の胎内を、水は新しい住処にする。卵生である水は貴女を卵化させる。貴女は石化する……。
 本作に至って、ようやく〈井戸〉という装置がなんなのかはっきりとしてくる。それは〈穴〉だ。ただの〈穴〉でなく、水を蓄えた奈落である。頭上の空なのか、水面の空なのか、その叙述のイタズラにさえ困惑させられるが、どちらにしろ落下してたどり着くのは常人の在らざる神秘の秘境だ。この世を循環する水の王国である。水に満たされた土地、それはもはや8割を水分が占める人体をそう呼んでもいいかもしれない。第一、人間も生まれたときは羊水という水のなか。そしてそれを蓄えるのもまた、卵型の鉱石とは似て非なり、母親の腹。水ではなく砂を包んだ「砂嵐」が恋しい。それ以上に、可愛げな兎たち――多産の象徴――「そそら、そら、そら、兎のダンス」がひたすら恋しい。どうせなら卵型といえば、猫がいい。なにせ本書に登場する猫は、処刑人か、ジャムと泡の間の子のような盛りがついた猫しかいない。もっと静かでおとなしい――「たまご猫」のような猫が欲しい。しまいには自ら卵型を目指してみようか――それには縫ってくれる人間が必要だけど。閉所願望?――「鏡地獄」の影響――?――いいえ、それは取り出した心臓。握りしめたら危ないし、鉱物の心臓なんか売ってくれる「心臓売り」も居やしない。それより蝸牛も卵生だってさ。だから、マイマイは眼球の代わりになって眼窩に入る。海を目指す。〈井戸〉のなかの蛙も知らない海は、なにせ母なる象徴だから。
 それより知ってる?――南米には水の入った宝石の話が伝わってるらしいけど、鉱石なら磨かなければ宝石にはなれないね。
 それからもうひとつここに至ってようやく、「幻想小説」と解説は水と油なのではないかという虞れにも気付く。だが乗りかかった船だ、ここで沈没するわけにはいくまい。
 ユングによれば石は「存在の底知れぬ神秘」を含み、「樹や人間と同じく錬金術の中心的シンボルである石は、最初(プリマ)と最後(ウルティマ)の物質(マテリア)であるという二重の意味において、錬金術のなかで重要な役割を演ずる」という。それを受け、澁澤龍彦は説きなおす。「母胎と石棺とを同じイメージの二つの時間と解することによって、「安息の願望」と「死の願望」とを統一的に捉えようとするユング=バシュラール的な立場に、私としては賛同したいところである。大地に所属する石は、何よりもまず、源泉への回帰をあらわすシンボルなのではあるまいか。」
 バシュラールが登場するのはその前段にこんなくだりがあるからだ。
「宝石の切断面に、いろいろな物の形が見えるというのは、必ずしも世に珍しいことではないらしい。(中略)むろん、自然が石の表面に意味のある形象を描くわけではないので、これを意味のある形象として捉えるのは、もっぱら人間の想像力、いわば「類推の魔」であろう。石の表面、と私は書いたが、むしろ石の誕生と同時に石の内部に封じこめられ、隠されていた形象が、人間の手で二つに切断されるか、もしくは磨かれるかして、偶然に表面に浮かびあがってきたもの、と考えた方が真相に近いだろう。(中略)こうして、無意味な形象が夢の世界の扉をひらく。鏡の中におけるように、石の表面にイメージが浮かびあがる。ガストン・バシュラールが『大地と休息の夢想』のなかで述べたように、「存在のあらゆる胚が夢の胚となる」のである。」
 また、ロジェ・カイヨワの「石」を引用し、さらに説く。
「「程よい大きさの瑪瑙の団塊を手で持ちあげてみると、(中略)その内部が中空になっていて、水が入っていることが分る。耳の近くで振ってみると、ごく稀にではあるが、内壁にぶつかる液体の音が聞える。たしかに、そこには水が棲んでいるのであり、水は地球の揺籃期からずっと、石の牢獄に閉じこめられたままでいるわけなのだ。この大昔の水を見たいと思う気持が生ずる。」(中略)カイヨワはこれを「水以前の液体」と言っているが、たしかに、その水は地球の発達の歴史を知らず、天水を通じて循環することを知らず、鎔けた鉱物が固結する過程に、ふと落ちこんだ空洞のなかに捕らえられたまま、二度とふたたび出ることができなくなってしまったという、いわば童話の「塔に閉じこめられた姫君」のような、処女の水ではないだろうか。」
 そして、最後にまたバシュラールを引いて締めくくる。
「「要するに、内部の豊かさのすべてが、それが凝縮されている内部の空間を無限に大きくするのだ。夢はそこに身を屈めて入りこみ、この上もなく逆説的な快楽と、言いようもない幸福に包まれて、大きく拡がるのである。」(『大地と休息の夢想』)」
 以上は、『胡桃の中の世界』所収「石の夢」からの引用である。


 井上雅彦氏は編者解説でこう述べた。「短篇小説の異形性の様々な可能性を追求した作品たち」、と。異形コレクション『時間怪談』出版の前年に刊行された『結ぶ』収録作をおもに指していったことばだが、反証的に『異形』収録作もそれを体現していることになる。
《時間怪談》とはなにか。それは編者がいうに「時間テーマの幻想怪奇」「時間テーマの怪談」だそうだ。編者は「死神からの逃避」「逆らえぬ運命への挑戦」「未来の自分との邂逅(ドッペルゲンガにも繋がる分身怪談)」にまで話を拡げたのちに、「時間テーマが上質の怪談になりうる理由として、まず、われわれが、ふたつの時間に挟まれた存在であることがあげられるでしょう。ひとつは、避けがたい死が待っている未来。いまひとつは、生への思い出(および執着。あるいは悔恨)の深く刻まれた過去。どちらの時間も、人間に、恐怖の反応と怪奇の夢を、与えざるを得ないものなのです。――では、その狭間を彷徨うものには、どのような物語が与えられるのでしょうか」、そして《時間怪談》の裏テーマを示す。
「まさに「死」(すなわち「生」を浮かび上がらせる「死」、もしくは「不死」)を語ることに他ならないと思います。」
 編者のこのSFとホラーのあわいに属すサブジャンルへのこだわり(あるいは執着)は留まらず、旧きよき名作を中心に集めた角川の『タロット・ボックス』とは対照的に、現代で活躍する作家たちの短篇から選りすぐりを集めた徳間文庫の『異形ミュージアム』。その第1巻こそ、『妖魔ヶ刻』と題された時間怪談傑作選なのであった。そちらの序文では『時間怪談』(まぎらわしいな。異形コレクションの方)での序文を引いて、「幻想怪奇の文法で書かれた〈時間もの〉」と強調している。
『時間怪談』における本作については「同じ異形は二度と現さない。銘作「骨董屋」とは違った角度からの《時間怪談》も幾つか見つけることができる。この「こま」も、また異なる異形である。」と解説している。「骨董屋」が引き合いに出されているのは、『妖魔ヶ刻』にそれが収録されているからだろう。そちらでは《時間怪談》の短篇のプロットには「意外な結末」を用意した物語が多いと前置きしたうえで、「ミステリ読みの読み方が、〈時間怪談〉には可能」「時間を超越した一人二役や二人一役を読み取るのも、〈時間怪談〉の愉しみ」、そして「骨董屋」は「ラテンアメリカ文学や前衛的な幻想小説の手法も、氏の作品では、ミステリ的技術と融け合っている。本篇のような、実に前衛的な《時間怪談》も、巧みなプロットの集大成。――しかし、なによりうれしいのは、基調としてある、皆川博子の怪奇嗜好、幻想嗜好である。」とまとめている。
 本作「こま」は「骨董屋」が魅せた古物のアトモスフィアとは異なる、闇の力、もっと純度の高い「怪奇嗜好、幻想嗜好」を魅せつけていると個人的には思う。
 ペンキ絵の弟が指差す先には地下への入口があった。螺旋階段を下りると映写幕。葬式帰りのわたしは喪服姿のまま座席に腰かけ、映写幕を眺める。彼の遺影は彼がバイクを走らせるときに着ていた革のジャンパー姿。夕暮が来て、夏の夜の校庭に茣蓙が敷かれた。担任の女性教師は家族を連れていた。彼女の若い夫は画家、自宅で絵画教室を開いている。茣蓙に腰かける幼少期のわたしたちの目の前、映写幕には成長して死んだ弟の顔が大写しになる。女教師は息子にあんたの顔だと言って笑う。退屈した弟は独楽を出して遊び始める。女教師の息子がそれを奪おうとして、わたしの足の上に乗った。若い夫が叱る。女教師は独楽を貸すように言う……。
 なにが実験かといえば、視点が混在しているからだろう。それは上述の梗概を読んでも分かるはずだ。特にラストにおいて、投げ渡される独楽の移動がなかなかに時空が歪んでいる。そもそもこの独楽というアイテムも示唆的なのは言わずもがな、映写幕の前に行き着くまでのルートが螺旋階段であることを踏まえれば、輪廻やら回転やら、それっぽい連想がはじまってしまう。これこそが、「生」を浮かび上がらせる「不死」なのだろうか。
 ラスト。弟の笑みは、単純に「永遠と一瞬」が描かれていると思おう。一瞬で消えてしまえばいい。でなければ、また始まってしまうのだ。2つの映写幕に映しだされたグランギニョル、ファンタスマゴリアが。それは怖ろしい。
 ファンタスマゴリアの怖ろしさは、再びユングを引いて締めくくろう。
 ユング自身が見た夢の話だ。自宅で彼は、ふたつのレンズを重ねたようなUFOが飛んで行くのを見る。すると、もうひとつの円盤が彼の方に飛んできた。それは望遠鏡の対物レンズのような円盤だった。しばらく近くにとどまっていたそれはまたどこかに飛んでいってしまう。するとその後、またひとつ他の円盤が飛んでくる。そのレンズは、ひとつの箱――魔法の幻灯に繋がっていた。これまでのなかで最も近い場所から、それは彼の方を向いている。驚いて目が覚めたユングは、ひらめいた。
「われわれは空飛ぶ円盤がわれわれの投影であるといつも考えている。しかし、今や、われわれが彼等の投影となったのだ。私は魔法の幻灯から、C・G・ユングとして投影されている。しかし、誰がその器械を操作しているのか」と。
 有名な話だ。その操作者こそが、ユングは「自己である」という。その真の自己へと近似しつづける過程を、自己実現の過程と名づけた。
 夢では影をまっさきに体験し、他の元型(アニマ、アニムスなど)と混同しやすく、「影の像と自己の像を見分けることさえ困難なときがある。」と河合隼雄は続ける。果たして、本作に登場する姉弟はいかなる分身なのか。
 ちなみに、「迷路」の項で触れた中井英夫「天蓋」も『妖魔ヶ刻』に収録されている。編者は「思い出(記憶)と老い(死への接近)がモチーフとなっている。ことに、本篇ではその陰影が強いのだが、ドッペルゲンガーを〈時間怪談〉の一種とみなす考え方ができるのも、怪現象としての属性――死の予兆――が、共通するからだろう。怪談もしくは幻想小説のなかの時間旅行には、旅行者の死に到る憔悴が多く見られる。死に至らずとも、(中略)「天蓋」の異形めいた姿は、眼を合わせたくない存在なのだろうか。」と解説している。



『影を買う店』/皆川博子・後篇の1 に続く。


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