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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『結ぶ』/皆川博子・後篇

『結ぶ』/皆川博子・前篇の続き。





 冒頭の一文からして、相反する理の相克を感じる「空の果て」
 男は倒れこむように目覚めた。そばにいた仲居に案内してもらった湯殿に浸かり、御膳までいただいたが何を食べたかわからない。
 十一年前、伯母が還暦を迎えたことをきっかけに廃業した旅館、その敷地に唯一残った離れを訪れたわたし。伯母の遺品を、かつて住み込みで仲居をしていたお葉と分別していると、ふと、昔に伯母が飼っていた袋のことを思い出す。
 ある時、風呂に入れてもらった晩、お葉の着物からお香の匂いがしたことがあった。昨日は大事な人の命日だったと言ってお葉は涙をにじませる。お葉が持っていた袋を、わたしは濡れた手で触って汚してしまった。伯母の袋であることはわたしも知っていた。お葉は代わりに謝ってくれようとしたのだが、当の伯母は大事なものではないと笑って、袋で鏡台をひっぱたいたのだった。
 小3のとき伯母のもとを離れ、母に引き取られた。母が見せてくれたアルバムの写真には母と伯母が写っていたが、母と引き替え、伯母の和服はたいそう地味だった。母の服にも見覚えがあった。伯母が母の服を切って、あの袋を作ったんだとわたしは想像する……。
 語り手側の物語には、ルナールの『にんじん』が投影材料になる。語り手の見解にも反映されているとおり、原作と映画とのラストの乖離に触れて「大人というものがめちゃくちゃ不条理な存在に描かれているところに、非情に共感が持てた(笑)。」と作者は語っている。(『はじめて話すけど…… 小森収インタビュー集』より)
 また、成長したロベール・リナンが出演している『舞踏会の手帖』は、『たまご猫』所収の「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」にも登場する。どんな登場の仕方をするかは是非、実物で確認してもらいたいが、作中の「虚無から薔薇をつかみとり」という一節がどうも本書収録作のどこかで見た気がしてならない。どなたか心当たりがあったら教えてちょ。
 冒頭に登場する男が何者なのか、一見、異界訪問譚だと誤読させるが、なかなか一向に登場せぬ男の正体が明らかになってくる頃には、また別の奇想に当てられてしまっている。その奇想だけでも特筆に値するが、鏡台の隅にでもまぁ置いときましょう。とかく筆者も男であるわけで、女に慕われ振り回され、友を失い、孤独に蝕まれながらも浪漫を愛す、航空隊の男の語りにこそ、ぐっと来てしまうのよ。
 ちなみに、前回『影を買う店』前半の項を書くにあたって『書物の王国11 分身』を読み返していたのだが、本作読了後には、そちらに収録されている夢野久作「空中」を思い出した。ショートショートオムニバス「怪夢」の一篇である。本作に見られるような空中戦の迸りはつゆほどもなく、偵察機が空でドッペルゲンガーと出くわすだけの話であるから、あえてここで引用はしない。だが。青空への浪漫に共感せし男たちよ、青空文庫でも読めるのでご参照されたし。
「死人の楽しみは夢を見るぐらいのものなのに」と男が飄々と、かつノスタルジックに吐いた科白を反芻しながら、空の果てを眺めたくなるものだ。


 またここに時間反復、永劫回帰の傑作がひとつ。同時に男の(ネガティブな意味になるが)浪漫の結晶でもあろう『川』
 橋の上から川を見下ろす義眼の老人。映画はそこで終わった。劇場を出るとスタッフが待っている。アンケートを集めていた男の一人と目が合い、いたたまれなくなった彼は仕方なくアンケートに記入した。立ち去ろうとすると、男が声をかけてきた。
 彼はさして有名ではない装画家だった。かつては全集や単行本の装画を担当したこともあったが最近はめっきり減っている。喫茶店に座るやいなや、彼が手がけた装画への溺愛を男は語り出した。男はさっきの映画の監督兼脚本家だった。
 去年、同じようにL**という作家の全集に惹かれたといって、装画を頼んできた女性作家がいた。依頼を受けて久々に書いた絵はひどいものだった。手が震え、その筆致には昔あった煌めきが失われていたのだ……。
 筆者にとっては『家畜人ヤプー』の装画家として馴染みのある村上芳正氏のHP公式アカウントによるツイートに気になるものが。
 今月の新刊、皆川博子の短編集『結ぶ』(創元推理文庫)所収の短編「川」には、村上芳正をモデルにした画家の絵への言及があります(P200参照)。三島由紀夫の同性愛問題への言及のからみで、三島ともども名前は伏せ字になっており、若干虚構を交えていますが、間違いなし。「川」は、96年作。(画家 村上芳正『薔薇の鉄索』@barano_tessaku)
 なかなかこういった指摘は当人でなければ分からない。勉強になる。
 それはそうと、シャーリー・テンプルの代表作『ハイデイ』は日本人に馴染みのある言い方をすると『アルプスの少女ハイジ』だが、老いをひとつのテーマとしている本作にとってこの上ない対照物である。たとえば「水族写真館」や「レイミア」では写真、『影を買う店』所収の「こま」や、『蝶』所収「幻燈」……などなどを引き合いにださずとも、若きゆえの美を封じ込めるガジェットはいつでも何かを撮影/投影する機械にある。
 その点、本作で登場する映画は永遠に老いを映し出す、地獄絵図さながらの虚無だ。守ってやれなかった女の姿が重なれば、より重篤なメランコリアを湧き立たせ、男は浪漫に取り殺されてしまう。しかし、眼窩から取り出した義眼を川に投げるという行為が、せめてもの償いであり、この上ない優しさであると感じ取ったそのときから、雰囲気以上の哀切を帯びていくその浪漫に身を委ねてみたくもなる。
「生には終わりがあるけれど、ここの“時”には、エンド・マークは、ない。」
『たまご猫』所収「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」二度目の登場は、幕引きからの引用である。これと比較してみれば、本作のスクリーンに映し出されるエンド・マークは仮初のものであり、むしろ人生の終焉を突きつけられる〈呪い〉であることが分かるだろう。


 やがて物語の水脈は、いよいよ「妖精物語」の呼び名に相応しき独特な世界の風情を醸し出していく。中でもロシア革命に題材を採った「蜘蛛時計」は、文章で聖像画を描き切ったといっても過言ではない完成された神秘を発する。
 内壁に龕をくり抜いた石の家。龕に住む私は、住人である看守長一家から食事を給され生きている。かつて先代の看守長の頃、私は本物の監獄から逃げおおせた名誉脱獄囚として讃えられていたこともあった。沼地を埋め立て造られた首都サンクトペテルブルクは、運河を挟んで冬宮殿と向かい合っていた監獄。
 東の寒村の農奴の家に生れた私は、10歳過ぎから養ってくれる親を探し、みずからを売り込んでは生き延びていた。木賃宿に住む母ちゃんと暮らし始めた私は、母ちゃんが懇意にしている〈仕立屋〉の男のところで聖像画を見つける。〈仕立屋〉の仕事のために泥棒が持ち込んだ盗品であった。14歳になった頃、私には10歳の義体の情婦ができ、母ちゃんは私の代わりにしなびた赤ん坊を手に入れた。やがて金持ちの家に逃げていった情婦。去り際、神の恵みがあるようにと赤ん坊の腕を折っていったことを知る。母ちゃんからそれを聞かされた私は、赤ん坊を布団で覆い腹を押さえつけて殺した。赤ん坊の腹には縞模様が浮き出ており、吹き出している泡から伸びた黒い糸が母ちゃんの手に絡みつこうとしているのを目撃したからだった……。
 本作が『オール読物』に掲載されたほんの2ヶ月後には、『小説現代』で「冬の旅人」が連載開始となっていたことを踏まえると、かの大長篇から派生した、あるいは漏れ溢れた、ロシア幻視の賜物なのだろう。
 よっぽど〈さまよえるユダヤ人〉と関連付けて論じたい節はおおありなのだが、ロシア正教の立ち位置すら知らず、何より「冬の旅人」さえ苦労して読んだぐらいの歴史オンチである筆者には信憑性のある読みは不可能。なんだったら、「蜘蛛の糸」と「さまよえる猶太人」繋がりで芥川龍之介に逃げたっていいぐらいなのだが、とりあえず一旦冷静になろう。
「昼は、仮面をつけた夜にすぎない。光は、闇のまばたきにすぎない。私は、おまえの背中であるがゆえに、おまえの主だ。」
 このエピグラフめいた文に元ネタがあるのかどうか、調査がついていないのだが、どう読んでも固定観念からの反転を象徴している。
 ユダヤの創造神話によれば、神が初めに作り出した世界は渾沌として、闇に覆われた深淵というありさまであった。そこで神は「光よあれ」と言い、闇の中に光を生み出した。神は光を見て、これを善しとされた。光と闇は昼と夜とに分けられ、ここに創造の一日目が始まったのである。 世界の創造そのものというよりも、闇の中に光が現れたことこそ、この世のすべてを決定づけた奇跡なのだ。(『書物の王国15 奇跡』解説・石堂藍)
 この反転の施し主を、またもや作者インタビューあら探しの方法で見つけてみた。
 千街◆今までのご自身の作品をふりかえって、そこに一貫して流れているものは何だとお考えになりますか。また、大きく変わった部分があるとすれば、それは何でしょうか。
 皆川◆〈負〉です。健康的な社会が求めるまっとうなものに、背を向けています。
(『2013本格ミステリ・ベスト10』インタヴューより)
 この〈負〉とはなかなかに奥深きものである。敗戦を意味する〈負け〉にも、単純にネガティヴな意味での〈負(フ)〉、そして、背中に〈負ぶる〉という言葉まで出てくる。そんな中で、
聖画像という特異なガジェットと、近代化と罰せられる宗教観などが混ざり合い、稀に見るアンチクライストの物語になっているようだ。


 ―弟よ、海もまた毛布のごとく黑みきたれり。
 ―市(まち)の夜きたれり、橄欖の樹蔭、
  寶石商の牕に盜人ぞ忍び入る。
 ―眠の夜きたれり、弟の死骸(むくろ)、
  弟の死骸に市街(まち)の霧しづかに懸る。

(「悲しき唄」西条八十 ――『砂金』より)


『影を買う店』所収「断章」と同じく、こちらは『碧玉記』から溢れ出た南米幻視の賜物か。ブラジルを舞台にまたもや〈時間反復〉の妙味が味わえる「火蟻」
 ポルトガル人、原住民、奴隷黒人、3種の遺伝子が混ざり合った土地。路傍の石の上に腰掛けた女に目が止まった。欧人の顔立ちをしている女はリボンの束を通行人に売っているようだった。色によって呪いがあると、ガイドのヘロニモが言う。上半身裸の男が屋台の前で砂糖黍の茎を圧搾機にかけている。足もとからローラーの上まで飴色の帯がかかっていた。
 弟の海外勤務先を訪れたはずが、すでに弟は出張のために隣国に発っていた。部下を名乗る女に誘導されるがまま、国内便に乗せられ宿のある街に着く。街で出迎えたのがヘロニモだった。結局、見つかった宿は部屋を石壁で仕切っただけの簡素きわまりないホテルだった。
 睡眠剤を飲み床についた私だったが、薬の副作用か幻像を感じ、それがあまりに色彩がうるさいせいでうまく眠りにつけない。幻像から現れた飴色の帯がサイドテーブルの上で湯のみを形作っている。飴色の帯だと思ったものは、小さい蟻の群れだった。朝になり目覚めると、手首の肉が噛みちぎられたような傷ができている。ヘロニモが火蟻に齧られたのだと教えてくれた……。
 舞台はブラジル、サルヴァドール・ダ・バイーアだったらなお面白い。サルヴァドールの意味は救世主であるそうだ。さらに、澁澤龍彦『黒魔術の手帖』を繙けば。
 タロックの絵札はどうやらビザンチンの寺院の、ステンドグラスや壁画にあらわれた聖画像(イコン)に 似ているように思われる。人間の姿によって聖なる観念をあらわしたものを、肖像学(イコノグラフィ)という。けれども、タロックと肖像学のちがうところ は、後者が聖なる観念をあらわすのに対し、前者が現世的な観念をあらわす点にある。ビザンチンの寺院が人間と聖なる物との関係だとすれば、タロックは人間と地上の物との関係である。
 とはいっても、両者が同じ効能をもっていることには変りがない。それは何かというと、「記憶法」である。
 中世のひとたちは、文字で書けば何冊もの本になるような複雑な観念を、何枚かの絵の組み合せによって容易に理解した。大学者でなくても、無学文盲のひとでも、絵なら簡単に「読む」ことができる。
(『黒魔術の手帖』「古代カルタの謎」より)
 なにやら「蜘蛛時計」から繋がる神秘が宿っていそうだ。
 そしてここでもまた〈時間反復〉。「水族写真館」と同様の「あなたはわたし、わたしはあなた」系列でもある。いやしかし、奴隷制度が蔓延る背景、引き裂かれる姉弟、ただそれだけで我が国日本では「安寿と厨子王」の物語が思い起こさせられる。
「二度行く場所ではありません。もう、道はわからないわ。もしかしたら、あれは、“場所”ではなく、“時”だったのよ」
 そんな示唆的な科白も印象強い「厨子王」もまた『たまご猫』に収録されている。


 ―姉よ、日は毛布のごとく黑みきたれり、
 ―海の夜きたれり、眞白なる波、
  眞白なる浮燈臺(うきとうだい)に蜥蜴色(かめれおんいろ)の灯(ともしび)かがやき、
 ―死の夜きたれり、姉の死骸(むくろ)、
  姉の死骸に夜光虫の群は歌ひ、
(「悲しき唄」西条八十 ――『砂金』より)



 そして再び現れるレイミア……いや、あれは蛇女ではない。
「レイミア」の項で引用しておきながらあえて伏せ字にした部分がある。あそこに入る3文字は
カタカナだが、本作のタイトルはアルファベットで「U Bu Me」
 転居を通知するメールの文面。
 深夜の病院の廊下を退治がへその緒を引きずり這っていたという話を聞かせてくれたのはあなたでしょうか。教えてくれたのは、わたしが子宮摘出手術をした後、見舞いに来てくれたあなたと話しました。もう一つ覚えているのは、全身麻酔が覚めたときの衝撃。脳髄に響くとともに壁に数人の人物がはりついている。
 私は何十年も放置されたままの農家に引っ越した。生活には不便だが、仕事に向いた家だった。人に見捨てられた土地ゆえに水は清冽、藍染は水を選ぶからちょうどよかった。
 産科医だった母は自宅の一部を改装して、診療室・分娩室・産婦の部屋を設けた。私の部屋は分娩室の真上にあった。陣痛の呻き、悲鳴がよく届いたのである。全身にたまった哀しみを絞りだすような声を、どうして悦びと呼ばなければならないのか。10に満たぬ頃から出産は恐怖の根源となった。わたしは恐怖という胎児をはらんだ……。
 言葉遊びをしよう。タイトルの話である。それぞれ分割された3つのアルファベット。間にスペースがあるのもさることながら、中表紙に至っては一区切りごとに改行されている。つまりこれはウブメであって、姑獲鳥ではない。その正体を明かすには本作の構成を考えてみなければならない。本作は見知らぬ相手に送ったメールの体裁であることが真っ先に目につく部分だろう。
 メール文化が生み出した言葉の綾。略語。「U」を「You」と変えるだけで。ほら、何かが見えてくる。では「You Bu Me」としたとき、「Bu」に当てはまるのはいかなる単語か。思考を巡らすのも一興だろう。
 さて、冗談はそれぐらいにしておいて、本作は幾ばくかの奇想を交えた〈幽霊屋敷〉モノのド直球でありながら、その実、〈憑きもの〉譚でもある。何が憑くのかといえば、それは概念としての母だろう。そもそも姑獲鳥という妖怪自体がそうなのであるからしょうがない。なにせ、姑獲鳥は単なる鳥型の妖怪であること以上に、もっと重要な役回りがあるのだから。
「レイミア」の項で載せた加門七海氏との対談と同一の本のなかで、東雅夫氏は、今となっては日本でいちばん有名な姑獲鳥を生み出した京極夏彦氏とも対談している。
東 近世になって幽霊には足がないという俗説が生れたけれど、物の怪にはそもそも身体なんてないわけですからねぇ。
京極 ないですね。もともと災いですから。それが時代を下ってくるにしたがって、個人の幽霊というものが出てくる。でもその場合、個人名は消されていて、ただ「幽霊」というカテゴリーがあるだけなんだす。化物のひとつの形としての「人間が化けた物」でしかない。それがさらに個人名を持つに至るわけです。そこに到るまでの経緯に、スタイルの定着というのがあるわけですね。たとえば「姑獲鳥」という、子抱き幽霊の原型みたいな妖怪キャラクターができあがって、そこから子供が差っ引かれる。要するに、柳の下に乱れ髪の女性が白い着物で立っている……というスタイルが幽霊の定型として定着して、初めて私達が思い描く「女性幽霊」というものが出現するようになるわけです。
東 画家の智内兄助さんの作品に、そのものズバリの絵がありますよね。「姑獲鳥・孕女」と題する作品で、私が『妖髪鬼談』を編んだとき、表紙絵に使わせていただいたんですが、まさにいま京極さんが指摘されたような、姑獲鳥から女性幽霊への変身過程にあるような図柄で。ちなみに、その絵を見たとき思ったんですよ。幽霊が「うらめしや~」と言って、胸の下あたりダラリと手を下げる、あのポーズって、胸に子を抱えた姑獲鳥の姿と、よく似ているなあと。掌が上向きか下向きかの違いだけじゃないですか。今のお話を聞いていて、なるほどそういうことか、とようやく腑に落ちました。
(『ホラー・ジャパネスクを語る』より)
 姑獲鳥というキャラクター自体に、母という概念が憑依している。化け物の子の、あるいは幽霊そのものの。
 また、ここでも物語は反転の構図を示していく――あるいは〈正〉ではない〈負〉の論理と言い換えよう。
 帝王切開ではなく寝床を女教するための手術だったのに、胎児は潜り込んでくる。すなわち生み落とされた胎児が腹の中に戻っていくことと同義である。だから、相手は誰でもよかった。受容してくれる腹ならば誰だって。メールの送り先だって、相手はだれでもよかった。
 この家は、生きることを強要する者のいない空間である。つまりここに満ち溢れているのは死からの愛。だれでもいい。だから、この家に愛されていた初めての人間じゃなくてもいいのだ。
 ちなみにと言ってはなんだが、本作には『ベスト・エッセイ2005 成り行きにまかせて』所収の「最新設備」を取り合わせてみてはいかがか。作者の自宅がどんな惨状だったか踏まえたうえで本作の家の描写を読めば、ますます怪しき屋敷への想像が精細になるかもしれない(笑)


 生きる悦びをおぼえましょう。命を大切にしましょう。死者ならぬ生者の〈呪い〉は叙情を醸し、傑作「心臓売り」へと結実する。
 姉は金魚売りが好きで、売り声が聞こえると飛び出していくのだが、心臓売りは売り声を上げないから知らないうちに通りすぎてしまう。夏は金魚売り、氷売り、秋は虫売り、冬は猫売り、春は何もこない。梅雨の頃に心臓売りが来る。来始めたのは割りと最近で、祖母が子供のころからだそうだ。
 人間にはL本能とD本能がそなわり、D本能が優勢になると自殺へと向く。昔はLを善、Dを開くと決めていたから、自殺体は少なかった。両方強く、葛藤のあげくDが勝ったものの心臓は美味だそうだ。どちらにしろ結局最後はDなのだからと言って、誰もが似通った日々を過ごしている。
 梅雨入りの前に、大叔母が死んだ。LとDは等量で、人全体の総量も一定だから、誰かがLを独占すれば誰かのLが少なくなる。大叔母もL本能が強かった。だから見苦しいとされてきた。家族が大叔母の葬式にでかけ、ひとりになったわたしは、部屋に戻って長押に吊るされている古い心臓を手にとった。心臓はその持ち主の記憶を感じさせてくれる。おもしろいのもあればつまらないものもある。自分のなかでLとDがたのしそうに遊ぶのを感じる。家族が帰ってきた。わたしは浮き浮きと家族をで迎える……。
『影を買う店』所収「夕陽が沈む」より早くに本作と出逢えた読者は幸福である。既視感をおぼえないからだ。はじめてL本能とD本能とを目にしたときには、LIFE-DEATHあるいはLIVE-DEADと開くより先にタルホの「A感覚とV感覚」なんぞを思い起こしてゲスを気取ったものだったが、今ではもうみずからのL本能とD本能を意識せずにはいられないタチになってしまった。
 作者みずから香山滋「蠟燭売り」の叙情性を思い浮かべたと明かすあたり、もう筆者垂涎の覚悟なのだが、残念無念、不勉強なことに「蠟燭売り」は未読。ゴジラフリークには神である香山滋氏。怪奇探偵小説名作選やら他アンソロジーで人見十吉をポツポツ啄みながら、いつか全集買ういつか全集買うとのたまっておきながら有言不実行のまま時だけが過ぎて……。現代教養文庫の傑作選にしとこうかなぁとか思っても、状態のいい古本は1000円は確実に超えるようなシロモノですから……無事、手に入ったアカツキには読み比べしたいと思いますよ。
 閑話休題。
 心臓の持つ記憶をサイコメトリーしてしまう少女の境遇も去ることながら、同じ能力を持った少年を登場させ、少女不在のままその顛末を物語る趣向はよくあるものとはいったものの、単に共感者のすれ違いを描くだけに留まらず、その背景にはやっぱり社会へのペシミズムが敷いてあるという奥の奥まで救われない寓話である。だが、やっぱり印象に残るのはその叙情性であり、もう筆者垂涎の覚悟なのだが、残念無念……(リピート)
 もう他にテキトーなことは言いませぬ。誰がなんと言おうと「結ぶ」より「心臓売り」を推薦しますよ、ワタクシは!
【追記:H25.12.20】
 買いましたよ、と言いたいところですが金銭的な余裕うんぬんかんぬんで図書館に逃げ込み、『香山滋全集⑤』を拝借。くだんの「蠟燭売り」を略読した次第。
 停電になった宮坂邸。夫人の綾子は、蠟燭を点けようとするが切れていた。すると「蠟燭屋でござい……蠟燭はいかがさま……」とかすかな声が聞こえてきた。思わず振り向くとそこには年寄りなのか若いのか区別もつかぬ顔の男――蠟燭売りがうす笑いを浮かべている。風貌の気味悪さに怖気立つ綾子だったが、停電に乗じた押し売りだとみずから言い聞かせ、50円札と引き換えに青い蠟燭を1本受け取った。
 綾子は邸宅を出て、愛人である高志のもとに急ぐ。街から外れた丘で待っていた愛犬ルルとともに待っていた高志。嫉妬心が強い夫の手元を離れ、つかの間のランデブー。蠟燭売りの話をしながら不安になる綾子を高志は介抱してくれた。いつもの通り熱烈に接吻を交わす2人。すると綾子の目が、燃えたつ月を捉える。月を包む炎はそのまま空、大地と広がっていった。
 買い物から帰宅した女中が蠟燭の焰を吹き消した。揺さぶられて起こされた綾子はハッと正気に戻る。今しがたうたた寝して夢を観ていたことに気づくと綾子は、みずから不貞であると恥じる。それよりも不可思議な夢――はっきりと自分で高志と読んだ未知の男に、思い当たるふしはない。しかし確かに胸に熱が灯っているのも感じた。きっとこれも蠟燭のせい。綾子は憑かれたように約15分間ぶん――3分の1ほど溶けた蠟燭を生け垣の外に投げ込んだ。
 一方、仮面師・磯村高志は愛犬ルルとの散歩中、捨てても捨ててもルルが拾ってくる蠟燭を、ポケットにねじ込んだ。自宅に戻るとトランスが故障していて電灯がつかない。何の気なしに拾ってきた蠟燭を灯す。そのまま仕事机に突っ伏した。
 ルルと午後の散歩に出かけた高志。川のほとりに綾子がいた。昼間会うのははじめてだった。高志が道で拾った蠟燭の話をすると綾子は自分が捨てたのだと言う。激しい接吻を交わし別れる2人。仕事場で正気に帰る高志。振り返ると、風にあおられて、時間にしたら15分間ぶんほど短くなっている蠟燭が倒れていた。たいへんな夢を観た。高志はのびをしながら、思う。夢で会った女、あれはいったい誰だろう……?
 香山滋といえば、固有名詞の連打に外来語のルビ、熱気を感じさせる舞台設定の冒険小説という印象が強かったが、どこかで見たような話という印象は拭えないうえ、いかにも奇妙な話テイストであるところにまず面食らった。
 蠟燭を媒介に夢で出くわす男女の刹那的なラヴストーリーであり、下敷きは「マッチ売りの少女」、哀切さはプリースト「限りなき夏」を思い出すぐあい。ご覧のとおり「心臓売り」との密接な関連は感じられないにせよ、夢や心臓の記憶でしか相まみえることのできない男女という点はよく似ている。話の肝の部分はどうしたって相容れない、恋と孤独ほどの差異があるが、これは是非、併せて読み広がっていってもらいたい作品ではある。
 にしてもこの全集、ヤヴァい。前述の印象通りの作品ももちろん収められていて、ほんと、欲に目が眩みそうだ。これが全14冊(だっけか?)、自宅の書棚に収納されている(しかも函と月報つきで!)そんな夢を観させてくれるような……蠟燭は、ないかえ……。



 さて、ここから増補篇。
 雑誌掲載を見逃した者にしてみれば、長篇『薔薇密室』のあとがきで触れられている「舞台は日本。夢とうつつのあわいを彷徨うような雰囲気」というアバウトな情報だけで妄想をかきたて数年余。ようやく読了できた短篇「薔薇密室」は、「湖底」のブルーと白の基調は本作を指しているのではないかと思えるほど、息が詰まるほど静謐ながらやはり女の情念が麗しく化生する一篇。
 薔薇密室なる文字を記した紙片がある。書いたおぼえはない。わたしの脳細胞は死につつあり、記憶は失われていく一途だ。ジロドゥの戯曲「オンディーヌ」は人間の男を愛し、裏切られ、水界の王によってその男には死を与えられ、オンディーヌは記憶を奪われた。
 見回すと海底のような部屋。遠い記憶が呼びかける。踊るためにこの部屋はあった。発表会に備えてふたりだけのレッスン。彼はあまりに若かった。彼のためにわたしはシャワー室を設け、部屋を磨きあげた。わたしの浴室、私的な空間を彼に使われるわけにはいかない。
 彼には別居中の妻がいて、妻も踊り子、愛人もいた。なぜ、離婚しないのかは聞けなかった。
「オンディーヌ」のバレエ化をこころみたわたしは、騎士ハンスに彼を、オンディーヌには優秀な若手・中野恵美をあてた。自分の役はオンディーヌの理解者たる女王。振り付けを考えるためにとの口実で、わたしは彼と踊ったのだ。
 主役は技術に長けているが、感情を表現しきれていない。恋の苦しみを十分表現できるようになった頃には、肉体が衰えている。残酷な芸術なのだ、わたしの選んだものは。上演された「オンディーヌ」は満足のゆくできばえではなかった。ただし、発表会としては成功だった。記憶はそこで途絶えるべきだ……。
 なぜわざわざ長篇と同じタイトルを、と思うのはやぶさかではないが、読了するともはやこれは「薔薇密室」以外の何ものでもないと思ってしまう。それは何も皆川作品おなじみのアナグラムによる暗号のせいではない。長篇の高貴かつ退廃的な毒々しい野薔薇とは異なる、あたかも造花の如き鋭い棘と透徹なる花弁のミニチュア・ローズ。しかし薔薇が枯れるように、ミニチュアもくすんでいく。女性に例えれば、老い、美の喪失。
 籟亮二のライは、『BURAI』のRAI……それ以上に、語り手と亮二の名前にもどこか懐かしい響きがある。あれはそうやはり『たまご猫』所収の「水の館」……。


 ――お願い、水の妖精たち。ゆうべは何もなかったって、私は浄らかなまんまだって、どうか証してちょうだい。
(「水妖(オンディーヌ)」――中井英夫『人形たちの夜』より)


 薔薇は降る、
 靑白い薔薇は降る、
 ほのかに淡靑(うすあを)い生絹(すずし)をはりつめた空
 けむる空
 碧玉(さふあいあ)の燻ぼれる空より
 はらはらと、かつさめざめと
 明るく翳る光の中(うち)。

 日はのぼり
 日は翳れども
 盲者(まうしや)はめざめず
 はた瞼みじろがず、
 葩(はなびら)は薰じ息づき
 靑銅の寶座(みくら)となり
 象牙の美女となりて
 ふかくふかく瞳をめぐる。
(「薔薇」西条八十――『砂金』より)




 薔薇と水の組み合せがこんなにも蠱惑的だとは、それに骨が絡むと、あぁ、もはや。
「薔薇の骨」もまた〈水〉連作のうちに数えてやってもいいほどの、静謐な水の揺蕩いをみせる。
 骨は年月が経つと水になる。従兄がそう教えてくれたのはおびただしい骨壷を前にした墓窖のなかだった。骨壷は底に水が溜まっていて、水面に従兄の顔が映って見える。鏡に相手の顔が映るとき、相手の目にはこちらの顔が映っているのだろう。従兄はわたしの家庭教師だった。骨壷のなかを覗きこみ、「だれの骨?」とわたしは訊いた。
 誰もが戦争を忘れたがっていた。傷痍軍人という言葉すら消え、戦傷者の印に誰もが冷たい視線を浴びせかける。敗戦から20年。義足のアコーディオン弾きが軍歌を奏でる。伯父の家も自身の家も全焼したはずだったが、復興した住宅地のかつては焼け跡だったであろう敷地に建っている家は、表札を除いて門構えも変わらぬ伯父の家だ。戦争が始まる前は、伯父が妾に生ませた末娘・征矢の家庭教師を命じられて、ここに通っていた。ピアノの音色が聞える。〈時〉が何を見せるつもりなのかも考えず、蔓薔薇のはびこる庭に入り、大玄関の扉を叩いた。ピアノの音がやんだ……。
 どことなく台詞の端々に『影を買う店』所収の「迷路」を思い出してしまうのは浅薄な連想だろうか。最近作に囚われた貧相な解釈であろうか。
〈時〉が隠していた生き別れの人々の末路に、ノスタルジックな屋敷での邂逅。どうしてこんなにも美しい作品をいままで放っておいたのか。ただそこにあるだけで水中の結晶めく燦めきをもつ作品だからこそ、くすまないように大事に保管されていたとでもいうのか。骨が歳月をかけて水になるというのなら、その水は〈時〉の結晶でもあろう。
 それとも、戦火の渦中を抜けだした魂は、その瞬間に〈時〉を凍てつかせてしまうのかもしれない。


 タイトルからして異彩を放つ「メキシコのメロンパン」。まるで三月ウサギのお茶会のような雰囲気は、悲劇的なオチに至っても変わらない。
 直径1.3メートルはあろうかというメキシコのメロンパンのことを、ポチは得意気に話す。ポチ――本名・犬田という画家は3年間メキシコで絵を描き続けてきた。住宅街に立つ白い城のような「ギャラリーNUE」は画廊と女主人の住まいを兼ねている。姪であるわたしは短大を卒業したこの春から画廊の手伝いをしていた。
 前回の個展では死人がお茶しに来てくれることなどなかった。中庭で突如として伸びた藤の蔓をながめている2人――I夫人とメグさんが初めてだった。I夫人は空襲の直撃弾で死んだ。メグさんは殺されて藤の根元に埋められた。この家の前の主人らしい。夕食会に集った5人。食卓にはメグさんの過去、ポチの異国話、I夫人の相づち、叔母の詮索が飛びかう……。
 怖がらせようとしない幽霊に怖ろしさを感じるようになってきたのはいつからか。それは『愛と髑髏と』所収の「丘の上の宴会」を読んだ頃からか。本作にも死人が登場するが、ジェントル・ゴースト・ストーリーと呼ぶにしてもあまりに空虚な何かが、充満しているような気がする。だからこそ悲劇的な事件が起こったことが明かされ、巧みというより粋なラストで締めくくられてもどこか空々しい感覚が、生者と死者の相容れない関係に気づかせる。
 これを怖ろしいと呼ぶのは感覚として異なるのかもしれない。しかし、生者との談笑より死者との談笑の方が、声が途絶えたあとの沈黙が怖ろしいのと同じくして、気づいたあとが怖いのだ。
 これが今回最後の孫引きになるだろう。再び、澁澤龍彦「幻想文学について」から。
 十八世紀のサロンの花形、当時の才女として知られたフランスのデファン侯爵夫人は、「あなたは幽霊を信じますか」と訊かれたとき、「いいえ、信じません。でも、あたしは幽霊がこわい」と答えたそうである。
 最初に本書が『たまご猫』と対になると語ったときから、ゴールはこの1作にあった。
 なんにせよ、タイトルだけは知っていたものの、このような企みと罠を携えた作品だったとは驚愕である。「天使の倉庫(アマンジャコ)」は、『たまご猫』収録作のなかでも随一の人情モノ「雪物語」を解体せしめる、魔女の演芸にほど近い。
 舞台はスナック『天使の倉庫』。バーテンの卓郎と客の亜由子は昔馴染みだ。カウンターに置かれたアマンジャコという箱は、逆なですると機嫌を悪くし、ビロードのように滑らかになる。5センチ四方、子猫のような感触。ないものをあるように話すのは2人のあいだでよくやるゲームだ。
 アマンジャコは村野明子からのプレゼントだという。この店に『天使の倉庫』と名づけたのも彼女だ。編集の仕事をやりたがっていた亜由子がSM誌やアダルト誌専門の出版社に勤めはじめて気を荒くしていた頃、村野は童話めいた短編小説の書き手として活動していた。彼女は、この『天使の倉庫』で卓郎と亜由子が交わしたとりとめのない会話を作品に仕立てあげていたのだ。亜由子は村野がすべて奪ったと、彼女を責めた……。
 手のひらに乗るサイズの……とあえて思い出したように「妖精物語」とのこじつけをするつもりもないのだが、本作の肝は『たまご猫』表題作に通じる魔法のアイテムの、その実に効果的な使い方だろう。次々とファンタスティックなネタが飛び出すこのスナックを『天使の倉庫』と名付けたのも示唆的だが、やはり「閉所空間願望」と屋台崩しには目をみはる。
 しかし、唯一の救いは屋台崩しが行われることによってフィクション性の度合いが強まることだ。だからこそ本作も、物語の狩人たる村野明子の作品のひとつであるという推測が生き残っている。


 さて、巻頭に戻る。
 読む者を幻視の極北へと導く、類稀なる綺想の結晶。幻想の極致――〈語り〉の魔術が編み出す異形の傑作。天馬空を往く奇想とアクロバティックな超絶技巧。軽妙洒脱にして変幻自在な「語り=騙り」の輻輳、その絢爛たるヴァラエティ。縫われてゆく「私」の、のんしゃらんな独白に異界の翳が射す、やっぱり私も主婦なんだな、と。主婦、大嫌いなのに、スプラッターな奇天烈ぶり。縫い縮めればアルマジロに……なりますよねぇ?(笑)異形の美と恐怖。醇乎たる文学ならではの感動――選び抜かれた言葉と奔放自在な精神の運動によって織りなされた異世界。自分で書いててもメチャクチャだなぁ、と。超現実的でありながら異様にリアルなディティールの連なり。縫い物と、魚を開きにするのと、それからアイロン掛けでしょ……天啓のようにもたらされる驚天動地の幕切れ。ひそやかに虚無へと溶暗してゆくかのような纏綿たる余韻。あれは……最初の一行だけが、まずポッと浮かんだんですよ。「そこは縫わないでと頼んだのに、縫われてしまった。こんなに縫われると、見た目にも悪いと思う。理想的な仕上がりはアルマジロが丸まったものより完全な球形。玉虫厨子、便所蟋蟀、ダンゴムシ、しかしなぜ球体が最終形態なのか。どうして縫うか、染めるかの二者択一なのだろう。〈縫い縮める〉が一つの選択肢であればもうひとつは〈切り開く〉であるべきだ。
 切って広げていけば限りなく薄くなり、透明になる。ほとんど無に近くなるが、しかし存在はする。まったき無は無限とひとしい。存在するものは無でないがゆえに無限ではない。縫い縮められて無になる方が、開かれるより上であると気づいた。気がついたからには上手に縫われてやろう。そこは縫わないでと頼んだりするのはやめよう……。
 姉は血を吐く、妹は火吐く、可愛いトミノは寶玉を吐く。あ、ウチもそういう玉、ほしいな(笑)今度、玉ができたらください、ウチでも転がすから。地獄ござらばもて來てたもれ、針の御山の留針を。赤い留針だてにはささぬ。可愛いトミノのめじるしに。


 最後はもちろん逃げである。生半可な能力では、語り切ることなどできない。特にいまの俺の体力ではな。
 さて、少し後半は駆け足になってしまった気もするが、とりあえず今回もやりきりました。結局、孫引き引用その他もろもろしまくりでしたね。まぁ、表層的な読みには違いないので。
 にしても、本当に今回増補になった4作はどれもこれも何たるデキなんですか。まぁ、確かにちょっと本書のなかでは浮いている気もしないでもないけど。これが、万が一にも、息を吹き返さぬまま雑誌の中だけに存在し古紙回収に回っていた可能性もあると考えると、魂が抜けてしまうわ。
 あ、そうそう。
「妖精物語」とかこつけて意気込んだものの、失敗に終わったようですね。ニュアンスで留めておくべきだった。でもまぁ、「幽霊小説」から「純幻想小説」への橋渡しとしてそんなような界域もあったらおもしろいよね、とかその程度で。
 あとやっぱりね、作品順は大事だなと思ったね。やっぱり、「心臓売り」がラストを〆ないと(どんだけ
 けれど、いやはや、俺のL本能! L本能! 生きててよかったッ L本能! いや、ほんとうに今回も、たいへん狂おしゅうございました、ってな褒め言葉を添えて今回の駄文はここで「結ぶ」




【参考文献】
夢野久作 怪夢
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