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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『結ぶ』/皆川博子・前篇


結ぶ (創元推理文庫)
 そこは縫わないでと頼んだのに、縫われてしまった──〈縫う(縫われる)〉行為を考察する語り手が、読む者を幻視の極北へと導く、類稀なる綺想の結晶ともいうべき表題作、寓話と折紙を介した叔母と甥の戯れを描く「水色の煙」のほか、初文庫化に際し、海の底のような部屋で夢想世界の完成を待ち続ける女の独白を綴る「薔薇密室」ほか4篇の単行本未収録作を加えた18篇を収める。

 子供の目にしか見えぬ女の人や聖画に糸を吐く蜘蛛、犯罪を見抜く南国の占い師──斬新な着想と美しい比喩が織り成す幻想短篇集

 異界と現し世を自在に行き交い、読者を迷宮へ誘う極上の語り。「結ぶ」―問答無用で縫われ、丸められていくからだ。「湖底」―十三年前から、待ち合わせはいつもすれ違い。「川」―大作家と挿絵画家の密かな交流を見続けてきた眼。「蜘蛛時計」―ロシア革命に翻弄される男と聖像画に糸吐く蜘蛛。「心臓売り」―人間に生まれつきそなわるL本能とD本能とは。ほか、全十四篇収録。
これは短篇小説界の奇書だ。作者不動のテーマ〈負〉だけがその巨大な図体をのしかからせている18箇所の異次元では、幽明一如の「幽霊小説」は驚異も恐怖もある「妖精物語」へと回帰変貌を遂げた。時間の停止(あるいは反覆)/死者の呪い/幽霊屋敷など……かつて澁澤龍彦が類別した「幻想小説」のテーマがこれでもかと詰めこまれたうえ、〈火〉〈水〉〈肉体〉〈光〉と〈闇〉、〈無〉と〈無限の有〉、様々なモチーフの宿った物語にはひたすら酔うしかない。『結ぶ』とは起承転結の〈結〉。短くも濃密な一人称世界の終末、その崩壊を幻視体験せよ。  http://book.akahoshitakuya.com/b/4488441033




【収録作】
「結ぶ」
「湖底」
「水色の煙」
「水の琴」
「城館」
「水族写真館」
「レイミア」
「花の眉間尺」
「空の果て」
「川」
「蜘蛛時計」
「火蟻」
「U Bu Me」
「心臓売り」
「薔薇密室」
「薔薇の骨」
「メキシコのメロンパン」
「天使の倉庫(アマンジャコ)」





『影を買う店』の項、まだ半分しか挙げてないこのざま。
 年越せるのかいな、このままでっ!てな不安もあるが、とりあえず頑張りましょう。
 てなわけで早いとこ後篇に移りたいのは山々なんですが、ちょっと訳あって先にこちらを。
『影を買う店』の前後篇で挟み込んで有終の美!てのを目論んでるってのもあるけれど、インタヴューやら身辺を探れば、割りかし思う程度には設計図が引けた前篇と引きかえ、後篇はいささかハードルが高いってのもあってですね、……ちょいと時間をかけます。寄り道ご容赦くださいませ。
 にしても。
 ようやくこの時が来たですよ。『結ぶ』がだよ、文庫化だよ。こんな日が来るとはね。にしても、こんな形で劇的に現れてくれようとは思わなんだ。ありがたや×2。『メキシコのメロンパン』と『天使の倉庫』なんて、もう何度夢に出てきたことか。こういう話だろうな、っていう妄想が膨らんで、いざ読了してみ。斜め上を行くから。

 本書再刊がどんだけ待望されていたのかっていうと、もはやその存在が伝説化していたって吹聴してもお釣りが来るぐらいなんだけど、別に絶版になったからといって尾ひれがついたわけではない。はい、引用遊戯に興じましょう。
 現在絶好調、皆川博子の最新短篇集『結ぶ』――「SFマガジン」掲載の〈水〉連作をはじめとする十四篇を収めている。前作『ゆめこ縮緬』の端正緻密なスタイルから一転、本書においては、軽妙洒脱にして変幻自在な「語り=騙り」の輻輳、その絢爛たるヴァラエティを、作者みずから寛いで愉しんでいるかのような趣がある。
 縫われてゆく「私」の、のんしゃらんな独白に異界の翳が射す、表題作のスプラッターな奇天烈ぶりには(「異形の美と恐怖」とは、こういう作品のことをいうのだ)、初読の際も仰天したものだが、なんでも作者は、裁縫や調理など日常の家事から(!)同篇の着想を得たのだそうな。いやはや、閨秀ならではの奇想という点で、葛原妙子の幻想短歌縁起をゆくりなくも想起させられる逸話ではある。
 缺落も増殖もともに異形なれ 然り蜥蜴の尾の再生も(葛原妙子)
 『ホラー小説時評 1990-2001』より
 当惑と驚愕、そして会心の微笑み――皆川博子の新作に接する際の就眠儀式ならぬ繙読儀式。それが習い性となって、はや久しい。(中略)超現実的でありながら異様にリアルなディティールの連なりに、あたかも鼻面を引きまわされるようにしてわけも分からぬまま読み進めてゆくうち、天啓のようにもたらされる驚天動地の幕切れ。そして、ひそやかに虚無へと溶暗してゆくかのような纏綿たる余韻……。読み終えたとき貴方の口もとには、醇乎たる文学ならではの感動――選び抜かれた言葉と奔放自在な精神の運動によって織りなされた異世界を堪能したという満足の微笑が浮かんでいることだろう。
 『皆川博子作品精華 幻妖 幻想小説編』作品解説より
 これはどちらも東雅夫氏による筆である。というか、もっぱらその主眼は表題作一作に尽きている。「結ぶ」の余波は、もはや皆川博子という作家を知っている、と自覚している読者方に説明は不要だろう。
 さて、ここで早々に筆者の嗜好をひけらかしてしまうのだが、正直、評論家先生たちをはじめとして読者界隈で合言葉のように繰り出される表題作への溺愛については、ただひたすらに嫌悪感を抱く。確かに「結ぶ」は紛うことなき傑作だ。異論はないどころか、初読時の衝撃は「結ぶ」=『結ぶ』となって然るべき体験だと共感もする。禿同! しかし、たとえば津原泰水『11 eleven』における「五色の舟」同様、褒めちぎられている光景はどうも賞味期限が早くてしょうがない。とどのつまり、他人が褒めているものを褒めるのはかなわねぇというチンピラ根性、明かして恥ずべき天邪鬼の論理なのだ(なんじゃそりゃ
 なので、「結ぶ」がいかにすごいのか、とか、「結ぶ」の持て囃しにぜひワタクシめも参加させてほしいでやんすなどと戯けるバカは他のブログに行くがいい。たわけ。
 なお、『影を買う店』で取った遅れをここで挽回。
 ちょいと今回は駆け足でよろしく。
『影を買う店』に関する駄文(『影を買う店』/皆川博子・前篇の1前篇の2)はとある意図をもって、あのような孫引きの横溢する形式にしてみたが、今回は引用やら原典遡及なんやらは極力排して挑む。すべては表層的な読みにすぎない。


 だが、もちろん初出の時系列は載せとこう。
『ミステリマガジン』89年10月号   「薔薇密室」
『ミステリマガジン』91年4月号            「城館」
『小説宝石』91年6月号                        「湖底」
『ミステリマガジン』91年9月号            「水の琴」
『ミステリマガジン』92年3月号            「水族写真館」
『ミステリマガジン』92年8月号            「水色の煙」
『野性時代』95年7月号        「薔薇の骨」
『SFマガジン』95年8月号                   「結ぶ」
『ミステリマガジン』95年11月増刊号 「メキシコのメロンパン」
『オール読物』96年8月号                       「空の果て」
『ミステリマガジン』96年12月号          「レイミア」
『小説現代』96年12月号                        「川」
『オール読物』97年2月号                       「花の眉間尺」
『オール読物』97年8月号       「心臓売り」
『小説新潮』98年1月号        「天使の倉庫(アマンジャコ)」
『オール読物』98年2月号                       「蜘蛛時計」
『小説新潮』98年8月号        「U Bu Me」
『オール読物』99年7月号          「火蟻」


 ひとつ前に出版された『ゆめこ縮緬』のように日本的情緒を前面に押し出すというよりか、より近代的な奇想を基に編まれた数々。よって本書は、90年代前半に顕著だった共通テーマに沿って編まれた短篇集『化蝶記』『妖笛』『雪女郎』、『骨笛』、『妖恋』などとは一線を画した一冊であることから、さらにさかのぼった91年刊行の『たまご猫』と相対す位置にあるといえる。
 たとえばデヴュー初期のミステリ風味を受け継いだまま、幻想の域へと足を伸ばし始めた『愛と髑髏と』と、そこからの落ち穂を集めた『鳥少年』が、暗黒ミステリと垣間見る幻想奇想の共棲を図っていたかのような趣であるのに対し、『たまご猫』ではミステリ的な解決を呑み込み(いい意味で台無しにするほどの)奇想が目立ちはじめ、本作に及んではそもそも解決のない話だけになる。
 ジャンルのレッテルを貼るというのはいささか無粋な行為だが、『影を買う店』へと至る幻想小説集の系譜をあぶりだすには、まずそれぞれの特性を確かなものにする必要がある。今回はそこまで話を拡げるつもりはないが、果たして『結ぶ』は「◯◯小説集」と呼ばれるべきかについてだけ触れておきたい。
 またしても、東雅夫氏の解説を引こう。本書の日下三蔵氏による解説でもフラッシュバックされた文庫版『たまご猫』の解説である。
 この機会に本書を読み直して、とりわけ印象深かったのは、当代稀な「幽霊小説作家」としての作者の一面である。
 ここで筆者が「怪談」とか「幽霊譚」といった言葉を使わず、あえて「幽霊小説」と呼ぶのには、それなりの理由がある。
 通常の怪談、幽霊譚が、幽霊という存在の恐ろしさを強調する必然から、ともすれば幽明両界の境目に見えない一線を画する傾向を有するのとはいかにも対照的に、皆川博子の描く幽霊たちは、しばしば此岸の人間たちよりも人間くさい物腰で、「こちら側」へするりと忍び入り、素知らぬ顔で生者と喜怒哀楽を共にする。
 すなわち、作者の小説世界においては、幽霊もまた、生者とまったく同等の作中「人物」のひとりであるわけだ。
 あえて「幽霊小説」と呼ぶゆえんである。
 いわゆる「幽明一如」の世界だが、調子に乗って「幽霊」を「妖精」と読み替え、「幻想(ファンタスティック)」から「夢幻(フェリック)」への回帰にも値するロジェ・カイヨワのいう「妖精物語」への遊戯的変貌にもこじつけできよう。
 妖精物語の世界は、現実界に付加された不思議の国なのであって、現実界を侵害することも、その統一を破壊することもない。これに対し幻想とは、ほとんど耐えがたいまでに異常なスキャンダル、裂け目、闖入として、現実界内にその姿をあらわすものである。
(中略)
 妖精物語が成立する世界は、魔術の行使があたりまえのことになっている世界、魔法が掟となっているような世界である。この世界では、超自然的なものが恐怖をまねくこともなく、驚きをさそうこともない。超自然こそがこの世界の基質、その掟、風土を形成しているからだ。そこでの超自然はいかなる法則性をも侵犯しない。それ自体が自然の一部であり、自然の秩序なのである。あるいは、自然の秩序の不在であると言うべきか。
(中略)
 幻想小説における超自然は、現実世界の内的統一に加わる亀裂としてあらわれる。奇蹟はありうべからざる侵略、驚異的攻撃となって、その時点まで厳然として不久の掟に支配されると見えていた世界の安定を破壊する。定義からして不可能事を放逐していたはずの世界に、突然出現した不可能事そのものと化すのである。(『妖精物語からSFへ』ロジェ・カイヨワより)
 どうしてもシンボリックに「幻想小説」なる呼称を多用してしまうのだが、こうして改めて特性を踏まえれば本書が「幻想小説」の極致にあることは瞭然としている。
 さらにロジェ・カイヨワは「妖精物語」と「幻想小説」におけるそれぞれの結末の相異点を指摘する。
「妖精物語が好んでハッピー・エンドに向かうのに対し、恐怖に支配された雰囲気の中で展開する幻想小説のほうは、ほとんどの場合、主人公の死、失踪、呪いなどと結びつく不吉なできごとで終わらざるをえない。」
 確かにそうだ。本書収録作のどこにハッピー・エンドを見つけることができようか。
 長篇『双頭のバビロン』、たとえば『ノートルダム・ド・パリ』のラストをハッピー・エンドに改編する旨のクレームに抵抗するくだりが登場する。作者も「根本のペシミズムは変わりませんね。敗戦の世界逆転、大人不信が加わりますから、オプティミスティックになれるわけがないです。『双頭のバビロン』のゲオルクはとってつけたようなハッピーエンドを嫌悪していますが、作者の心情そのままです。」と語っている。
 これについては本書に収録されている「空の果て」なんかを読むと、より具体的に理解がし易いわけだが、しかしどうしても筆者は「妖精物語」と強引に結びつけたい。和気藹々と異世界で冒険譚を繰り広げるものばかりでなく、アンハッピーな、カタストロフィな、トラジェディな、「妖精物語(フェアリーテイル)」があってもいいのではないか。
 本書収録作は確かに「幻想小説」である。しかし、前述したカイヨワのことばに因るならば、そこには確固たる「現実界」が存在しなければならない。「異世界」であってはいけない、と述べたほうが適切だろうか。すなわち、誰が視認しても紛うことなき(さらにいえば我々読者のそれと同等同質の)「現実界」があってはじめて、そこで描かれる「驚異」や「恐怖」が「幻想小説」を形作っていくはずなのだ。
 しかし本書に集まった世界は「現実界」と一括りで呼べるようなものではないだろう。つまりこういうことだ。
 ――「現実界」とは作中人物にとっての現実であり、読者にとっての現実とはイコールにならない。
「妖精物語」に「驚異」がないのはそれがそういう世界であるからに他ならないが、その尺度を決めるのは作中人物の世界観である。「幻想小説」において現実世界の内的統一を図るのも同様だ。
 たとえば、目の前に1頭の龍が現れ、とある少年が「あ、南の山から龍が降りてきている」と言えば「妖精物語」になるだろう。一方、別の少年が「りゅ、龍……!? 夢でもみてるのかしらん……?」と青ざめ昏倒すれば「幻想小説」になるという謂である。
 この比較をどうぞ、先に挙げた東雅夫氏による『たまご猫』解説に照らし合わせてみてもらいたい。氏がいう「幽霊小説」には、幽霊を目撃して卒倒するような人物が出てこない。こんな恐怖体験をしましたと怪談として語り継がれていくこともない。なぜなら、それぞれの作品世界では幽霊が登場することに「驚異」がない、あるいは作中人物たちの世界観がそれを受容しているからなのだ。
 したがって、本書に封された世界は多少なりとも我々がよく知るこの現実と似通った部分はあるにせよ、紛うことなき「異世界」であるわけで、本書が「幽霊小説集」ならぬ「妖精物語集」であると筆者が頑なに言い続ける理由となる。
 いかに本書が単なる「幻想奇想小説集」ではなく、「幽霊小説集」「妖精物語集」と呼べるのかどうか、古今東西の「幽霊」「妖精」を引き合いに出して語れば、読書感想による絢爛豪華な異世界絵巻にもなれる気がするが、今回はやめておこう。あくまで表層的な読みに徹する、それが今回の心持ちである。本書を読んで至るところで跋扈する「幽霊」「妖精」の類に気がつけば、それだけでいい。
 しかし「幽霊小説集」という呼称自体、皆川作品にはおなじみですらある。本書の他にも『骨笛』やら『薔薇忌』やら、というかむしろそうでないものを探すのも面倒なほどだ。だから脱却の意味も込めて、「妖精物語集」という呼び名を与えよう。


 では早々に参ろうか。
 すでに語りぐさとなっているが、綾辻行人氏は皆川博子女史の東京の息子である。そのくらい親睦が深いということだ。神田駿河台の山の上ホテルで、綾辻氏とはじめて会う約束をした前夜の経験をそのまま作品化したのが「湖底」である。
 母方の又従姉妹で銀座で画廊を営む欣子は幻想味の強い絵ばかり扱っていた。書店で志賀瑛という画家の画集を見つけ、その凄まじい美しさに圧倒されたわたしは昂奮のあまり欣子に話してしまう。一週間後、金沢の極小出版社から出版されていた画集だけを手がかりに、志賀瑛とコンタクトを図った欣子は、彼をわたしに引きあわせてくれると言ってきた。
 待ち合わせ先のホテルに宿泊した朝、目が覚めた途端に浮かんできた小曽木欣子の言葉。志賀瑛が熱を出したため約束をキャンセルしたい旨の電話を、深夜に受けた気がする。緑内障をわずらい病院の時間に間に合わせて起きるため、睡眠薬を服用したせいか、キャンセルの報せは夢であるような印象もある。しかしラウンジで待っていても二人は来ない。そういえば、十三年前も似たような事があった。欣子に紹介された男と待ち合わせていたが、会えずじまいになってしまった。すると肩が叩かれる。そこに立っていたのは、その時の男だった……。
 かつて湖底に集められた屍蝋を描いた「水底の祭り」の作者ゆえ、この湖底にも何か美とグロテスクを併せ持つ何かが潜んでいるような気にもなるが、その極致は、頭蓋めく、断ち割られた黒い器から溶け流れた宝石の絵。あるいは、過去・現在・未来あらゆる時をパッケージしたかのようなラウンジの光景に、屍蝋ならぬ幽霊の集いを重ねて幻視してしまうおそれもある。
 だが作中で喚起される湖底のイメージは、全体に漂う眠りの意識、朧気な記憶――ないしは、畔から湖に没し、水面を通して来るべき人の覗きこむ顔を見つめ返すかのような神妙さが印象的だ。
 蛇足にすらならないが、もしかすると主人公は宿泊場所を間違えたおそれもある。神田駿河台の山の上ホテルに泊まったはずが、そこは異形コレクション『グランドホテル』の舞台にもなったヴァレンタイン・デイで賑わう高原のクラシック・ホテルだったとしたら……、出会えないのも仕方がない。(同書・井上雅彦『チェックアウト』参照)

 先に記した「幽霊小説」「妖精物語」のテーゼを示すうえで、真っ先に意識にのぼったのは「水色の煙」である。本作で描かれる魔術の類を妖精につなげるのは非論理的だが、ニュアンスとしてはわかりやすいだろう。
 幼少時代のあなたは花火が好きで、マッチを擦るのはわたしの役目だった。花火に飽きて、わたしは昔読んだ童話を語り始める。さまざまな形の品々を煙に変える魔術師の話。もっとおもしろいのをとせがむ町人に、失望した魔術師は悲劇的な幕切れを演じた。
 あなたが小学校に上がった年の夏。姉――あなたのママが働きに出ている間、あなたはわたしの部屋に入り浸った。一緒の布団で眠り、寝つくまで本を読まされた。童話にも飽きたわたしは、折り紙を折り始める。あなたはマッチを持ちだして折り紙を煙にしてとせがんでくる。桃色の鶴、黄色い鳩はそのとおりの煙となって羽ばたいた。
 残った折り紙は、あなたもわたしも好きな水色と、嫌いな黒。あなたは水色で〈夢〉を、黒で〈犬〉を折ってくれとせがむ。わたしは断った……。
 少年と叔母との憩いの時、あたかも叔母の独白を綴ったこの物語自体が水色の紙を燃やして立ち上った〈夢〉であるかのような予感。〈ひとり〉〈物〉〈夢〉〈時〉……作中〈 〉で隔離されたモチーフをどう解釈するか、どう想像を拡げるかも大切だ。
 30年ぶりに再訪したあなたののちの人生にある人物が登場しないことは、果たしてラヴレターを刻印した木の脚をもやし煙として振りまいた結果なのか。「幽霊小説」の系譜になぞれば、割りと実直な幽霊屋敷モノであるにもかかわらず、様々な詮索がふわりふわりと浮かんでは消えていく。あたかも、あとに残った空虚の原っぱで、ひとりいつまでも佇んでいることしかできぬ童話のリフレインのように。
 
 前作「ゆめこ縮緬」に収録されていてもおかしくない、西条八十の詩篇が交わることによる魔術。ただし、雑誌掲載は本作の方が5年も前。むしろ『骨笛』収録の「噴水」(『小説すばる』92年8月号初出)と併読した方が妙味を味わえるかもしれない。噴水、梯子、交感を求める2人の少女、そして唐突な死……断片は「水の琴」に相通じるものがある。
 水野秋生が家庭教師をしていた小学生・貝島晶が死ぬ直前にワープロに打ち込んだ文面。それは秋生が意訳したヴェルレエヌの詩を参考にしているらしかった。文面に登場する公園のモデルと思しき、高架の下にある児童公園を歩く。半分埋まったどぎつい色のタイヤは色調と子どもへの冒涜だと、晶が激昂していたことが、その死に結びつく何かがあると思い、彼女の通学路をたどる秋生。晶との他愛ない言葉あそびに、ひとりで興じながら。影二つ、うつろな会話を交わしてきた。
 医学書の出版社に務める真子に晶のことを話したのも、秋生だった。真子はゲイジュツ、そしてその感受性を持つ者、持っていると思っている人間に対しての軽蔑と嫌悪をよく露わにしていた。なぜなら真子の父は奇矯な行動が人気の作曲家であり、父のことが原因で両親は真子が小3の頃に離婚していたからである。たまたま持っていた真子の写真に晶が興味を寄せ、晶に真子の電話番号を教えた。事後承諾だったが、真子も晶に関心を示した。二人は繋がりを持ってしまったがゆえに、間もなくして死んだのだった……。
 幾つもの水を用いたイメージの連なりに寄せ、さながら詩篇の断片が琴音のように共鳴しあう。感受性に縛られ、これまでずっとひとり無機なものへ語りかける他、みずからの音を奏でられなかった者たち。共鳴する主が現れない語り手は、虚空に詩篇をつぶやくばかりだが、果たして少女たちの音楽は共鳴に値するものだったのか、音と音との衝突によって生じた不協和音こそ死ではなかったのか。遺された文章は音を伝えない。うつろな会話はうつろな残響となり、今ではそれを拾うことしかできないゆえに、ようやく孤独が波紋となって伝わってくる。これも一種の〈死者の呪い〉だ。
 ヴェルレエヌの詩は22篇から成る『艶なる宴』(『艶かしきうたげ』などともいう)の1篇であり、「道行」「わびしい対話」「感傷的な会話」などタイトルを変え、堀口大學や永井荷風によって訳されている。残念ながら手元にないので、代わりに西条八十「梯子」の全文を添えてごまかそう。
【追記:H25.12.20】
 凝り性なもんで、『ヴェルレーヌ詩集』を買ってしまいました。もちろん堀口大學訳のものを。てことで、雰囲気でパッチワーク。



うら枯れて人気(ひとけ)なき廃園のうち
かげ二つ現われてまた消え去りぬ。

 下りて來い、下りて來い、
 昨日も今日も
 木犀の林の中に
 吊(つるさが)ってゐる
 黄金(きん)の梯子
 瑪瑙の梯子。

かげの人眼(まなこ)死に、唇ゆがみ、
ささやくもとぎれとぎれや。

 下りて來い、待つてゐるのに――
 嘴の紅く爛れた小鳥よ
 疾病(えや)んだ鸚哥よ
 老いた眼(まみ)の白孔雀よ。

うら枯れて人気なき廃園のうち
妖(まがつ)影ふたりして昔をしのぶ。
 
 月は埋(うず)み
 靑空は凍ついてゐる、
 木犀の黄ろい花が朽ちて
 瑪瑙の段に縋るときも。

――過ぎし日の恋心地君はなお思いたもうや?
――よし思い出づるとも今はせんなきことにあらずや?

 下りて來い、倚つてゐるのに――
 色 ――わが名きくのみにて、君が心は今もなおときめくや?
今もなお夢にわが魂見るや?――否よ。
 光 ――果てしなき幸にいて、われらかたみに口吸いし、
かつての日美しかりき?――さもありつるか。
 遠い響を殘して
 幻の獸(けだもの)どもは、何處へ行くぞ。

――その日頃、空いかに碧かりし、行く末の望みゆゆしく!
――望みとや? 今はむなしく暗き空へと消えて無し!
 
 待たるゝは
 月にそむきて
 木犀の花片(はなびら)幽か
 埋(うづも)れし女(ひと)の跫音。

かくて影、燕麦(からすむぎ)しげるが中を分けて消え
その言葉ききたるはただに夜のみ。

 午(ひる)は寂し
 昨日も今日も
 幻の獸ども
 綺羅びやかに
 黄金の梯子を下りつ上りつ。

 (「わびしい対話」ヴェルレーヌ ――『ヴェルレーヌ詩集 堀口大學訳』より
  「梯子」西条八十 ――『砂金』より

 祖父母と若い叔父、叔母が住む世田谷の家は、時間がとまっているように静かで穏やかだった。祖母の家では、私は叱られたことがなかった。叱られるような悪さをする必要もなかったのだ。
 昼間は叔父と叔母は学校に行くから、私は祖母とふたりだけになる。階下に二間か三間、二階に一間の小さい借家だった。鼻先に生け垣がせまる狭い庭をのぞむ縁側で、縫い物をする祖母のかたわらで、私は小さい端切れをもらい、見よう見まねで針をはこぶ。針に糸をとおせず、一々祖母に頼む。祖母はことさら笑顔を作るわけでもなく、面倒くさがりもせず、何度でも頼みに応じてくれる。
(中略)
 E・M・シオランの「常軌を逸したわずかな場合を除けば、人間は善をなそうなどとは思わぬものである」という言葉に私は深く共感するが、シオランには「人間が努力や打算によらず生まれながらにして善良であるということがあれば、それは天上の過失のしからしめることなのだ」という言葉もあって、それを借りるなら、祖母と叔母は、天上の過失によって生まれてきたのであった。私が愛されたのみではない、他に悪意を向けたことを知らない。
 私自身は、シオランが人間とはかかるものと言うとおり、「自分に打ち克ち自分の気持ちをおさえつけなければ、悪に汚染されていないどんな些細な行為する成し遂げることはできない」偏屈なたちだが、幼いころはまだ、克己せずとも、悪に汚染されない行為はできたとみえ、梅雨空の下で溝の縁のドクダミの葉をせっせと摘むのは、祖母のためであった。祖母の持病である慢性の鼻炎に、ドクダミの葉を揉んだのが効くとだれに教えられたのだったか。
(中略)
 強い悪臭と厚かましい繁殖力から人に嫌われるが、薬効力を持つドクダミの白い花は、悪の翳りにも厚かましさにも縁のないまま他界した祖母、叔母の追憶にかさなる、私には懐かしい野草だ。
(「朝日新聞」2003年6月5日・夕刊――ベスト・エッセイ2003『花祭りとバーミヤンの大仏』より)
 このエッセイを読んだとき、どことなく「水色の煙」に登場する叔母や、本作「城館」に登場する祖母の面影が宛然と立ち現れた気になった。もっともそれが明らかになったところで、本作中に登場する正体の判明しない“おねえさん”の不気味さには変わりないのだが。
 夏休みになると泊まりがけで母の実家に遊びに来る。しかし、今年は叔父がいなかった。旅行に行ってしまったらしい。ぼくは裏切られた気がした。
 叔父が遊んでくれても、兄と一緒だといつもおみそ扱いされる。キャッチボールもカードゲームも、叔父の部屋に陳列された化石の話や、外国の小説を翻訳して教えてくれてもぼくには理解が難しい。兄にこっそり聞き返しても教えてはくれない。だから今年は特別だった。母と兄は、ヴァイオリン留学のために外国に行っているからだ。
 祖母は、叔父は間もなく帰るという。その言葉を信じて、叔父が帰ってきたら蝉取りをしようと思いつき自宅に電話をかけた。父に網を持ってきてもらおうと思ったからだ。電話口に出たのは父ではなく、聞いたことのない女の人の声だった……。
 多くの作家たちにも影響を与えた独逸の謎少年カスパー・ハウザーに触れられているとおり、本作のキーワードは幽閉である。段ボールで組まれた城館のなかに、蝶が閉じこめられているのもまたしかり。ところが、この蝶はそれ以前に惨殺されている。確かに翅をもつ蝶を幽閉するには、翅をもぎとるか息の根を止めるしかないだろう。
 本作は井上雅彦監修『タロット・ボックスⅠ 塔の物語』にも収録されている。
 これもまた、燃え上がる塔のイメージが怖ろしくも、美しい。燃える塔といえば、タロットの絵柄そのままに、燃やすためだけに存在する塔が、「ペンドラゴン一族の滅亡」というチェスタトンのブラウン神父もののミステリに登場するが、皆川博子の「城館」は、さらに燃えやすい。同時に、この四つの塔を持つ城館は、〈幽閉する〉ことのシンボリズムとして機能している。〈幽閉する〉塔、というのも、グリムの「ラプンチェル」に代表されるイメージの原型なのだろう。一方、採集され、ピンで留められ、標本にされて整理分類された蝶というのも、魂の〈幽閉〉のシンボルであるわけだけれど、ここに登場する蝶たるや、もっと、凄まじい〈幽閉〉のされ方をしている。
(井上雅彦「解題――もうひとつのリーディング――」より)
 魂の幽閉というミームを月並みに言い換えれば、心の隔絶と呼べるだろう。火葬される蝶がもともと殺されているのは、単に新鮮な魂を閉じ込めることよりも生気のない魂を閉じ込めることのメタファーだとは考えられないか。紙の城はからっぽだからこそ燃えやすくもあるのだ。
『妖恋』巻頭作の「心中薄雪桜」や『朱紋様』諸作、ひいてはかの『聖女の島』に登場する少女たちを回顧せずとも、俳人・齋藤愼爾をして「ボルヘスやレムの幻想小説に通底する蠱惑的なコラージュの燦爛のうちに、お七の像を彫琢する超絶技巧」(文庫版『蝶』解説より)と言わしめる「お七」一篇によって、火付けと女の組み合わせというものに、作者がいかに凶暴な感情を映し込んでいるか分かるだろう。
「水色の煙」と併せて本作もまた〈幽霊屋敷〉モノのヴァリエーションではあるが、現代における『八百屋お七』の物語であるとも言い換えられるだろう。
 
 先に引用したカイヨワの評論を受けて、澁澤龍彦が「幻想文学」について論じている中でこういう記述がある。
 幻想小説のテーマにもいろいろあるが、そのなかで、死あるいは彼岸の要素を含んでいないものはないと言ってよい。比較的新らしいものと思われる四次元テーマ、時間の停止(あるいは反覆)テーマを別とすれば、悪魔との契約、死者の呪い、さまよえるユダヤ人、吸血鬼、活き人形、二重人格、憑きもの、幽霊屋敷などなど、いずれも何らかの形で死の現象と関係がある。いや、詮じつめれば、異次元テーマも時間停止のテーマも、この世ならざる別世界(彼岸)への突入、あるいは回帰という意味で、死の現象と深い関係があるにちがいないことは、あえて深層心理学の母胎回帰の図式を適用するまでもなく、自明に属する事柄ではあるまいか。(『澁澤龍彦全集10』「幻想文学について」より)
 今回はこれらを踏まえて駄文をこしらえているわけだが、『水族写真館』は幽霊屋敷モノでも、憑きものでも、二重人格でも、さまよえるユダヤ人でも、死者の呪いでも当てはまりそうだが、何より〈時間の停止(あるいは反復)〉というテーマが相応しかろう。
 はじめておとずれた町の、古ぼけた写真館。飾り窓のある建物の中、壁に貼られた写真から目を離せなくなったわたし。砂でできたボートに乗って漕ぐ真似をする少女の写真――その少女は三十何年前の自分であるような気がした。
 写真館の主人である中年の女は、快く出迎えてくれ紅茶をすすめてくれた。くだんの写真について訊くと、来たときからすでに貼られており詳しくは知らないとあからさまな嘘をつく。すると唐突に女主人は言った。「わたしは足を止めました、なぜって、わたしの小さいころの写真のように思えたのですもの」
 そして遠い記憶を語りだす女主人。私は都度、その続きの記憶を改装する。姉と砂浜で遊んでいたとき、学生たちに舟をつくってもらったこと。鮮やかに浮かぶ情景に、次第にみずからの確かな記憶なのか、女主人の話で生み出された贋の記憶なのか判じられなくなっていく。先を越される前に私は記憶の断片をかき集める。ある夏、私の一家は伯父の家にいた。病院と自宅が同じ敷地にある家の中庭には、シーツや患者の洗濯物が干されていた。私はそこで継母の悲鳴を聞いたのだ……。
「城館」から継承する幽閉や火付けのミーム。しかし本作ではより刹那的な写真のなかというのが、より幽玄な阿鼻叫喚を生む。中枢となるのは「陽はまた昇る」(『影を買う店』所収)について説いた際にも触れたとおり、「あなたはわたし、わたしはあなた」という魂の同化であるが、加えて循環する永遠の時というものが備わっている。これは以後、本書のほかの収録作でも登場するテーゼであるから記憶にとどめておこう。
 さらに同化のイメージは細部にも渡り、たとえば、ともに夕陽に焙られた写真館へと通じる未舗装の道と、舟が待つ砂浜へと至る道。砂の舟を漕ぐオールと、継母の体内をかき回す金属……しかし、より細部には叙述による魔術がさりげなく演出されている。
 概要を見てもわかるとおり、〈私〉と〈わたし〉の出現だ。これは語り手=〈私〉、女主人=〈わたし〉とを区別しているのだが、そう思って読み返せば、冒頭の語り出しがそっくり〈わたし〉として叙されていることに気がつく。読み始めたときにはもうすでに、〈湖底〉ならぬ海の底――屍蝋ならぬ幽霊の集う水底、時をパッケージしたかのような異世界――に踏み入った読者もまた、〈幽閉〉されてしまっているのである。

 せっかくカイヨワを引き合いに出して「幽霊小説」ならぬ「妖精物語」として語ろうかと意気込みながら、ぜんぜん「妖精」が出てこないじゃないかと、やかましい耳鳴り。出てきたじゃないか、『レイミア』という名の妖かしが。
 鏡に覆いをして、わたしは盲目になった。鏡を見るたびに消えていく記憶のおかげで、私は自分のこともよく思い出せない。覆いの縮緬の模様、朱と金と緑と青だけは鮮明におぼえている。
 雑木林のなかの一軒家には若い男の写真がばらまかれていた。きっと捨てたのはあの家に住んでいた女。あの家に男は通ってきていた。男は顔に火傷をもつレーサー。レースの最中に事故に遭い、女は去り、あなたは女の家に通うようになった。……これはわたしの想像。
 若い娘が髪を振り乱して雑木林を走る光景。浴衣の懐に隠し持っているのは、粟を食って死んだひよこたち。人妻は生きながら冷えた墓土となって、夫と冷めた関係を続ける。その人妻こそ、わたし……じゃない。
 貨車に乗った記憶。山積みになった石炭のすき間から腐爛した骸が見える。鏡の覆いをとる。――鏡の中に横たわっているのは……。
 女〈吸血鬼〉とも称されるこの魔物Lamiaについては、澁澤龍彦『東西不思議物語』の一節を参照したい。
「ラミアはもとフリギアの女王で、ゼウスに愛されたほどの美女であったのに、その子供を失ったことから、世の母親すべてを嫉妬するようになり、ついには片っぱしから子供をとらえて食うという、おそろしい所業に及ぶようになったという。おもしろいのは、このラミアもまた、***のように、しばしば鳥の姿で表現されるということだ。」
「水族写真館」と同じく、写真を媒介に「あなたはわたし、わたしはあなた」をめぐる物語である。2人の会話はさながら尾を食らいつくウロボロスのようだと喩えてしまっては、循環する時(永劫回帰)や失っていく記憶=増していく記憶(陰陽)に繋がるとはいえ、いささか蛇のイメージに頼りすぎる。
「ひとのこころはしらくもの、われは曇らじ心の月」「鳥もよし鳴け、鐘もただ鳴れ。夜も明けよ。」「君を思えば徒歩跣足」……小野小町の亡霊のもとに百夜通いをする深草少将の怨霊を描いた、観阿弥作の能演目「通小町」をダブらせながら、鳥のイメージをトリヴィアルに散りばめさせ、あたかも数多伝わるLamiaの肢体を体現しているかのようである。〈あなた〉を百夜通いをはじめたレーサーの男であると嘯くくだりは、さながら両性具有の体であろうか。
 にしても、蛇女を「妖精」と呼ぶのはお門違いじゃないか? かの怪談文芸の重鎮・東雅夫氏と加門七海氏の対談にだって、
東 西洋ネタの国産オカルト映画や小説を見ていて感じる素朴な疑問として、生半可な語学力で外国語の呪文や経典を扱って、果たして効力があるんかいな……と思わず突っ込みたくなるときがありますね。そもそも宗教観も世界観もまったく異なる国で、藪から棒に魔王召喚の呪文を唱えて、巧くいくのかよ、と(笑)。常にそういう胡散臭さみたいなものが、西洋オカルトを日本で扱う場合には、つきまとう気がします。
加門 「妖精の踊り場」の伝承ってあるじゃないですか。草原の中に一箇所、草が円形に生えている場所があって、そこは妖精たちが輪舞した跡だと信じられているという。伊豆の修善寺に行ったとき、それとよく似た場所があったんです。やっぱりちょっと不思議な感じなんだけど、一緒に行った友達に「これは妖精さんの踊り場だね」と言われて、すごい違和感を覚えたんですね。
(中略)昼寝でもしたら気持ちよさそうな場所なんだけど。とはいっても、そこで「妖精さん」はないだろうという気持ちになる。
東 でも、たとえば『大江山幻鬼行』の最後のほうに出てくる存在(もの)なんて、いかにも西洋の妖精と似たような印象を与えるじゃないですか。ちょうど掌サイズで。
加門 あっ、そうか。私はそれ、気がつかなかったな。
(対談集『ホラー・ジャパネスクを語る』より)
 掌に乗る蛇女なんて、そんなカナチョロみたいなのいるのかよ、と。
 なんとまあ、耳が痛い。けれども、こう考えようじゃないか。
 すべては作者たる皆川女史の掌のうえ、と……尾跡、おあとがよろしいようで。


 中国東晋の文人・干寶が著したものを底本とし、岡本綺堂が翻案したことでも知られる志怪小説集『捜神記』。所収された一篇を下敷きにした「花の眉間尺」
 前作「レイミア」における「通小町」との関係性を継ぎ、東雅夫氏がいうところの「作者が偏愛してやまない古今東西の文学作品から、興趣のおもむくまま選りすぐられた詞藻の数々を綴り合わせて、パッチワークさながら、まったく別個の小宇宙を幻成せしめるという試み」を繰り広げるさまはまさに面目躍如といったところか。
 油煮えたぎる釜のなかに3つの首。老婆が若者に「眉間尺」を語っている。
 楚(そ)の干将莫邪(かんしょうばくや)は楚王の命をうけて剣を作ったが、三年かかって漸(ようや)く出来たので、王はその遅延を怒って彼を殺そうとした。
 莫邪の作った剣は雌雄一対(しゆういっつい)であった。その出来たときに莫邪の妻は懐妊して臨月に近かったので、彼は妻に言い聞かせた。
「わたしの剣の出来あがるのが遅かったので、これを持参すれば王はきっとわたしを殺すに相違ない。おまえがもし男の子を生んだらば、その成長の後に南の山を見ろといえ。石の上に一本の松が生えていて、その石のうしろに一口(ひとふり)の剣が秘めてある」
 かれは雌剣一口だけを持って、楚王の宮へ出てゆくと、王は果たして怒った。かつ有名の相者(そうしゃ)にその剣を見せると、この剣は雌雄一対あるもので、莫邪は雄剣をかくして雌剣だけを献じたことが判ったので、王はいよいよ怒って直ぐに莫邪を殺した。
 莫邪の妻は男の子を生んで、その名を赤(せき)といったが、その眉間が広いので、俗に眉間尺(みけんじゃく)と呼ばれていた。かれが壮年になった時に、母は父の遺言を話して聞かせたので、眉間尺は家を出て見まわしたが、南の方角に山はなかった。しかし家の前には松の大樹があって、その下に大きい石が横たわっていたので、試みに斧(おの)をもってその石の背を打ち割ると、果たして一口の剣を発見した。父がこの剣をわが子に残したのは、これをもって楚王に復讐せよというのであろうと、眉間尺はその以来、ひそかにその機会を待っていた。
 しかし、齢のせいか老婆の話は無駄な経路をさまよい、やれ女の肉がまじったほうが美味だの、ギブスは訛りでギプスだの、挙句の果てには、剣をつくる間に子を孕ませるなんて精進潔斎がどうのこうの、原典自体が非論理的だと若者に突っ込まれる始末。
 それが楚王にも感じたのか、王はある夜、眉間の一尺ほども広い若者が自分を付け狙(ねら)っているという夢をみたので、千金の賞をかけてその若者を捜索させることになった。それを聞いて、眉間尺は身をかくしたが、行くさきもない。彼は山中をさまよって、悲しく歌いながら身の隠れ場所を求めていると、図(はか)らずも一人の旅客(たびびと)に出逢った。
「おまえさんは若いくせに、何を悲しそうに歌っているのだ」と、かの男は訊いた。
 眉間尺は正直に自分の身の上を打ち明けると、男は言った。
「王はおまえの首に千金の賞をかけているそうだから、おまえの首とその剣とをわたしに譲れば、きっと仇を報いてあげるが、どうだ」
「よろしい。お頼み申す」
 眉間尺はすぐに我が手でわが首をかき落して、両手に首と剣とを捧げて突っ立っていた。
「たしかに受取った」と、男は言った。「わたしは必ず約束を果たしてみせる」
 それを聞いて、眉間尺の死骸は初めて仆(たお)れた。
 旅の男はそれから楚王にまみえて、かの首と剣とを献じると、王は大いに喜んだ。
「これは勇士の首であるから、この儘(まま)にして置いては祟(たた)りをなすかも知れません。湯※(「獲」の「けものへん」に代えて「金へん」、第3水準1-93-41)※(「獲」の「けものへん」に代えて「金へん」、第3水準1-93-41)(ゆがま)に入れて煮るがよろしゅうござる」と、男は言った。
 王はその言うがままに、眉間尺の首を煮ることにしたが、三日を過ぎても少しも爛(ただ)れず、生けるが如くに眼を瞋(いか)らしているので、男はまた言った。
「首はまだ煮え爛れません。あなたが自身に覗(のぞ)いて卸覧になれば、きっと爛れましょう」
 そこで、王はみずから其の湯を覗きに行くと、男は隙(すき)をみてかの剣をぬき放し、まず王の首を熱湯(にえゆ)のなかへ切り落した。つづいて我が首を刎(は)ねて、これも湯のなかへ落した。眉間尺の首と、楚王の首と、かの男の首と、それが一緒に煮え爛れて、どれが誰だか見分けることが出来なくなったので、三つの首を一つに集めて葬ることにした。
 墓は俗に三王の墓と呼ばれて、今も汝南(じょなん)の北、宜春(ぎしゅん)県にある。
 話は辛うじて生首を運んだ話という本題をそれることなく、カプチン会のミイラの話にまで及び、動機付け不明の旅人の行動に何とか合理的な解釈を挑もうとした若者だったが、次第に語尾を失っていき……。
 せめぎあう問答こそ、本作のおもしろみの真髄であり、「結ぶ」でも見られたそこを引用するかというような細かいネタにも面食らう。なお、概要の一部は岡本綺堂『中国怪奇小説集 捜神記』(青空文庫)から「眉間尺」の項を全文引用している。
 老婆が末期につぶやく「心中油地獄」というと、近松門左衛門の「女殺油地獄」が連想されるが、これはもしや「曾根崎心中」と「女殺油地獄」を足した作者流の遊びだろうか。ともに実在の事件を題に採ったといわれている2作品からその図式を拝借・反転したのちに、もっと妄想を膨らませれば、ことの舞台は「眉間尺」を模倣した猟奇事件の渦中にあるようにも思えてくる。
 それこそ「結ぶ」に描かれたような、暗黒神話とも呼ぶべきサド・マゾ・エロ・グロひしめく壮大な背景が。




【参考文献】





深草の少将百夜通い 観世能楽堂 9月観世流定期能 - 別無工夫 通小町 謡曲を読む
捜神記 - Wikipedia 岡本綺堂 中国怪奇小説集 捜神記(六朝)




『結ぶ』/皆川博子・後篇につづく

 







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