昔の話である。今では暈色層主人の姿を模した石像で埋め尽くされているこの街も、花々が咲き誇り、緑の枝垂れが通りの屋根となり、グラデーションの際立った店の看板が陽の光を浴びて生き生きとしていた時代があった。人々の声も快活で、何より喧騒に子どもの声が混じっていた。
かくれんぼがすきです。かくればしょはじゅんしょくがにんきです。ぼくはあしがおそいのでいつもさきをこされます。
だからめだたないいろにかくれます。いろがめだたないとぼくがめだってしまいます。じゅんしょくはいろがめだつのでかくれてもめだたなくなります。だからにんきなのです。
その友人の名前はすでに記憶から失せている。苔むした石畳を駆ける後姿だけ覚えている。その日以来、彼の姿は見えなくなった。家々の住人が慌てふためき、警察が動き出したが結局見つけ出すことは出来なかった。
行方を知らないか、と何遍も問い質され、そのたび首を振った。何も知らない、何も見ていない、返事は頑なだった。
ほんとうのことをいいます。くさむらにとつぜんはいいろのあながあいて、おとこのひとがあらわれました。おいでおいでとてまねきをしました。こうえんにたつモニュメントのてっぺん、まっかなたいようのモチーフにかくれていた、……くんが、はしっていきました。
ここにかくれるといい、ぜったいみつからない、おとこのひとがいいます。ぼくはそのときふんすいのみずいろにかくれていたのです。……くんは、あなにはいっていきました。おとこのひとがバイバイをするとあながなくなってしまいました。
あの穴は本当に灰色だったのか、今思うと燦然と煌く虹色だったような気もする。歳を重ねるにつれ、視野がくすんでいくのが分かる。あの頃の灰色は、いまでは眩しすぎる。暈色層主人が自身の豪邸に色を蓄えているおかげで、私たちは目晦ましから守られているのだ。
あのおとこのひとはまちのひとをだまして、いろといういろをひとじちにして、えらくなりました。みんな、しっているのに、かくしているのです。よけいにめだつのに。
日に一度の定刻の挨拶だ。街頭ビジョンに映るその顔はモノクロだが神々しい。物静かな街に立ち、私たちは崇める。豪邸に招かれ戻って来ぬ子どもたちは、色とりどりの物に囲まれ生を謳歌していることだろう。いいのだ、いつか色から解き放たれて街に戻ってくる頃、気付くだろう。
暈色層主人の、野蛮な偉大さに。
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