さて、トイストーリー3。最初に言ってしまうとこの3部作はとてつもなく名作・名シリーズと呼んでもいい。ピクサー映画の代表作としてきっちりやるべきことをこなしていると思うよ。揺るがない。
とりあえずトイストーリーの『1』は、本当に名作で、玩具が玩具に悪さをする(笑)ガキを懲らしめるという御伽噺としても完璧な脚本。このときからトイス トーリーの本筋というのは、どこかからアンディの元へ戻るという一連が軸としてあり、『ホームアローン』を髣髴させるような目からウロコ的な着想で脱出す るというのが見所でありお約束です。
『1』ではほんの少しの距離(隣の家)でまったく状況が変わり、そんな少ない距離でも玩具たちにとっては冒険譚となる。ということをはじめて描き、玩具を 改造しているシドを敵役に配置することで、玩具遊戯の異化、つまり玩具でどのように遊ぼうが持ち主の勝手だがしかしその遊び方は玩具にとって本意なものな のか、を巧く描いています。また隣同士の同年代ボーイということでアンディとシドが対になっているため、アンディの元に戻りたいという気持ちがひとしおに 感じさせるという、設定からして地味ながらも大正解の設定。
『2』では、大人が介入して来、“玩具は遊戯するためのもの”とは別な一面である、コレクション(価値)にスポットを当て、その中でやっぱり玩具は子ども に遊ばれてこそという概念と、価値を見出され博物館に展示されるという生き方こそ望ましい生き方だという概念の鬩ぎ合いが描かれます。ここで玩具同士の考 え方の差異を描いたのは画期的で、いわゆるバイヤー(?)=玩具を集めて売りさばく人を前作でいうシドの立ち位置にしなかったのが、評価すべき部分だっ た。あくまで『2』が上映された当時の話。
『2』ではジェシーが初登場。ここで初めて捨てられるという玩具にとっての絶対的な悲しみが示され、ウッディたちにもいつかは捨てられるんじゃないかという不安を深層に残したまま、終結した。そして『3』ではこの部分を真正面から描いています。
基本的なパターンとして、ピクサー映画の特色は前述した脱走劇にあります。
『1』ではシドの部屋、『2』ではバイヤーのオフィス。そして『3』では保育園。
この保育園という舞台設定は確かに巧い。個人のものではなく不特定多数の子どもたちに遊ばれる、それは『2』で方向性の異なる見解(遊戯よりも価値)を きっぱり否定した上で、個人(アンディ)との決別を図った結果として最適。もちろんそのきっかけは人間側(アンディママ)の発想であり、単なるリユースに 過ぎないので、コロンブスの卵とはいえませんが、『3』の舞台、個人から社会へというアンディの大学進学と重なっているところもまたグッジョブ。また大団 円を想起させる(要は規模がでかい)、子どもを客観的に捉える場などなど、これまでとは一線を画す新たな視点の確保という意味でも素晴らしいと思います。
テーマについてから外れて、描き方について述べると、たとえば『1』にてシドに改造された玩具たちを思い出させるような恐怖が『3』では露骨に描かれています。
半ば壊れかけの赤ちゃんの人形であるとか、トイレから顔を出す赤ちゃんの人形であるとか、深夜ブランコに乗って月を見上げエクソシストばりに首がくるりと する赤ちゃんの人形であるとか。本当に怖い。子供向けでない一番の理由はこれかと思われるのですが、でも冷静に考えてみると、それは違います。
赤ちゃんの人形が怖いと思うのはこれ、玩具に幻影を見なくなった大人たち。つまり物であるのにまるで生きているような、中途半端に精巧な人形は却って気味 が悪い。俗にいう『不気味の谷現象』といいますが、人形が身近にある子どもたちは果たして大人と同じ恐怖を感じるかというのは考えどころ。まるで何時ぞや のオムツだかのCMを思い出します。
つまり大人だからこそ赤ちゃんの人形は怖いんじゃないかなあと思うわけです。
とは言え、赤ちゃんが脱走しようとする玩具たちを捕縛するシーン。映画『フランケンシュタイン』であるとか往年の怪奇・スリラー映画を髣髴とさせるシーン の連続に僕みたいなB級ホラー好きはもうワクワク。おまけに猿のシンバル人形が出てくると筒井康隆『母子像』だとかスティーヴン・キング『猿とシンバル』 を思い起こさせる不気味さ(とはいえ、本作の猿はリアルさが恐怖の源泉であって、玩具としての恐怖ではなかったことがちと残念)。
ちなみに、赤ちゃん人形とラスボスである熊のロッツォの友人であったピエロの人形。ピエロというとキング『IT』であるとか、『SAW』シリーズと同監督 のゴシック人形ホラー『デッド・サイレンス』などに登場する操り人形めいて人形ホラーの定番であり、一方熊のぬいぐるみというと一般的にはテディベアを思 い起こさせシオドア・スタージョン『熊人形』を連想します。今思えばハグベアというキャラクターの名称は、ウェールズ地方に伝わる伝承に登場するバグベア という熊の皮を被った悪い妖精(悪い子を見つけると食べちゃう)を連想させ感慨深いです。ちなみに『ゲゲゲの鬼太郎』にて異様な存在感を放つ西洋妖怪のボ スバックベアードは姿形こそ熊とは縁遠い一つ目の妖怪ですが、水木しげる翁の創作で、その原点は前述のバグベアにあります。ラスボスという意味で、ロッ ツォと重ね合わせるのはこじつけに過ぎますが、結論を言えばデイジー(だっけか?)が可愛がっていた三体の人形(猿は違う)はどれもホラーの定番。同じ テーブルに座っている回想シーンを見ただけで、ホラー魂がぞくぞくっとする訳ですよ。デイジーのその後が気になります。
そういう意味では重要人物となるボニー(かわぁいぃっ!)が初登場シーンで、件の猿の人形で遊んでいたというのがなんとも……ホラーフリークの想像力が暴走してしまいそうです。
閑話休題。
『3』ではそのような玩具特有の恐怖もありながら、玩具から見た恐怖もしっかり描いています。だからこの作品は重い。だからこそ完結編として立派。
要は、ウッディたち面々はクライマックスで絶対的地獄であるゴミ焼却場に辿り着きます。ゴミがあまりにリアルで汚らしいはずなのに、『WALL・E』とは 異なったエネルギーを持つゴミの描写。『WALL・E』が退廃していった結果生まれたゴミであるのとは対称的に、現時代に実際存在するインフェルノですの で、まさに活火山というべき猛然ぶりは決して目を避けられません。火を目の前にウッディたちが“諦める”というシークエンスは最早『1』から無意識下に予 想していたカタストロフィーの決着として、もうこの上ない。肝が震えます。
ただ、ここでひとつ苦言を。
個人的な着想であり、僕自身果たしてそれが最適か、必要か、判断しかねるのも事実。もしかしたら大多数の方が否定するかと思われますので、ひとつの案として。
の前に復習。
ピクサー映画は悪役の描き方が固定化されていて、『2』のプロスペクター、『3』のロッツォでもパターンどおり。つまり悪い奴はとことん悪くて、悲惨な目にあえばよろしいジャマイカという描き方です。
『2』の時点でプロスペクターの行く先がいまいち偽善過ぎて逆に人が悪いオチのつけかただなと思ったのが事実。大体プロスペクターは単に博物館に寄贈され るのを夢見ていた耄碌じいさんであり、行った悪いことと言えばウッディを連行しようとしただけ。結局玩具は遊ばれてなんぼだという価値観を持つウッディた ちの抵抗にあい、プロスペクターは『1』のシド的キャラクターといってもいい女子に連れて行かれます。ただプロスペクターの言い分である価値を尊重すると いう考えは、老獪したキャラクターとして真っ当ではないのか。玩具は死んでも玩具でしょうが、使い古された玩具に価値を見出すことは決して玩具のあり方を 否定するようなものではなく、過去数多の子どもたちに遊んでもらったという歴史をも含んで価値を保存すること。それは玩具にとって悲惨な末路とは考えづら い。このテーマは『3』において一応の決着がつき、玩具は遊んでもらうことが一番の幸福であるという価値観が『トイストーリー』シリーズの根底にあると描 かれますし、ある種それを過去の産物とするのは人間のエゴなのかもしれません。ただやっぱりプロスペクターは手段が過ぎただけで、同情を継続する余地は あったように思うのですが……。
『3』のロッツォはもう少し意地悪くて、保育所の玩具たちを牛耳り、脱走したり歯向かったりする玩具を拷問のような仕打ちをしていました。悪い。確かに悪い。ただプロスペクターと同様、持ち主に捨てられた経歴があります。もちろん保育所にいる玩具は大半がそう。
ただロッツォが他と異なるのは、捨てられた(実際は忘れられた)後、持ち主の家に戻ると、そこには別のハグベア(商品としては同一)が可愛がられている場 面に出くわすという、ただ捨てられるだけでなく代替されているという事実に直面する、という『トイストーリー』内で暗黙の了解として描かれてこなかったご くごく一般的な常識をストレートに描いています。
それは“玩具が捨てられる=玩具のパーソナリティ(個性)ゆえの悲劇”ばかりでなく“代替される=アイデンティティー(同一性)の否定”さえも与えられてしまったという二重苦。『トイストーリー』史上、最も極悪な玩具であるロッツォは最も悲哀な玩具でもあります。
ここで気になるのは、その場面を目撃した際、同行していたビッグベイビーとピエロのチャックルズには見せなかった点。
一緒に観に行った嫁は、それがロッツォの優しさだと感想を残しました。
確かに、ロッツォはチャックルズが語るようにデイジーの家を去った後、車の荷台から転げ落ちたときに人格が変わったような描写(ダークサイドに落ちる結構は後述します)をされており、デイジー宅ではまだ元の人格を保っているように見えます。
一緒に忘れ去られた三体ですが、実際買いなおされたのはハグベアのみ。逆に考えれば買いなおされもしなかったビッグベビーとチャックルズは、まさにアンディが大学行きを選んだウッディと選ばなかったバズたちの対比に重なります。
結局、ロッツォはその事実を二体に知らせないために見せなかったという解釈が出来ます。ではそれが真実か。本当にロッツォは友だち思いの良い奴だったのか。
実はここがすごく曖昧に描かれているような気がします。
ロッツォは実は友だち思いというよりか自己顕示欲が元々強いだけなのでないか。二体に見せなかったのはせめてロッツォ自身のアイデンティティーを保ちたいための最後の抗い、プライドを守るための咄嗟の行動だったのではないかという見方も出来ます。
というのも友だち思いというのは客観的に見れば諸刃の剣で、保育所の中でのロッツォの立場を見る限り、真の友だち思いが歪んだ結果として見るよりか、自己 顕示欲が成就した結果として見た方がスマートではないか。どちらともとれるところで、ラストに至っても明確にされません。ヒントだとか、描くチャンスは あったのですが(後述)
ところでロッツォがダークサイドに落ちる場面。(ちなみにダークサイドというとスターウォーズ、スターウォーズというと『2』のパロディを思い出します)
明らかにアナキン・スカイウォーカーがダークサイドに落ちる瞬間の表情を意識しています。で思うに、ロッツォというキャラクターは、ウッディがダークサイ ドに落ちた場合として相対する存在であることは間違いない。ここで友だち思いという性格が機能している訳ですね。言うなれば(三部作繋がりで、上映時期も かぶるため『踊る大捜査線』なんかと比べたくもなりますが、いやいや邦画にはもっと相応しい三部作がある! それが……)破格の制作費で作られた『20世 紀少年』のケンヂとともだちの関係と同じですね。ケンヂとともだちは作者である浦沢直樹のヒーロー像とアンチヒーロー像に自分を重ね合わせたキャラクター でした。ラストでケンヂをカリスマヒーロー化することから、ロックが世界を変える! ロックがヒーローッ! ヒーローは俺だ! というまさに自己顕示欲の 賜物。結局、ケンヂが第二の(実際は第三の?)ともだち的な存在にしかなり得ないという物語の閉じ方は、『トイストーリー3』にも通じるウロボロス解釈 (最初に戻る)にもつながります。ラストシーンの青空は『1』のアンディの部屋の壁紙にそのまま繋がるわけなので。部屋の壁紙が実際の青空となって物語が 閉じるというのも、個人から社会に進出するという物語のテーマとも合致していて、まあ素晴らしい組み立て方だなと思います。だからこそ完結編としてこの上 ないラスト。
ちなみにヒーローとアンチヒーローを背中合わせにするという趣向は真新しいものではなく、最近では『ダークナイト』のバットマンとジョーカーであるとか 『スパイダーマン3』のスパイダーマンとヴェノムであるとかアメコミのような善悪の対決物では教科書の最後の方に出てきそうな伝家の宝刀。
個人的には
『1』ライバルとの出会い、訣別。(グリーンゴブリン : バズ・ライトイヤー)
『2』自分の価値を評価してくれるものとの出会い。(Dr.オクトパス : プロスペクター)
『3』そして自分の鏡像との戦い。(ヴェノム : ロッツォ)
ということで『スパイダーマン』シリーズは『トイストーリー』のウッディからみた物語と重なるのではないかと思い、非常に興味深い。物語の序破離に因るものかもしれません。
さて、話がずれにずれているので、本筋に戻します。
僕がどうしても気に入らない点はロッツォの落とし前のつけ方ですね。
ウッディたちの面々とロッツォがゴミ焼却場に運ばれます。
第一の関門が、ゴミ収集車の中。次々と収集されるゴミの下敷きになりかねない。実際、バズはテレビの下敷きになってしまいます。
第二の関門が燃えるゴミと燃えないゴミの区別をするコンベアー。
第三の関門が焼却炉にいたるコンベアー。
ここでロッツォが再び登場するのは第二の関門でした。ゴミの下敷きになって動けないところをウッディとバズに助け出されます。そして第三の関門にて、普通に恩を仇で返す。
そこまでは非常に巧みで、件のウッディたちが覚悟を決めるシーンへと雪崩れ込んで行くわけですのでCGアニメ史上屈指の名シーンと言いたいぐらいなのですが、ここで■STOP
ここでロッツォに裏切られることで、後にウッディが“あんな奴なんか追いかける価値もない”みたいなことを言う、つまり物語上からも見捨てられることで、悲劇と捉えてもいい。
ただ甘ったるいなと。
たぶんロッツォの最後については気になった人も多いと思います。あれでは結局何も変わっていないし、ウッディたちが戻ってきたようにロッツォも戻ってく る。戻ってきたら繰り返し繰り返し。もちろん保育所のメンツは改心しているだろうし、そういう意味での繰り返しではなくて、解答を提示したか否かの話。
ロッツォというのは前述のとおり、人間に捨てられた玩具の象徴として描かれています。中でも特に重い悲しみを背負い、且つ同じ玩具を虐げるという重罪をも 背負っている。つまりロッツォの行く末は、すなわち捨てられた玩具の行く末であって、あの終わり方はただ単に悲しみや怒りがフラストレーション化していく に過ぎないのかなと。
ある意味で仲間を見つけたロッツォ。自分に愛着を持っている持ち主と出会ったわけですが、あれは奇跡的なもので、単なるゴミとして焼却炉に戻される可能性もあった。つまりあの結末はロッツォの行動云々が齎したものでは全くないというのが事実。
決して全世界にごまんといる捨てられた玩具たちが報われるような終わり方では決してない。それでいいのか、というのが正直なところ。
僕は観ている途中、もしかしてもしかすると本当の恐怖はロッツォの死にあるのではないかと、第三関門の場面で予想していました。もしそれがあれば、クライマックスの“諦め”はもっと烈しく感じえたことでしょう。
具体的にはどういうことか。
方法や手順はなんでもいいです。
・ロッツォが改心して、ウッディたちを助けるために炎の中へ。
・ロッツォが改心せず、自分だけ助かろうとした結果、事故的に炎の中へ。
大事なのは、ウッディたちの目の前で同じ玩具が燃え尽きるというところにあります。焼却炉はイメージだけでもこの世の果てのように思えるので、そこまで突 き詰める必要はないかもしれない。実際、それで十分成立している。ただ、焼却炉で燃えていたのはゴミであって玩具ではない。本当に心の底から恐怖と諦めを 味わわせるにはやはり玩具を犠牲にしなければならない。あの状況で犠牲になりうるのはロッツォしかいません。
ウッディたちの覚悟のために留まらず、ロッツォが改心するにしろしないにしろ、焼却場で命を失うこと自体、捨てられた過去をもつ玩具たちに対する(不謹慎ですが供養に近い)精算にも値するのではないかと思います。
もしロッツォが本来友だち思いのいい奴だった場合、ビッグベビーにとラッシュケースの中へ落とされた時点で、改心するきっかけになりえたはずですし、普通の物語ではウッディたちに助けられて改心するというのが(確かに日本的な感覚ではありますが)定石ではないのかなあと。
とりあえず、単体の映画ならともかく天下の『トイストーリー』ですからピクサー流のシナリオ運びや、子供向け映画の常識を覆すことをしてもよかった。第 一、明らかにこの映画はかつて子どもだった観客が、アンディのように成長したと見越した上で作られています。だからこそ、大人向けにつくられている。にし ては爪が甘いような気がするし、完結編なんだからそれぐらい突き抜けた方が、印象に残っただろう。
ただ前述したとおり、これはあくまで僕個人の見方であり、決して実際の形を否定するわけではない。
まあ、そう思った一番の理由は、ロッツォのふかふかさが燃えやすいなあと思っただけなんですが。
さて、そろそろ終盤。
シリーズのまとめに入る、ラストシーン。三作目にしてアンディの視点からストーリーそのものが描かれるシーンです。ある程度、冒頭からアンディのいい奴ぶりが匂うので、心待ちにしていたらあのいい奴ぶりですよ。個人的にはハムのが好き。
で、あの終わり方。つまりボニーに譲るというくだりですが、初見時はどうにも納得がいかなかった。『2』と同じことを言いなおした、やっぱり最後はそこに行き着くという点で確かにそれ以外のものはないのだけど、本当にそれでいいのかと思う。
だが、ウッディたちは保育所という場所を知り、そのシステムを知った。
ボニーが成長すれば、また別の子どものところへ。それが自分たちにとっても子どもにとっても幸福なこと。ならばなぜ保育所に行かなかったか。なぜボニーだったか。
ボニーは可愛いから(笑)
単体のオチとして、三部作のオチとして、あれで良かったのだと思う。
何より最後の最後でアンディからの視線に変わって、それまで紡がれていたウッディたち玩具から持ち主アンディへの愛情の物語は逆転して、アンディからウッ ディたちの愛情の物語であったことが分かるという流れ。こんなスムーズにさりげなく、当然なことながら、観客である人間たちの胸を打つ、完璧なエンディン グはない。
アンディのさりげない仕草(ウッディだけは渡さないといったのあの一瞬の行動)。
そして十数年間の思い出が一気に放出する、アンディとボニーのおもちゃ遊び。
『トイストーリー』が三作を通し目指していた本当の幸福を、ベストな形で描いていた。
今回何より泣かされたのは、ストーリーではなく、キャラクターの表情だった。
焼却場でのウッディたちの決意の表情(特にジェシー)。水溜りにはまったロッツォの表情。アンディに屋根裏行きの袋に入れられた際のバズの表情。めぐり合ったバービーとケン(ちなみに今回女性キャラがどれも愛しくて敵わない)。
純粋に玩具を愛するボニーの無垢な表情。息子の旅立ちに涙ぐむアンディの母親。そして、自立するアンディ。
本当にアニメだからこその万能な演技であるのに、それが生身の人間が演じているような息吹の吹き込み方。リアルさ。けれどもやっぱり生身の人間では表現できない。もう何が何だか分からないけど、とりあえず僕を涙ぐませたんだから凄いんだよ。
一番やられたのが、アンディの台詞。
(ウッディは)「友だちを見捨てない」
仲間を見捨てないだかどっちだか忘れたけど、これにはやられた。ここで最後に深読み。
実は『トイストーリー』はアンディが夢見描いた物語であるという解釈も出来る。つまり、『3』の冒頭から続く飯事の世界。或いはボニーが空想した世界か。
もちろん夢オチだという言うわけではなく、大切なのはアンディが「友だちを見捨てない」と口にしていること。これはまさしくウッディそのものである。それこそ、ロッツォと対称的なように。
さて、「友だちを見捨てない」というのが玩具としての設定なのか、ウッディ個人の性格なのか、そこまではあえて深く調べなかった。
重要なのはアンディはウッディのことを知らないという点である。ウッディたちのこれまでの冒険譚について一切知らないはず。ダンボールの張り紙のくだり で、アンディはうすうす気がついているのではないかと考えているガキンチョの観客がいるようだが、そういう考えもありだ。まさに子どもじみた解釈は『トイ ストーリー』ならば許される。
ただそれは禁忌。『トイストーリー』は人間には気づかれないからこそ、成立する物語である。童謡『おもちゃのチャチャチャ』も決して玩具の持ち主には気付 かれないまま、夜の間祭りで行い、朝方眠りにつく。現実との境界が明確だからこそ、両者はファンタジーとして成り立っているのである。
だから決して僕たちは、現実世界でウッディの声が聞こえないのだ。
重要なのは、ウッディに対するアンディが設けた性格が、ウッディの性格となっていることである。つまり、ウッディ、ウッディばかりでなく、バズ、ジェ シー、ブルズアイ(かぁいい!)、スリンキー、ハム、レックス、ポテトヘッド夫妻、リトルグリーンメン、全てのキャラクターはアンディの人間性から生まれ ているということである。
だから決してアンディが思い描いた夢物語として『トイストーリー』がある訳ではない。アンディがアンディとして立派に育ち、玩具を愛したからこそ、生まれた鏡像の物語なのだと思う。
それ故、アンディの物語であるという言葉を使う。
そしてアンディとは、かつて玩具を愛した僕たち自身に他ならない。
ということで、『トイストーリー3』。
その名作ぶりはこんな駄話を見るより巷の評価を見たほうが早い。
というか多分みんなみてるんだろ。
みてないとか、それはやばいよ。
まあ、人のことは言えないけどな。
色々と惜しいところはあるけど、そこでさえ目を瞑っていられるのはやはり『トイストーリー』だからであり、その期待に十分応えたと思う。
で本当はみんなと同じことは言いたくないんだけど、こればっかりはしょうがない。
『トイストーリー3』、超おすすめです。
見ないとね、損するよ。
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