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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『鳥少年』『結ぶ』『影を買う店』まとめ

はい、ということで何かと紆余曲折ありました2013年も今日で終りでございます。
 ここんところ1,2ヶ月没頭に没頭を重ねた皆川博子短篇集への……

 あぁ、そういえば。
 前々からなんて呼ぼうかと逡巡しておりまして、感想というのもなんだか違うよなぁ、とか評論と呼ぶにはしっかりしていないし、とか、だから駄文って呼んでごまかしていたけどそれじゃああまりに不親切。ということで考えましたよ。一晩。というか、昨日2時間。
 それで固まりました。今後は、解釈:評説と呼ぶことにいたしましょう。
 ひとつに絞れよバカッとか思いますが、まぁまぁ熟慮した結果ということで。
 さて、そんな皆川博子短篇集の解釈:評説。にしたってあまりに長い。こんなのに付き合ってくれるネット流浪の民はいない。いたところで出せる粗茶も菓子もございませんが、ちょうどamazonカスタマーレヴューにぎゅっと凝縮させたものを載せましたので、時間の限られている方はこちらをどうぞ。

 これまでファンだファンだと主張していたもののなかなかその気持ちを形として出すには至らなかった。読書感想ブログは書けません、と自嘲していたのはいつのことか。ようやっと筆が慣れてきた頃合いに挑んだこれら解釈:評説。刮目せよ、とかいいません。参考にしろというのも烏滸がましい。
 しかし願わくば、これら作品集に対する理解・親睦の一助になることを。
 なに逆効果だって? 知るか。

「私が偏愛する作家の一人石上玄一郎は、処女出版の著書の後書きに、こう記しています。
〈自分のやうな作風のものが世間であまり歓迎されるとは思はない。(略)もし幸いに自分がこの貧しい著作を通して何人かと相知ることを得るなら、それはたヾかりそめの契りに終らぬことを固く信じて疑はぬ。〉
 拙作を手にしてくださる方々に、同じ言葉を捧げます。
 ありがとうございます。」
(『ジャーロ2013SPRING』ロング・インタビューより)

 俺が呼吸をしているこの場所は、もはやかの名高き〈月蝕領〉。
 その領土でのことばで宣するならば。
「小説は天帝に捧げる供物、我が解釈:評説は〈女王〉に捧げる供物」
「かりそめの契り」だなんてとんでもない。
 これは「永遠(とことわ)の愛のちぎり」ぞ。



『鳥少年』
解釈:評説⇒『鳥少年』/皆川博子
十数年、何処で何してた鳥少年。
 書籍化されることなく抜け落ちていた70~80年代の作品を集めたという触れ込みで、単行本が刊行されたのは99年。
 それからまた10年以上経ち、ようやく文庫化された本書。収録作を時系列で並べれば、以下のとおりとなる。

【70年代】
 『別冊問題小説』77年8月号     「火焔樹の下で」
 『小説現代』79年1月号       「指」
 『問題小説』79年1月号       「滝姫」
 『小説現代』79年9月号       「魔女」
【80年代】
 『問題小説』80年6月号       「泣く椅子」
 『SFアドベンチャー』80年12月号   「バック・ミラー」
 『問題小説』81年2月号       「密室遊戯」
 『月刊カドカワ』83年7月号     「鳥少年」
 『オール読物』83年8月号      「血浴み」
 『問題小説』84年3月号       「サイレント・ナイト」
 『問題小説』84年8月号       「黒蝶」
 『問題小説』85年3月号       「卵」
 『問題小説』88年8月号       「緑金譜」
 『問題小説』89年1月増刊号     「沼」
【90年代】
 『問題小説』91年9月号       「坩堝」
 『毎日新聞夕刊』99年8月11日付   「ゆびきり」

 これだけでもこの作家の、この文庫が、とりわけ異質であることの証明にもなるが、略歴を差し引いてもひとことでは説明しがたい魅力を備えている。

―― 最初から怖いぞ怖いぞというのではなくて、普通にすっと読んでいって最後にひっくり返されたときに、わっ、これは怖いと思うような……。(中略)合理的なもので隠されてしまっているけれど、理屈では説明できないような怖さに、一瞬パッと光りがあたった怖さ。

「幻想文学」インタビューにて、小説における怖さとはなにかという質問に作者はこう答えている。
 作者の短篇(長篇もしかり、だが)はホラー、ミステリ、幻想小説などジャンル分別をする暇もなく、前述の好みがきっちりと反映されたものが多い。確かに本書に収録されているのは、ひとことでホラーや幻想小説とは呼べない作品ばかりである。事実、この世ならぬものが明確に登場する作品はひとつかふたつきりしかない。その他はおおむねサスペンスの類だ。
 しかし、
1.「卵」や「黒蝶」における大衆演劇の舞台裏、「坩堝」の鋳造工、そして「火焔樹の下で」の精神病院、「サイレント・ナイト」のスキー場などの設定の妙
2.「緑金譜」の『玉虫物語』や「沼」の僧と稚児の話、「滝姫」の〈鬼姫滝〉、「ゆびきり」における隠れ座頭の噂など、背景にあるもうひとつの物語との共鳴
3.死者に化粧を施す「指」、間仕切りから隣室を覗きこむ「密室遊戯」、青年のパネル写真に囲まれて暮らす「魔女」などのうつくしき病たち
4.書簡形式の「火焔樹の下で」、美文調の「ゆびきり」、ラテンアメリカ文学に火種をもつ「バック・ミラー」など紡がれる文章技巧
 見慣れた日常にこれらがさっと入ってくることによって、たちまち人工的な世界が構築されていき、なんとも形象のしがたい独特な小説は最後、時に首をかられたような衝撃と、淡い砂楼を眺むような余韻、それぞれにうつくしき終わりを迎える。だからこそ恐怖小説と呼んでも差し支えないだろう。モダン・ホラーとも、サイコ・スリラーとも、サスペンスミステリーとも。うつくしき終わり……作者曰く「最後にひっくり返されたとき」とは、どんでん返しともショッカー的なオチとも呼べる。つまり皆川作品では本質的にミステリとホラーの境界がない。ミステリ領域における謎は人間心理の謎であり、人間心理の謎は総じて怖ろしいものなのだ。

 書簡小説という構成が見事な幕引きをみせる「火焔樹の下で」を筆頭に、そのラストシーンひとつ取り出したって息が詰まる思いを抱くものだ。
“おんな”の情念の深さがおそろしい「滝姫」「坩堝」「魔女」や、勁さが印象的な「血浴み」「指」。悪意と悪魔主義に満ちあふれた「密室遊戯」「サイレント・ナイト」「鳥少年」「泣く椅子」「沼」。一方で、哀しみに胸をしめつけられる「ゆびきり」と、大半を占める女性たちの物語がことさら印象的ではある。
 しかし男性を主人公とした諸作、嫉妬がみせた悪夢ともいうべき「卵」「黒蝶」、華麗な狂気の世界「緑金譜」、消えゆく青春時代「バック・ミラー」とこちらも負けず劣らず忘れがたい読後感を抱かせる。

 ミステリ的な解決・ホラー的なオチと呼ぶことも躊躇うような、余韻をも断ち切られたあとの虚無こそ本書の肝である。しかし一読して浮かび上がるそれら共通項は本書にとどまるものではなく、皆川博子という作家の魂に刻まれた黥の如し。
 世に出た時期も重ならず、半ば無作為に収集したかの如き本書。これまで温存されてきた本書収録作品でさえこの出来ならば、他も期待できるだろうというあなたの見解は正しい。
 本書によって女史の作品の端々を啄み、ここから某文芸評論家が名づけた皆川魔界に向けて巣立つのもいいだろう。そして、毎作品に酔わされ心かき乱されながら、女史の活躍に喝采を送ろうではないか。十数年の時を羽ばたいてきた〈鳥少年〉の翼に乗って。クァーオ!と啼いて。

『結ぶ』
解釈:評説⇒『結ぶ』/皆川博子・前篇
      『結ぶ』/皆川博子・後篇
結ぶとは2つのものをつなぐこと、
     事が締めくくられることかな。 
 98年に出版され、そのあまりの奇抜さに方方を沸かしたものの長いこと文庫落ちされなかった本書。

 超現実的でありながら異様にリアルなディティールの連なりに、あたかも鼻面を引きまわされるようにしてわけも分からぬまま読み進めてゆくうち、天啓のようにもたらされる驚天動地の幕切れ。そして、ひそやかに虚無へと溶暗してゆくかのような纏綿たる余韻……。読み終えたとき貴方の口もとには、醇乎たる文学ならではの感動――選び抜かれた言葉と奔放自在な精神の運動によって織りなされた異世界を堪能したという満足の微笑が浮かんでいることだろう。(『皆川博子作品精華 幻妖 幻想小説編』作品解説より)

 文芸評論家・東雅夫氏も並々ならぬ賛辞を送る表題作を含んだ14篇収録の傑作集が、4篇の増補を加えていよいよ文庫化となった。

 収録作を時系列で並べれば以下のとおりとなる。
『ミステリマガジン』89年10月号    「薔薇密室」*
『ミステリマガジン』91年4月号    「城館」
『小説宝石』91年6月号        「湖底」
『ミステリマガジン』91年9月号    「水の琴」
『ミステリマガジン』92年3月号    「水族写真館」
『ミステリマガジン』92年8月号    「水色の煙」
『野性時代』95年7月号        「薔薇の骨」*
『SFマガジン』95年8月号       「結ぶ」
『ミステリマガジン』95年11月増刊号  「メキシコのメロンパン」*
『オール読物』96年8月号       「空の果て」
『ミステリマガジン』96年12月号    「レイミア」
『小説現代』96年12月号        「川」
『オール読物』97年2月号       「花の眉間尺」
『オール読物』97年8月号       「心臓売り」
『小説新潮』98年1月号        「天使の倉庫(アマンジャコ)」*
『オール読物』98年2月号       「蜘蛛時計」
『小説新潮』98年8月号        「U Bu Me」
『オール読物』99年7月号       「火蟻」
(*は増補作)

 かつてロジェ・カイヨワは「妖精物語が好んでハッピー・エンドに向かうのに対し、恐怖に支配された雰囲気の中で展開する幻想小説のほうは、ほとんどの場合、主人公の死、失踪、呪いなどと結びつく不吉なできごとで終わらざるをえない。」(『妖精物語からSFへ』より)と指摘した。これを基にすれば、本書は「幻想小説」の極致と呼ぶべきだろう。しかし、カイヨワはさらに「幻想」とは現実世界の法則を無視して侵略してくるものというようなことを述べている。対して「妖精物語が成立する世界は、(中略)超自然こそがこの世界の基質」とも。つまり「幻想小説」では驚異とも恐怖ともなりうる「幻想」だが、「妖精物語」においてはその機能を果たさなくなる。なぜならば、それがあたりまえとなっているからだ。
 重要なのはここでいうところの「現実世界」が、読者にとってのものではなく作中人物にとっての現実であるということ。
 本書で描かれる「現実世界」は確かに読者が共有できる世界観での物語である。しかし、物語が深まれば深まるほどに「驚異」も「恐怖」も存在していないことがわかってくる。作中人物は起こる現象を受容し、はじめから境界などなかったかのように一体となってしまう。俗にいう「幽明一如」の世界を目の当たりにし、「驚異」「恐怖」を感じるのは読者だけにすぎないのだ。
 かつて作品集『たまご猫』(91年)の解説で東雅夫氏は同作者の作品を「怪談」や「幽霊譚」ではなく「幽霊小説」と呼んだ。登場する死者は実に人間臭く、生者である人物と差異がないためだという。
「幽霊小説集」といえば、他にも『骨笛』やら『薔薇忌』やら連想する作品集がある。小説賞の受賞歴などは度外視して全体への影響からみれば、本書は作者の活動歴のなかでもとりわけ到達点ともいうべき作品集。単に「幽霊小説」の極致やら最高峰とうたってもつまらないだろう。だからあえて別の呼称を設定するならば、本書は紛うことなき「妖精物語集」である。

 本書を開いてまず飛び込んでくるのは表題作であるが、とりあえずは目をそらした方がいい。
 読み飛ばすと「湖底」から始まる水のイメージに満ちた作品が連なる。湖底に屍が集まる短篇「水底の祭り」(76年『水底の祭り』所収)を思い起こすが、「湖底」で集まるのは幽霊とも言いがたい朧気な記憶のなかに住む人物たちだったりする。「水色の煙」は〈夢〉や〈時〉ということばが登場するとおり、寓話的印象が強い。「水の琴」は合間に挿入された西条八十「梯子」、作中人物が翻案したヴェルレーヌ「わびしい対話」など詩篇の断片が、噴水のさざなみや琴の音のように共鳴する。どちらも「幽霊小説」と呼んで差し支えない物語だが、現実に現れる幽霊というよりか、記憶や思い出のなかに住むものといった印象である。
 続く「城館」「水族写真館」「レイミア」「花の眉間尺」「空の果て」「川」までの6篇には、〈幽閉〉というモチーフが通底する。城館、写真、鏡、釜、古布の袋、そして映画。メタファーとしてよく語られる蝶それも死んだものを閉じこめる「城館」がわかりやすいが、〈幽閉〉されるのは魂。「水族写真館」もどちらかというと思い出に囚われてしまった女の話だ。だが「あなたはわたし、わたしはあなた」という魂の同化が『聖女の島』を思い出させ、それは同時に時間の反復、永劫回帰を意味している。「レイミア」も鏡を媒介とした「あなたはわたし、わたしはあなた」テーマだが、「幽霊小説」と呼ぶには逸脱しそうな化生が登場する「妖精物語」の白眉ともいえる。
「花の眉間尺」では志怪小説集『捜神記』の一篇を下敷きにし、語られる物語が作中の現実へと収束される。観阿弥「通小町」をなぞる一幕があった「レイミア」同様、さまざまな先行作品への言及も際立っている。ルナール『にんじん』や『舞踏会の手帖』に言及される「空の果て」は、異界訪問譚めいた男の一夜を描く冒頭が意味深に途絶えたまま、実母と伯母の確執にそれこそ「振り回される」女を描く。冒頭の男の正体がわかると同時に明らかになる奇想は、どこか洋風な感性を宿しているようだ。ちなみに『舞踏会の手帖』は「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(『たまご猫』所収)でも扱われ、かたや進駐軍かたや航空隊士と、両作品とも戦時下での交流が話の肝。先行作品への敬意は作品の域を越え、創作者の人生をも投影してくる。「川」は画家・村上芳生と三島由紀夫の交流を下敷きにしているそうだ。また、時間反復・永劫回帰を再開させる一方、「花の眉間尺」ではユーモアの種となった老いというテーマもにじみ出てくる。
「蜘蛛時計」「火蟻」は、のちの長篇にも相通じる異国への興趣を感じさせる。「蜘蛛時計」では本作掲載の2ヶ月後に連載開始となった『冬の旅人』を思い起こさせるロシア革命という主題を扱う反面、キリスト教徒迫害という部分は初期作品から受け継いだ。「火蟻」はまたも「あなたはわたし、わたしはあなた」テーマであることに加え、「厨子王」(『たまご猫』所収)の主題となった「安寿と厨子王」から奴隷制度が蔓延る背景、引き裂かれる姉弟という設定が流用されているように思う。
 一風変わって「U Bu Me」は、蛇女でありながら鳥の体をもつとも伝えられる「レイミア」と対比させられるような姑獲鳥の物語。姑獲鳥という妖怪が、子を奪う妖怪でありながら子抱幽霊の原型となり、さらにそれが手をつきだした「幽霊」全体のイメージにもつながるといい、まさに母胎という概念が横溢していることになる。怖気立つ怪奇描写もさることながら「湖底」「水色の煙」「城館」「水族写真館」などと合わせて広義の「幽霊屋敷」モノとも呼べそうだ。ラストで描かれる幻視的な肉体損壊を取り出し、人体にまつわる異形性としてさらに発想を広げれば「心臓売り」という抒情的な傑作に結実する。作者不動のキャラクター・抑圧された少女を主人公としながら、死への興味、社会へのペシミズムを活写する。しかし何といっても目を瞠るのは、ショートショートでいう「セールスマンもの」の発展形である心臓売りや、SFではおなじみの超能力をそうと語らず寓話調に昇華させるなど着想の妙だろう。

 増補された4篇はここまで述べた単行本収録作をつなぐ連関をさらに補完するものといえそうだ。
「薔薇密室」はのちに同名長篇が書かれているが、舞台も内容も異なるジロドゥの戯曲「オンディーヌ」を題材に「湖底」や〈水〉連作(「水の琴」~「水色の煙」)を彷彿とさせる冷たい水のイメージに満ちた一篇。「水の……」というと本作の翌年に書かれた「水の館」(『たまご猫』所収)を思い出すし、なにより作者得意のアナグラムによって明かされる人物名などにも共通性を見出してしまう。
「薔薇の骨」は「骨は年月が経つと水になる」という奇想にまず惑わされながら、「湖底」や「空の果て」と同種のアプローチで「幽霊」を描く。初出の場も違えば掲載時期も離れているわけだが〈水〉連作に加えていいほどに、結晶化した〈時〉の静謐さを感じさせる。
「メキシコのメロンパン」は奇特なタイトルを裏切らない、なんとも眩惑させられる一篇。これも「幽霊小説」のひとつとしてジェントル・ゴースト・ストーリーと評したい気持ちにさせるのだが、「花の眉間尺」や表題作に近い、悲劇を喜劇へと変えるひょうひょうとした語り口の背後に空々しい感覚が潜んでいるようだ。粋なラスト一行ににやりとさせられるという意味でも、「空の果て」の清々しさと似ているが、やはり怖がらせようとしないところが逆に怖い。さらに「水色の煙」や「城館」、長篇『聖女の島』(88年)に「お七」(01年『皆川博子作品精華 幻妖 幻想小説編』所収)などでも扱われる火と女という組み合わせも興味深い。(ただし本作では、不注意による火事であって故意の火付けではない……と思う)
「天使の倉庫(アマンジャコ)」もよく分からないタイトルだが、『たまご猫』表題作と共通する手のひらサイズのファンタスティックなアイテムが登場する。東雅夫氏は「閉所空間願望」の例として「たまご猫」を挙げたが、本作もまたしかり。そしてさらに本作では「たまご猫」以上の屋台崩しが描かれる。それも2つの意味で。

 ここまで度々『たまご猫』収録作と比較している。もっとも執筆時期が多少なりとも被っている(おもに90年代)から当然かもしれないが、本書は『たまご猫』と相対するかのような一冊であることは明らかだろう。それは出版社や編集者も既知のはずだ。なぜなら「天使の倉庫(アマンジャコ)」は『たまご猫』所収「雪物語」の続編(というべきか、B面、パラレルワールドというべきか)に値する作品だからである。そして、『たまご猫』収録作のなかでも随一の人情モノだった「雪物語」を文字どおり解体せしめる一作でもある。それをイイ意味で捉えるべきか悪い意味で捉えるべきかは判断に迷うが、むしろこうして浮き彫りになる人間の悪意を描き出す手練手管こそ、作者の本領であったことを確認できもするのである。

 さて、表題作。この作品の衝撃はつとに様々な場所で語られてきた。とりあえず奇想というものの極致であることは間違いない。
 だがこれを「幽霊小説」であると誰が言えるだろうか。語り手は何か「驚異」や「恐怖」を感じているだろうか。こちらがそれだと思うものを端から受容してはいないだろうか。よって「妖精物語」なのである。
 作中人物にとっての現実と先に記したが、それもそのはず。本書に収録されている物語はどれもこれも一人称世界、だれか個人の網膜によって映しだされた幻像なのだ。だからこそ、「驚異」も「恐怖」もない、しかし「妖精物語」のそれではなく、読者も共生しているこの現実こそが舞台なのかもしれない。そう思わせる余地があることが「幻想小説」たるゆえんであるとも言えるのだが、そう結論をだす前に筆を置きたい。
 なにしろ本書は、どことなく起承転結の結を失くしたと思われる物語が多い。『結ぶ』の結という字は生と死、彼岸と此岸、あなたとわたし、男と女、若と老……2つの意味をつなぐという意味がある。そして同時に、事の終りも示している。一人称の世界が途絶えればそこから先は無。つまり結を失くしているのではなく、先を描かれないことこそが〈結〉を成すわけだ。時間の反復、永劫回帰という強硬な〈結〉を迎えるものもあるが、それは破壊だろうか安定だろうか。
 本書が、物語をはじめると同時に終結を体現しているのであれば、同様に筆者の妄執もはじまったそばから結論づいている。
 しかしそんなことは分かりきっているから、「驚異」も「恐怖」もある、アンハッピーでトラジェディ、カタストロフィでバッドエンドな「妖精物語集」であると言い続けます。

『影を買う店』
解釈:評説⇒『影を買う店』/皆川博子・前篇の1
      『影を買う店』/皆川博子・前篇の2
      『影を買う店』/皆川博子・後篇の1
      『影を買う店』/皆川博子・後篇の2
      『影を買う店』/皆川博子・補遺
みずからの老いを受けいれた2期目の少女。
      80歳(やそじ)のロマンチシズム。

 90年代後半から今年までの20年間にオリジナルアンソロジーなどへ収録された作品を集成。

【90年代】
「小説新潮」1995年3月号                  「沈鐘」
異形コレクション『水妖』1998年7月             「断章」
「クロワッサン」1998年7月25日号              「真珠」
「銀座百店」1999年5月号                  「迷路」
異形コレクション『時間怪談』1999年5月           「こま」
【2000年代】
『絵本・新編グリム童話選』2001年7月            「青髭」
異形コレクション『玩具館』2001年9月            「猫座流星群」
「小説現代」2003年8月号※2004年3月は『エロチカ』の発行月  「柘榴」 
異形コレクション『黒い遊園地』2004年4月          「使者」
『凶鳥の黒影』2004年9月                  「影を買う店」
『黄昏ホテル』2004年12月                  「陽はまた昇る」
『稲生モノノケ大全 陽之巻』2005年5月            「魔王」
異形コレクション『アート偏愛』2005年12月          「創世記」
『猫路地』2006年5月                    「蜜猫」
異形コレクション『伯爵の血族』2007年4月          「月蝕領彷徨」
「小説すばる」2007年11月号                 「墓標」
異形コレクション『ひとにぎりの異形』2007年12月       「穴」
「小説すばる」2008年11月号                 「更紗眼鏡」
異形コレクション『怪物團』2009年8月            「夕陽が沈む」
【2010年代】
『怪しき我が家』2011年2月                 「釘屋敷/水屋敷」
「ジャーロ」2013年4月                   「連祷」


「諸作は、不特定多数の読者にわかりやすく、という軛のない場で書いた、幻想、奇想――つまり私がもっとも偏愛する傾向のもの――がほとんどです。消えても仕方ないと思っていた、小さい野花のような、でも作者は気に入っている作品たち。幻想を愛する読者の手にとどきますように」――皆川博子


 本書収録21篇中8篇は井上雅彦監修のアンソロジー《異形コレクション》初出。当シリーズ10年目に出版された『異形コレクション読本』で作者は「書き手の方たちも、この舞台ではのびのびと、綺想のかぎりを発揮しておられます」と寄稿しているが、そのことばを自ら実践するかのように、タイポグラフィや写真小説、幾何学形詩など小説という枠にとらわれない技法を用いている。では、奇特な技法に淫しただけの、悪くいえば実験小説のための実験小説集なのかといえばそんなわけはない。それら技法を成立させているのは、40年以上にわたって磨き上げてきた文章技巧の粋であり、貪欲なまでの読書歴で培われた小説作法への真摯な取り組みなのである。技術力を土台に描かれたるは、この生きにくい世の中への倒錯を基とす、類まれなる幻視の光景。
 ミステリ評論家・千街晶之氏は「真正の幻視者だけに可能な言語錬金術の貴重な成果」と、ショートショート研究家・高井信氏は「ショートショートであるか否か、そんなことは関係なく、上質の幻想小説であることは間違いない」とそれぞれ評している。それは《異形コレクション》収録作にとどまらない。他アンソロジーに収録されたもの、幾何学形詩との両立を目指した『小説すばる』掲載作、そして第16回日本ミステリー大賞受賞に際し特集を組まれた『ジャーロ』掲載の最近作に至るまで、幻視・幻想創成の力はさらに重厚に立ち現れながら、それでいて敏捷に羽ばたいてみせる。
 今年一年かけて刊行された『皆川博子コレクション』は作者の原点を知るうえで価値をもつ。前後に文庫化された『鳥少年』『結ぶ』『少女外道』などの傑作短篇集でさえ過渡期であったと思えるほどに、本書は完成された燦めきをもつ。近年出版された長篇と比べればいささか敷居が高い作品集であるが、皆川博子という作家の神髄はここにあり、外部との共有が図れない孤高の感性にある。純粋であるがゆえ異彩を放ち、またそれゆえに危険な淫靡さをもっている――それは本書を読むことで、作家の、長年報われずにきた精神そのものに肉薄することになるからなのかもしれない。

   *

 その危険性とは〈影〉を扱った表題作ひとつとっても明らかだろう。〈影〉とは心理学で言うところのシャドーであり、自らの分身ドッペルゲンガーをも意味する。芥川龍之介、夢野久作、ゲーテなど文豪の末路はよく〈影〉とともに語られる。すなわち〈影〉は死のメタファーであるともいえる。だが、作中の〈影〉は死への恐怖や相対して生きることの価値を謳うためのガジェットではない。そこに性戯を見出し、艶美なる感覚を身に宿す――いうなれば〈影〉との交婚である。

「本当に「死んでいる」と意識したのは……結婚してからですね。結婚する少し前から、自分はもう何もできないんだ、という感じで、何もできないのなら、死んでるのとおんなじだ、と」
(『ホラーを書く!』より)
 作者はデヴューする前から心中に死を宿していた。見誤ればすぐに実現してしまいかねないその苦しみを、作品にすることで生きながらえてきた。作品に横溢する暗澹さは、そんな死への親しみによるものでもあろう。しかし時を重ね、作者はやがて本来の死を見据えるようになってくる。
(そのころ。私はまだ生きているだろうか……)
『このミステリーがすごい!』などで近況を記す際、いつからか末尾にそのような弱音を吐くのが常となっていく。御年83歳を迎える作者は、否応にもみずからに衰えと老いを感じるようになっていった。そんななかで幻想小説という分野がわずかながら評価されてきた昨今、絶版に追いやられていた過去作の復刊の嵐、大海嘯のような新刊ラッシュ、そしてきっかけとなった日本ミステリー文学賞受賞。
「物心ついたときは、すでに物語の海におぼれていました。おぼつかない手つきで、自分でも紡ぐようになって、ふと気づいたら、40年を経ていました。八十路に踏みいった生の半ば近くになります。踏み跡は葎に消え、創り出したものの中には、再読に耐えぬ醜いものもあり、そのとき、この大きい重い賞をいただくことになりました。これに勝る励ましがありましょうか。」
(同賞受賞のことば より)
 その励ましに応えるかのように執筆されたのが本書掉尾を飾る「連祷」である。

   *

 本書を語るうえでもうひとつ欠かせないものがある。作者の読書歴にちなんだ、先行作品たちへの莫大なる敬意だ。
 大雑把に列記すれば、中井英夫、森茉莉、ロートレアモン、コクトー、三島由紀夫、ハウプトマン、泉鏡花、島村抱月、西条八十、横溝正史、ワイルド、日夏耿之介、萩原朔太郎、塚本邦雄、星新一、『稲生物怪録』、国枝史郎、メーテルリンク、小川未明、グリム童話『青髭』、清水邦夫、アントワーヌ・ヴォロディーヌ、そして、矢川澄子。
 確証があるだけでもこれだけの先行作品・作家たちをもとにしている。さらに澁澤龍彦、寺山修司、塩谷隆志などの作家を補助線として引けば、より物語の海が深みを増すだろう。
 とりわけ森茉莉に始まり矢川澄子に終わるという構図は眼目に値する。《不滅の少女》の系譜は前述の老いに絡んで、さらに別なことを伝えてくれる。

「少女と老女とはこうしたいわゆる「女の一生」のうちの、ほんの両端のはみだし部分にすぎなかったのだ。(中略)今後はよい意味での二度目の少年期、もしくは一生つづくその季節を積極的にたのしむためにこそ、少女というものの本質がもう一度見直されてしかるべきであろう。」
(矢川澄子『いづくへか』「使者としての少女」より)

「連祷」にこのエッセイを投影させて分かることは、本作が――否、本書全体が、作者2度めの少女期を迎えた宣言であるとも受け取れることだ。込められた数々の敬意は、まるで作者が幼少期貪るように手を伸ばしていた書架さながらである。しかしそれは単なる「退行」でなく、老いを受容し「積極的にたのしむ」ようになったことを謂うのだ。
 ともに〈老い〉と〈不死〉と〈抑圧〉と〈反乱〉と〈終末〉など共通したテーマが描かれた清水邦夫「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」、ヴォロディーヌ「無力な天使たち」の2作品。時代も国境すらも超えた、まるで奇蹟的な巡り合わせによるカップリング・トリビュートの実現化たる「連祷」。
 そんな作品がたったひとり、矢川澄子という自死に屈す末期を遂げた作家へ捧げられていることからも、《不滅の少女》を継承する作者、満を持しての決意が感じられるだろう。
 ただしそれは、ほんの少し自嘲的なのかもしれない。

「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」から引用する。

 鴉婆     ああ、お前さんたちと一緒だと、あたしのロマンチシズムもだいなし。
 いわく婆   八十歳のロマンチシズム。
 はげ婆    気に入らないね、そういういい方。あたしたちぁ、たとえ足腰曲って。
 かいせん婆  毛が抜けても。
 はげ婆    真実生きて。
 とむらい婆  死んでいく。

(『清水邦夫全仕事 1958~1980上』「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」より)
 来年も全く善きこと、おありますように。
 然らば。余僅かな2013年。よいお年を。

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