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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『都市伝説セピア』/朱川湊人


都市伝説セピア (文春文庫)

 人間界に紛れ込んだフクロウの化身に出会ったら、同じ鳴き真似を返さないといけない―“都市伝説”に憑かれた男の狂気を描いたオール讀物推理小説新人賞受 賞作「フクロウ男」をはじめ、親友を事故で失った少年が時間を巻き戻そうとする「昨日公園」など、人間の心の怖さ、哀しさを描いた著者のデビュー作。

〈誰そ彼〉とは〈誰そ我〉でもあるのではないか。憧憬―理想/模倣―相似の関係性を用いて、昼から夜へと身を没さずにはいられなかった人々にまつわる作品群を読み、その意を強くした。見世物小屋幻想/タイムリープ/都市伝説の怪人/死という芸術美/思い出の結晶……五篇に登場するすべての主人公が自分であると気付くより以前に、かつてあった時代と記憶と、今現在とを往き来する読者たる自分が取り残されてしまったような感覚。そこに存在しているのは黄昏のプリズムが生み出した亡霊なのだろう。生死に関わらずその漂泊は、さも純粋で目映い。  http://book.akahoshitakuya.com/b/4167712016




【収録作】
 『アイスマン』
 『昨日公園』
 『フクロウ男』
 『死者恋』
 『月の石』




 黄昏とはなにか。
 ジョナサン・キャロル『パニックの手』を読んで、そんな疑問が頭をかすめた。誰そ彼? トワイライト? セピア?
 困ったときのWikipediaである。
「黄昏」は元来「こうこん」と音読みする漢語で、十二時辰(1日を12等分した2時間ずつ)の1つ「戌の刻(いぬのこく)」の別名である。古代の定時法では20時±1時間、つまり19時から21時までにあたる。室町時代から使われた不定時法では季節により変動するが、およそ、日没後2時間±1時間後、つまり1時間後から3時間後にあたる。逢魔時とも言う。
「たそがれ」は元来は「黄昏」とは無関係な語である。江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略である。暗くなって人の顔がわからず、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味である。対になる表現に夜明け前を表す「かわたれどき(彼は誰時)」があり、本来はいずれも、夜明け前・日没後の薄明帯を区別せず呼んだと推測される。
逢う魔が時(おうまがとき)・逢う魔時(おうまどき)ともいい、黄昏時(たそがれどき)のことで、古くは「暮れ六つ」や「酉の刻」ともいい、現在の18時頃のこと 。黄昏時は黄が太陽を表し、昏が暗いを意味する言葉であるが、「おうこん」や「きこん」とは読まないのは、誰彼(「誰そ、彼」の意)時とも表記し、「そこにいる彼は誰だろう。良く分からない」といった薄暗い夕暮れの事象をそのまま言葉にしたものであるのと、漢字本来の夕暮れを表す文字を合わせたものだからである。
読んで字の如く、逢魔時は「何やら妖怪、幽霊など怪しいものに出会いそうな時間」、大禍時は「著しく不吉な時間」を表していて、昼間の妖怪が出難い時間から、いよいよ彼らの本領発揮といった時間となることを表すとする。逢魔時の風情を描いたものとして、鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』があり、夕暮れ時に実体化しようとしている魑魅魍魎を表している。そして「丑の刻」も、昼とは同じ場所でありながら「草木も眠る」と形容されるように、その様相の違いから常世へ繋がる時刻と考えられ、平安時代には呪術としての「丑の刻参り」が行われる時間でもあった。
 無恥を承知でまんまコピペしてしまったのだが、その言葉の意味を詮索したいわけではないのである。この“あわい”の時間帯になぜ人は惹かれるのだろうか。
「晝は夢 夜ぞ現」と好んで書き記したのは乱歩翁だが、基準にしてみれば夢から覚醒するその瞬間こそ黄昏時であるともいえる。そして誰そ彼という言葉はつまりは「わからない」ことを表しているにすぎないのだ。暗ければ人の顔は判らず、闇の中ではその影すら見当たらない。辛うじてその存在を察することはできても、その正体を確かめることはできない。
 懐疑は他者に及ばず、傷心的に自らを問う場面をも想起させる。「誰そ彼」と問う、その問う者こそ誰ぞ。“誰そ彼”ならぬ“誰そ我”と――。

 英訳であるトワイライト《twilight》をみてみよう。
 twiとは古英語におけるtwo,doubleの意。やがて、twoからtwin(two each)へ、さらにはbetween(by+two each)へと派生していく。ドイツ語の《Zwielicht》はthe light betweenを原義としている。つまり、2つのものに挟まれた光ということである。
 この2つというのはもちろん昼と夜であり、光と闇だ。
 すると《黄昏》という字にも同様のイメージが浮かぶ。太陽の通り道を黄道ということにもつながるが、そもそも《黄》の字源は火矢の象形であることからも昼の照りつく陽射しを表しているように思えてくる。一方の《昏》は小刀で肉を切る形(氏が刀で日が肉)とされているが、他説では氏は《民》に転じ、《民》の字源が目を針で突くことから昏いという意味をもった。眩さと暗さが両立している熟語であり、そのままthe light betweenにもつながってくる。謂わば、陰陽の関係である。
 陰陽といえば、黄道という熟語に黄が用いられている所以は太陽の存在とは別に、五行でいうところの《黄》に近いのかもしれない。中央の方位を司り、のちに皇位を表す色となった。しかし、五行上で《黄》が表す元素は《土》であり、配当された星は填星――いまでいう土星である。つまり、もともと《黄》は光の色ではなく黄土の色だったのだ。それはやがて地上と地下とを隔つ境目とされ、地下の界域を想像させた。それが常世――すなわち《黄泉(ヨミ)》である。
《ヨミ》は四方(ヨモ)にも繋がるとされ、五行の方位ともかぶる。闇(ヤミ)であり、夜見(ヨミ)――転じて、夢でもあるとされる。「晝は夢 夜ぞ現」のことばがまた浮かんでくるではないか。ここまでは単なる言葉遊びの域になってしまうのだが、やはり《黄昏》は何かしら相反する2つの属性を抱え持つのだろう。それが場所であり、時間だとするのなら、「逢魔時」が「戌の刻~酉の刻」でもあり「丑の刻」でもあることに似ている。

 セピアとは烏賊墨から作られたインクのことであるが、古い写真が色褪せることによって似た色になることからその色の名前もさすようになった。また、意図的に古めかしい色調を出すことによって懐古趣味の代名詞ともなっている。
 モノクロームの魔術は、人の脳内が色彩を補うことを奪ってしまい、そこにまた別の世界を描いてしまったように思わせる。いまでも白黒・セピア効果が愛されているのはそのためだろう。そしてとりわけセピアは黄昏に染められた世界のようでもあった。樹々の緑や空の青が一斉に茶褐色を帯びていく様を、セピア調がもたらす懐古趣味の風情に重ねあわせたのかもしれない。むしろその逆で、セピア調に心惹かれる理由は前述したとおり、陰陽であり黄泉である黄昏の魔力によるものなのかもしれない。
 どちらにしろ人間の視野から色彩を奪う技法が、時間認識にとある細工をしていることは確かだ。その細工こそ、黄昏をそうたらしめるのだ。

 こうしてようやく本題に入れる。
 黄昏が映し込む相反するなにか。セピアが施す細工。黄昏が黄昏たる所以。人間というカメラ・オブスキュラが“the light between”となるとき。
「わかった。」
 相反する2つの属性とは、《今》と《今でない時間》なのかもしれない。それは「現在」と「過去」――よりも「記憶」と呼んだ方が適切かもしれない――ともいえるだろう。なぜそこに「未来」が介在しないか、それは人間が未来を認知することが出来ないからだ。ジョナサン・キャロルの能力は知を未知に変えるすべである。端から未知であるものを思い返すことは出来ないのだ。
 では、知とはなんだろう。個人にとっては《思い出》である。集団にとっては《時代》である。そして《時代》は共有されるのだ。
《思い出》は「記憶」であるが、《時代》は「現在」「過去」「未来」の3つを包含するものである。つまり《今》と《今でない時間》が混ざり合ったものだ。ここでようやくこの語で対比ができる。つまり、《思い出》と《時代》とは《主観的時間》と《客観的時間》――「内」と「外」といってもいいかもしれない――なのである。
 黄昏が昼と夜との交わりに生れ、人がその時間帯を此世とあの世との境目だという幻視をした理由には、この二つの時間の共存に発し、それらが及ぼすズレに感傷を得たからなのではないだろうか。
 人ひとり、変わろうとしてもなかなか時間がかかるものだ。しかし《時代》は目まぐるしく変わっていく。この速度のズレに気がつくのはいつでも目の前を過ぎ去ってから。かつての自分とセットになる「過去」を愁いて、あるいは目の前の「現在」に相応しい自分を憂いて、もはや死んでしまったかのような片割れに感傷を抱くのだ。“誰そ我”と――。そんな風にノスタルジーとは、《客観的時間》に取り残された《主観的時間》の亡霊を観測することとはいえないか。
 黄昏とは、知の亡霊が登場するファンタスマゴリアなのだ。
『都市伝説セピア』もまた数多の知を重ね、黄昏が映し込む《思い出》と《時代》とを如実に描く物語群だ。そこに現れているのは作中人物の亡霊だけでなく、共感する《思い出》を持ち、共有する《時代》を知っている読者の亡霊もまた、しかり。
 ともすれば本書が描くあの《時代》こそ、現代における「逢魔時」だとも思ってしまう。
 今回は「逢魔時」にはまだ生まれていない自分(※1987年生)でありながら、都市伝説という枠にならって、亡霊を目撃した体験談を率直に明かして行こうと思う。
 参考として、それぞれの段落末に《時代》を仄めかすそれぞれのガジェット(固有名詞)を列挙する。


『アイスマン』の舞台は見世物小屋の文化が珍しくない1975年(と思われる)。
 息子の自堕落のせいで精神を病んだ母と離れるため父の故郷に帰省した青年が、客引きの少女に連れられるがままに見世物トラックのなかに入る。そこには河童の氷漬けが展示されていた。
 河童の氷漬けというアイテムの正体(無論ほんものの河童ではない)はさして重要ではない。青年が祖父の家で手伝う紙漉きになぞらえ、河童を封じた氷は白氷。ともに得られる白き視野はラストの冷凍庫内に繋がるのだろう。
 惜しむらくはオチが予定調和であることだ。見世物小屋に隠された“畸形者たちの孤独”を無視できないことはわかる。だが、エレファントマンやヒルトンシスターズと本作の河童の氷漬けは根本的に異なる。生きながらにして好奇の目に晒されるからこそ見世物の孤独が募ろうというもの、とうに死んでいる河童の氷漬けはこの点未熟であり、あるいは見世物そのものの視点を剥奪することによって“観る者”の悪しき視点を強調する意味合いの方が強いのかもしれない。だからといって、殺人鬼をイメージさせるオチは(主人公のある人物に対する思い入れを含めて)先走っているような感覚である。少年~青年期から抱いた欲望と狂気は『姉飼』の主人公と比較すると、幾分もカッコが悪く押しが弱い。
 ところで、本作のような“所有者の継承”は映画化して有名な『ぼくのエリ 200歳の少女』にも描かれるとおり、伝承の語り直しを軸とする物語ではよく扱われる。
◎ 布施明、スペクトルマン、仮面ライダー、キャンディーズ『年下の女の子』、『太陽がいっぱい』、沖縄海洋博、巨人対中日

 怪奇趣味ははやくも鳴りを潜めて『昨日公園』ではタイムループが登場する。
 1972年10月7日土曜日。公園で別れた後、親友はタクシーに轢かれて死んでしまった。翌日、まだ悲嘆から立ち直れない主人公は直前までキャッチボールをしていたあの公園に赴く。するとそこには昨日と同じ光景が広がっていた。
 タイムループとは同じ時間を繰り返す現象のことを言い、作中でも触れられているとおり筒井康隆『時をかける少女』やそれを映像化した『タイム・トラベラー』、大林宣彦の映画版というように70年代のSFを象徴するシステムだ。これらは最終的に日常に帰っていくところまでが定形と化しているといってもいいだろう。もちろん物語の終焉=ループの終わりなわけだから当然であろうものだが、幾つも分岐していった可能性のなかで元からあった時間軸、つまり日常に還ってくるのがお約束であり、それは“人生の肯定”という分かりきった解答を導くものに過ぎない。
 だからタイムループものは、どうなるか(What)ではなくどのような(How)出来事を経て結論にもっていくのかを愉しむジャンルであるともいえる。そして、振りかかる出来事が次第にサスペンスを帯びていき、無間地獄の様相と化していったり、自らハードルをあげてしまいインフレに陥ったり、など窮地の展開に至ってからが正念場。本作もまた事故の悲惨さ、周囲への伝播という影響によって踏襲している。
 それだけではデジャヴュで終わってしまうのだが、縦回転だったそれまでの物語を横軸方向にスピンさせるかのような“もうひとつのループ”を更に付け足すことで、読者感情さえもループさせてしまうのである。そしてこのループもまた《継承》の一種である。親子という関係がそれを成立させるのであって、『世にも奇妙な物語』で映像化された際に改変されたものは恋人同士を主役にしてしまったために、《継承》という大きなテーマが欠落してしまった。生半可な悲恋物語がいかに表面的に見えてしまうかの典型例となっている。
◎ テレフォンサービス、バヤリース、森永キャラメル、パンダ寄贈、仮面ライダー、天才バカボン、日本のとんち話、スプライト、天津甘栗、三善英史『雨』、青い三角定規『太陽がくれた季節』、『オレンジの種五つ』

 第41回オール讀物推理小説新人賞を受賞したデビュー作『フクロウ男』をはじめて読んだ時、第13回メフィスト賞受賞作・殊能将之『ハサミ男』のトリック(の一部)を裏返したものに過ぎず、失望というより失笑に近いものを感じた。だがいま改めて読むとよく出来ているのである。この手のネタに敏感な者でない限りは、ほんとうに最後の最後までネタが割れずに済む。そしてラスト十行足らずのところで主人公が構築した人間模様のカラクリに気付かされるのだ。
 実を言うと、俺もキレイに騙されたクチである。というのも、本作の騙りの背景には作中で言うところの“変態”に対する視点が左右してしまうかと思う。つまり、主人公と“君”やバイト先の同僚の間に艶っぽい想像をしてしまうところに罠があるといいたいのだ。それぞれの違和感を受容するかしないかによってトリックの効き目が違うというのは、作者が意図したものかどうか。乱歩作品や少女趣味の画家への言及が予防線として用意されているのだとしたら、もはやぐうの音も出ない。
 乱歩といえば、前述の肝となるトリックは確かに二十面相を彷彿とさせる無茶なもの(異常な手間と工夫によって構築される怪人像だと言及され、自覚的なものである)だし、行動原理である“なりきることの内的暴走”というのは後代における明智探偵と二十面相の関係性にまつわる妄想――同一人物説などにも触れてくるだろう。
 本作が独白調あるいは手紙の文面によって構成される物語であるだけに、『人間椅子』を発端とする犯罪の暴露として機能するまではいいが、〈フクロウ男〉という幻想で終わらせず、演じる者のアイデンティティーの問題で一貫させるという部分がいかにも現代的であり、若干の物足りなさを感じずにはいられない。
◎ 口裂け女、テケテケ、赤マント、『魔人ゴング』『電人M』『海底の魔術師』『大金塊』『妖怪博士』『蜘蛛男』『人間豹』『黒蜥蜴』『緑衣の鬼』『一寸法師』『妖虫』『黄金仮面』、プラレール、ミニ四駆、異人坂下のおばけ階段、スウェデンボルグ、ブラバッキー夫人、『目羅博士』、弥生美術館、竹久夢二、高畠華宵、蕗谷虹児、中原淳一、お葉、『マイ・フェア・レディ』

 たとえば『アイスマン』における河童の氷漬けに対する想いは、コレクターの所有欲であり、氷結された胎児は自らの胎内回帰を代替する似姿でもあるとする。たとえば『フクロウ男』のそれは紛れもなく理想像であり、自らが隠し持つ欲望の具現化であるとする。『昨日公園』が理想を現実化することの困難さを描いていると単純に解釈すれば、その逃げ道は『死者恋』のように芸術へと昇華する創作者の理念へと化けるのかもしれない。ここでは夭折した画学生への愛が、河童の氷漬け――フクロウ男――親友の救出に相当する。
 素性のしれない女流画家がやっとの思いで出向いた女性記者に語る半生は、概ね画学生への愛と、同好の女との狂気の背比べで出来ている。同好の女も若かりし頃の女流画家もともに画学生の母親が出版した自伝を読んで傾倒したクチである。同好の女は『フクロウ男』で言及された〈モデルの中のモデル〉『マイ・フェア・レディ』というモチーフを地で行く人物で、女流画家が直視したくない自らの欲望を先鋭化したペルソナでもあった。
 女は死をも含めた人生の模倣を行い、女流画家は物体である肉体(屍体)をキャンバスに収めることに労力を費やす。芸術への肉薄という意味で人生さえ捧げた女に、女流画家は敵うべくもないのだが、それぞれの芸術の形はそのまま画学生への愛の形ともいえる。女流画家はその作風からも分かるとおり即物的な憧憬の持ち主である。彼女の決着は亡霊との生活に及ぶのだが、肉体が存在しないとはいえ直接的な交合は模倣や誤魔化しには一切見向きもしないことを表している。他方の女は、血を分けているとはいえ別人である息子を画学生へと仕立てることで、画学生の人生を反復させようとしている。謂わば彼女が求めているのは彼女の中にある理想像との再会に尽きるのである。ちなみに『昨日公園』の方式に沿えば、理想に近づけようとすればするほどかけ離れていくという現実を描けもしたはずがそうはなっていないのが心惜しい。
 そんな2つの憧憬の鬩ぎ合いは、女の息子という画学生の似姿によって終結させられる。また時間を経て、女流画家の真の狂気が明かされるラストに至っても、二人の女を繋ぐのはこの息子だったりもする。このラストはインタビューの内容(女流画家が半生を振り返ること)によって定義づけされた狂気のレベルを逆手に取り鮮烈な驚きをもたらすのだが、それ自体、画学生の死に隠されたある秘密も関連して、女流画家の回顧録は物語のきっかけともなった画学生の自伝と重なる構造になっていると分かる。そこには画学生の母親が大いに関わっており、つまり他方の女が行おうとしていた理想像の具現化は、画学生に傾倒した彼女たち二人が現れた時点で、この母親によって成し遂げられていたものだったということもまた明らかになるのだ。
 鮮やかな転倒のラストによって女流画家と女性記者との重層性に目が向いてしまうが、二つの意味で模倣を行なっていた女の無粋な芸術を不憫と思う一方で、四人の女と二人の男による二つの相似な関係性の妙に目を瞠るばかりだ。
◎ 『ファントム・オブ・パラダイス』、『オペラ座の怪人』、ビートルズ、川端康成ノーベル文学賞受賞、ユトリロの画集、ヘッセの小説、シャンソンのレコード、ヘップバーンの写真集、札幌オリンピック、あさま山荘事件、人気アイドルの自殺

 模倣や相似な関係といえば、他の作品でも同様の構造がなされている。
『アイスマン』においては主人公と見世物小屋の主、『昨日公園』においては主人公と息子、『フクロウ男』においては主人公と“君”……つまり黄昏が2つの光を重ね合わすように、二つの関係性が重なり合っている作品が集まっている。模倣という点では『アイスマン』のラストで現れる二つ目の氷漬け、『昨日公園』では『オレンジの種五つ』、『フクロウ男』では発端となった優しい怪獣の存在があるとも言い当てられる。そればかりか、フクロウ男と出逢ったら鳴き声を真似して返さなければならないというルールさえ模倣以外の何物でもない。
 では、末篇の『月の石』はどうだろうか。これが他四作と比べるといささか目立たない。むしろ、この一作だけが構造上の見立てをドラマ的に昇華させ、さらにその先へ発展させているのである。
 重要なガジェットとして、罪悪を映す人形というものが出てくる。心のなかに後ろめたく感じている誰かがいれば、その誰かの姿に見えるのだ。この人形自体が模倣の意をなすと言っても構わないだろう。物語は主人公が電車の車窓から、マンションのベランダにそれを見つけるところから始まる。
 クビにしてしまった部下、死を看取ることが出来なかった母の姿となって現れる人形を通じて、自らの胸中に潜む後ろめたさと苦悩する主人公だったが、追い打ちを掛けるように、やがては病床の妻に見えるときが来るのではないかと危惧するようになる。人形がその特殊な能力をもった所以は、何らかの呪いをかけられているとしか説かれない。だが呪いとは跳ね返ってくるものであり、それを目撃した者は自らに呪いをかけてしまうのだ。
 ここから選択の物語になるかと思えば、そうでもなく、その選択はほのめかす程度で終わってしまう。ラスト、主人公はラーメン屋で働いているかつての部下を尋ねる。悪気はないながらも死さえ想像していた彼は随分と晴れやかな顔で働いているのだった。しつこいようだが、相似な関係を見つけ出そうとすれば主人公にとっては間違い無くこの部下と、母親だといえるだろう。しかしそれは終盤まで死という背景があったからだ。生きていることが明かされた時点で、相似関係は崩れる。しかしその反対に、後ろめたさという一方的な想いが杞憂であったという回答がなされることで、相似関係だった母親に対しても救われた気持ちを覚えさせる。
 また、それぞれの経路を行き交う電車という見立てがされるとおり、相似関係は二つに限らず、不特定のものであるという逸脱も見せる。そのことが余計に、妻の幸福を願った最後の選択を孤高なものとして見せるのだ。
 ラーメン屋を出た主人公は月を見上げる。タイトルの『月の石』とは母にまつわる思い出の一つ、大阪万博のアイテムだ。当時の主人公(そして不特定多数の、同時代を生きた相似な人々)にとっては月の石は〈未来の結晶〉だったはずである。しかし今となっては〈過去の結晶〉と化してしまった。そんな石がかつて転がっていた月を見上げ、主人公は不思議と幸福な気分を味わう。どんな過去があり、どんな未来が待っていようと、世界はそれなりに美しいという描写だ。
 これが妻に対する最後の選択が明かされない真意でもあるだろう。どちらでもいい、とは言わない。読者にとっては二つの選択が重ねあった状態ではあるが、どちらにせよ主人公に後ろめたい気持ちが残っていないことは明らかだ。それ以上の説明は要らないのだ。
 そして、どちらにしたって輝かしいタイトルを冠されたこの物語は、読み返すことでさらに一層の輝きを増す。
 まぶしい朝の光のなかを電車が走る冒頭と、冴え冴えとした月が照るラスト。
 この対比はまさしく〈過去〉と〈未来〉の結晶である『月の石』そのものであり、そして忘れてはならない。2つの光が交わる、すなわち〈黄昏〉の神秘性を体現する一作なのだ。
◎ 『おそ松くん』、大阪万博――アメリカ館――月の石、『あしたのジョー』


 気に入らない箇所は多分にあった。しかし、どの作品も俺の嗜好を突いてくるものではあった。だからこそハードルが高くなるというものだが、それこそ〈黄昏〉が自分との対話の時間だというのなら、本書を読んでいる最中は、これらの作品を築き上げている様々なガジェットに出逢ってまもない頃――俺の嗜好と札付きで呼ぶ以前――に感じた興奮やときめき、言い表せぬ感情に心を打ち震わせていた〈過去〉の自分との対話だったのかもしれない。
 我こそはかつての憧憬/理想像になりきれているかと思い返すと言葉も視界も濁ってしまうのだった。模倣/相似のままではないかと焦る自分を余所に、同時に目先に浮かぶ〈未来〉の自分すら現在と同じ顔をしているようでとてつもなく怖ろしい。
“誰そ彼”と問う双方の自分に未だ“誰そ我”と問い返すことしか出来ないのも哀しい、やがてはどちらにしても幸福であると思えるようになりたいのだ。〈黄昏〉よ。 



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