前回の『スリーピング・ピル 幻想小品集』はどこか偽りの、贋物の気品を漂わせていた作品集であったように思う。それは決してネガティヴな意味合いではないのだが、文章を嗜むという意味ではとても邪な感覚である。というのも、紡がれる文章のそこここからセンテンスであるが故の時めき(なんと稚拙な機微の表現であろうか)を感じれるものこそ、文学における気品であるといえる。そういった意味で今回はジョナサン・キャロル唯一の短篇集、二分割されたうちの一つ『パニックの手』をとった。
高尚な見方がかえって読者を減らすことになるのであれば、『スリーピング・ピル』が怪奇小説の皮膜をかぶった恋愛小説集であると喩えられるように、ジャンルを軸に解剖することも可能だ。それは扉紹介文にだって記載されている。
普通小説とファンタジー/ホラーの見事な融合
それがジョナサン・キャロルという作家の割にあっているかは別として、事実、本書に封された作品はどれもがこれに当てはまり、そしてどこがどのようにと解説することさえ無意味なほどに、ジャンルの持つ特性と持たない特性の双方が渾然一体となり、そのためジャンルに対するこちらの価値観が揺さぶられる結果を招いているともいえる。
しかし単なるジャンル小説の枠組みでは出くわさない、より根源的な驚きが、熱狂的なファンを生む理由になっているのだろう。だがこれほどまでに熱狂などという暑苦しい言葉が似合わない作風も珍しいものである。
嶽本野ばら氏が、自らの嗜好を武器に、ジャンルの中でいけしゃあしゃあと遊んで回るのとは対照的だ。彼の作品に根源的な驚きはないが、代わりに原始的な魅力がある。ここでいう原始は未知を知に変える能力を指す。ジョナサン・キャロルの小品は逆だ。知を未知に変えるすべを持っている。
普通小説の“普通”ということばほど信用出来ないものはない。むしろファンタジーやホラーと定義づけられることによって見えてくる地平があるのだとしたら、普通小説は日常との差異が明かされぬままに曖昧模糊の領域で自らの持つ日常感をさがす旅である。
未知を知に変えるすべと、それとは逆しまのすべ、どちらが高度かなんてことを語るつもりはないのだが、ジョナサン・キャロルのすごさは“普通”を描きつつ未知を構築する手腕にある。そして、その瞬間がすばらしくかっこいいのだ。
しかしそうやって紡がれた物語をまた解体し、語り直すことが非常にかっこ悪いという弊害も生んでいるのだが、とりあえずさらりと振り返ってみよう。
冒頭の
『フィドルヘッド氏』は友人からイヤリングを貰ったことから始まり、金のキー・ホルダー、デザイナー不明の万年筆とアイテムを転がしていきながら、妖精物語にひとまず飛び乗る。ここで登場する妖精は「小人の靴屋」でおなじみのレプレコーンだ。だが、同時に“架空の友達”モノであることが、純朴であるはずのフェアリーテイルにソープオペラじみた動機を介入させ、最後には卑猥なフォークロアに着地させるのだ。
なにをもってしたってフィドルヘッド氏の魅力が目を惹くのだが、個人的な妄執ではあるけれど手塚治虫の『DAUBERMAN』のイメージが頭から離れなかった。ドオベルマンもなんとなく“ヴァイオリン頭”だし。
タイトルからしてユニークな
『おやおや町』は中篇。雇ったハウスメイドの奇妙な才能によって記憶を掘り返されていく男の話が、自殺したかつての受講生が関わってくることで更に奇妙な並行線をたどる。死者との和解という使命を課される一方で、サイコメトリーちっくな“超能力スカウト”ものではあるのだが、その真髄は壮大な世界観にある。
1/36の神という着想もさることながら、シャマラン『アンブレイカブル』ばりの逆転とは言わないまでも床板外しが行われるのは驚き。悪魔主義的ならぬ道化(トリックスター)主義ともいうべきオチはどういうことなのか、こればかりは今でも謎。
『秋物コレクション』は余命わずかの男が金を持て余しニューヨークを訪れ、服飾にのめり込んでいく。地味な人生の黄昏……最後の贅沢、愉悦、そして幸福が立ち現れる小品には、人生の機微があざやかに刺繍され、珠玉ということばがよく似合う。
世界幻想文学大賞を受賞した
『友の最良の人間』はジョナサン・キャロルといえば犬という定説を地で行く、ハリウッドの勢いが感じられるサスペンス・スリラー/終末SF/ダークファンタジーの骨頂。
事故で片足を失った少年とジャックラッセルテリヤ、そして犬の声が聴こえる友人……彼らを囲んでいるのは死や病や障碍とほの暗いものだが、どこかジュヴナイル然とした面白さに満ちているのが印象的である。しかし、そのバランスが一気に危うい方向へと崩れ落ちていく様は圧巻。方舟はF・O・R・M・O・R・Iという曰く有りげな名前の目的地へと向かうことになるのだが、さながら“皮肉と赦し”の板挟みで立ち尽くすのは主人公ばかりではなく、読んでるこちらも一緒だった。
ふたたびの神が現れるのは
『細部の悲しさ』。この世に偏在する神の意志を“細部の悲しさ”と呼ぶセンスもさることながら、神のど忘れというありそうでなかった着想が面白い。カフェーであった老人は『おやおや町』のような神の一部であるというより、神の意思の読解者である。
巧みな交渉によってまたも壮大な世界救済の法とメロドラマ的な動機を得、そのまま物語は成就に落ち着くのかと思えば、神の絵図を描くにはあまりに粗野なカフェーで事なきを得る。
人間が壮大な意図の一点に過ぎぬと同様に、社会の一点、ごく小さな点、そしてそれらの集まりから抜けきることはできないと悟る。まさに自らの存在意義までもが“細部の悲しさ”として残されるのは、神さえ予期できなかった――過去でしか世界を俯瞰できない人間特有の悲劇だろう。
しかし本当の恐ろしさはそれすらも神が人間に用意したまやかしであるという推測も為されてしまうことにある。人間は勝手に神を作り、勝手に信仰している場合もあるということだ。神がそれについてどう思っているかは、知らない。
今回は巻末に津原泰水による抜群の解説が為されているので、何を書いてもその影響下に在る。
『手を振る時を』は、女に振られた男が悲観に暮れ、思い出の車で犬と町に出る話だ。町には散在する思い出があり、どこにいても女のことが蘇る。
まるで山崎まさよし「One more time, One more chance」の世界だが、それを逆手に取り、都合の良いジンクスを見つけていく主人公。やがてこれまた思い入れのある川に着くと、釣りをしている釣師の背中を見つけるのだ。
自らが自らに課した偶然の重みに追いすがる姿は滑稽であり、悲哀をかきたてる。津原泰水の解説に因るところの「何も起きない」ことこそ本作の最も切ない部分だ。
『ジェーン・フォンダの部屋』は舞台設定からしてみれば少し異色だ。地獄に落ちる手続きがもしもオフィスの乾いた空間で事務的に行われるとしたら……というアイディアに基づくナンセンスSFのようだが、その手際は紛れも無く『おやおや町』『友の最良の人間』『細部の悲しさ』で魅せたキャロルの得意技だ。
他と比較してあまりに分かりやすいところがムダに褒められない難点でもあるが、初期から筆が冴え渡っていた証拠でもあるし、むしろごまかしのきかない面白さがお薦めできよう。
掘り起こしてはいけないものは記憶ばかりではない。性生活に突如訪れた罅によって幻影にとらわれていく様と共感関係の脆さを、断章で描いた
『きみを四分の一過ぎて』。
女が垣間見せた理想的な男性像は男側の悪戯によって次第に実在を伴い始める。といっても男が演じているにすぎないのだが、しまいには歯止めが効かなくなっていく。幻影は“架空の友達”とまではならずあくまで演技が暴走していくだけなのだが、日常に潜む冗談が人を殺す過程はメロドラマのアイロニーでありながら根源的な恐ろしさがある。
またもや犬である。
『ぼくのズーンデル』に登場する犬はオーストリア産のズーンデル。かつては強大な悪意によって絶滅しかけられたその犬種は、狼男退治のために作られた。
出張にいく秀才の女友達からズーンデル犬のメイルボックスを預かった主人公は、夜のニューヨークを散歩中に命を狙われる。ズーンデル犬はまさに狂気の試験紙であり、触れた人間の狂気に反応して瞳の色を変えるのである。そして、その夜、新たに二十三人の人間がメイルボックスに触れた……。
狼男が存在した時代から幾星霜経ち、再びズーンデル犬の能力が映した現時代の色。『友の最良の人間』のフレンドほどアクティヴではないが、メイルボックスも静かな警鐘を鳴らしている。
『去ることを学んで』では一転して男女の会話、女二人で片方の元カレの家に五百本の葉巻を隠したという悪戯話に華が咲く。ところが、その片方がもう片方(会話の話し手)に四百八十本の葉巻を見つけ出せば百ドル札をくれるとふっかけてきたのだった。
女二人の駆け引きから元カレの奇妙な趣味の話、そして「人の秘密の場所を見つけるのは、その人を死に向かって歩み出させることだ」という迷信の話になる。一瞬も気が引けない話の転がり方が非常に巧みだが、それもまた法螺話として処理され、一層読者は混乱に陥る。
一連の話の聞き手である男も同様の状況に陥っているのだが、男はそれほど口のうまい女に夢中になってさえいた。しかし刹那、女の取り柄の数々を反芻するうちに、男は気づくのである。自らの無能と自らの限界に、そして、自らに憐憫を感じてしまうのだった。
『おやおや町』もそうだったが、メタフィクショナルな読み方をしてみるとキャロル作品は耳の痛い話が多い。
さて、表題作がトリを務める
『パニックの手』。
鉄道に乗って遠距離恋愛の相手のもとに向かっていた男の前に、三十代後半の母と十代の娘と思われる二人が現れた。あまりに親しげな母と自分を気に入っているらしい娘、恋人を忘れるぐらい見惚れてしまったぐらいだから、とても愉しい旅になるはずだった。
しかし、娘は吃音症らしく会話が思うようにいかない。一方の饒舌な母親は欲情してその場で抱いてと男に迫る始末。男が拒むと母は消失し、娘は男に縋ってきて吃音のない声でささやき始めた。しゃべる、会話することの不条理はまやかしで、『きみを四分の一過ぎて』にも繋がる理想像をめぐる物語だと明かされる。
世代によって理想像が異なると主人公の口から語られるのだが、それすら吹き飛ばす人の悪いオチは有名である。津原泰水がまた別のキャロルと引っかけて解説でも語っているが、これは少女嗜好の物語であると第一に解釈できる。しかし、再読を重ねるうちに見えてくるのはまた別の風景である。
冒頭からまもなくは遠距離相手への愛を語っている。遠距離相手の娘ではなく、あくまで母当人だ。それだけではない。乗り合わせた母娘と邂逅した主人公は明らかに母親の方も好意の対象として見ている。この冒頭と終盤のずれはなんなのか。
少女は大いにその股ぐらに、心を許した相手でなければ知りえない、芳醇な時の流れを孕んでいるのかもしれない。
解釈の一側面というのも兇暴なもので、昨日の解釈が今日には変わっているし、新しい解釈が古い解釈に引きずられることもある。解釈は理論かと問われれば、まぎれもなくそうだろう。ところが多くの自分は感覚で解釈することもある。それが間違っていると糾弾することは容易でも、再考する努力はなかなかに難しい。それに大事にしたいという宝石もあるはずだ。
本書がかっこいいのは解釈で得られる物事があらゆる面であらゆることを語っているからではない。確かにそういう向きもあるだろう。今回の解釈ではそう思いたいという筆者の思惑が透けて見える部分もあるにはあるし。
しかし、解釈をするには物語の表層に触れなければならない。その時点で圧倒的なパフォーマンスをされてしまえば理論など意味を持たないのだ。そのパフォーマンスで視野が捻じ曲げられたとしても、得た感覚こそ物語の本質を表しているのだと、触れた刹那こそ解釈のすべてだと……
箴言集のようにどこから抽出しても煌めきがあり、それに触れれば触れただけ怪我をして、怪我すると分かっていながらまた、ジョナサン・キャロルを読み耽ってしまう……何度も何度も何度も何度も……理論では繙けない解釈を探して。
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