思い立ったが吉日とはよく言ったもので、いつぞや『なぜ僕は読書感想ブログが書けないのか』なんて記事も書いたぐらい(ちなみに記事のタイトルと内容はあまり関係ない)に継続力が欠如している俺でありながら、新生活にあわせて開始されたこの読書感想。
(もっとも感想というより解釈の意が強い)
それも今回でいよいよ10冊目となる。3ヶ月弱で10冊というのはあまりにも鈍調なので自慢気にはいえないのだが、軌道に乗りつつあるというのはワタクシ的にすごい進歩なのである。
記念すべき1冊めがJ.G.バラード『殺す』だったのは我ながら驚きなのだが、それ以降、視野拡大の指標としてバラエティを意識してやってきた。日頃より愛読者であることを公言している皆川博子、津原泰水、井上雅彦……においては単独では取り上げず、異形コレクション第1巻『ラヴ・フリーク』にて触れているに留める一方で、毎回ある観点から連想ゲーム的に次の本を選んできたのも刺激となっているのだろう。
SF観の再確認を念頭に置き、バラード『殺す』から筒井康隆『驚愕の曠野』⇒人肉食つながりで川島誠『セカンド・ショット』、以前に書いたものを改稿した『ラヴ・フリーク』を筆休めとして、達磨つながりで遠藤徹『姉飼』⇒我がノスタルジーの追想として長野まゆみ『カンパネルラ』⇒“野ばら”つながり(笑)嶽本野ばら『スリーピング・ピル』⇒幻想小説の気品を味わい直すためにジョナサン・キャロル『パニックの手』⇒黄昏つながりで朱川湊人『都市伝説セピア』といったぐあいである。
では、次に何を手を取ろうかと考えたとき、天啓のごとく本書が目に入った。
記憶裡にある内容を反芻すると出るわ出るわ、共通点の数々。
さまざまな意味でこれまで読んできたものを包括できようかという、それぐらいの重力を持った傑作作品集――『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』について記そう。
本書は異形コレクションをはじめとする各種アンソロジー、専門誌に掲載されたものがほとんどである。あらすじにあるとおり、それらを章ごとに並べ直し、序章と終章ともいえる二掌編で挟み込んだ体裁となっている。
序章である
『病室にて』は、病室のベッドに寝そべる女が主人公だ。彼女の生きる世界では、心の安定こそ健康と称し、フィクションは有害であるとされたうえに、生殖技術の進歩もあって恋愛すらなくなってしまっている。
創作者にとって創作はセックスである。独善的な創作物を自慰と揶揄しているのではなく、セックスこそコミュニケーションの極致であり、創作者が行う不特定多数とのコミュニケーションこそ創作物であるがゆえ。コミュニケーションがとれなくなった世界でひたすら創作を行おうとする女を誰も止めることはできない。
創作意欲が一種のヒステリーであるとほのめかしながら、血を残すこと/知を残すことが人間の本質であることの堂々たる宣言であるように思えた。
本作を通して読めば、皆川博子『砂嵐』もより一層の哀切さを帯びる。
子どもと作品は等価であるとの前作の記述を受け継ぐかのように、ここにまたヒステリーの種をもつ存在が世界に生まれる。
『いかにして夢を見るか』は川島誠『電話がなっている』を彷彿とさせる宙吊りの恐怖をイメージとして見せつけながら、これまで夢を見たことがない主人公の自問自答を綴る。洞察の探りを深めていったあとに〈監察官〉と呼ばれる男の登場でさらに混迷を呼び、世界の正体を描くラストで文字通り一気に放出される悪夢。
異形コレクション第19巻『夢魔』に収録された。本書解説を書いているのは平山夢明氏であり、氏がのちに同シリーズ第39巻『ひとにぎりの異形』にて書き下ろした『宇宙飛行士の死』というショートショートがある。本作にて生まれた悪夢は、『宇宙飛行士の死』でもっていくらか癒される。
異形コレクション第17巻『帰還』と作者に関する逸話は、同シリーズの別冊である『異形コレクション讀本』に収録されたお蔵入り作品『読むな』という短篇の解説に詳しい。『読むな』の代わりに書き下ろされたのが
『夜明け、彼は妄想より来る』。
公衆便所に横たわる暴行されたホームレスの女の回想録と、まさしく異形の航海旅行が交互に語られる。弟の死、父の死、母の発狂を経て、男たちの性癖に飼/買われていく顛末が描かれる女のパートにわずかながら呼応するように、異形の船内を男の子が巡り歩くシーンが挿入されるのである。頭蓋に穴があき横臥することができない少年、従弟いじめを振り返る物真似芸人、存在意義を問う鏡でできた通信士、からの卵を産み続ける虫の船医、義眼に鳥の雛の亡骸を封じ込めた船長……。
船は目的の地に到着し、女は迎え入れる。謝罪という目的を果たすと、妄想を生み出した魂と生み出された魂はともに消えていく。ただそれだけの話ながら、繰り出されるイメージは断末魔の刹那さとは相反して濃密。筒井康隆『二度死んだ少年の記録』を彷彿とさせる惨憺な映像も、スラップスティックではなく幻視に開花させたところが秀逸。
『召されし街』は収録作中もっとも古く、作者デビュー前の短篇。死にゆく街に住む最後の〈生者〉の子ども・閏(うるう)。周囲の人間はほとんどが死に、死者は欲求を反芻する形で変わらずに存在している奇妙な世界。死を拒否した閏の父はゼリー状の物質となって引き出しの中にいる。はやくに街を出た若者たちを尻目に、閏は自由を追い求めると退屈になるとまだその街にしがみついていた。
地上に取り残された死者たちが一斉に昇天を始め、街の死が近づいてきた頃、閏はゼリーの父を食み、生の多様性と死という絶対的恐怖を覚える。時が明けて閏は街を出、街は死んでしまった。箱庭のなかをたむろし様々な出逢いと別れを経ていく物語は、ストレートな自立の物語・成長譚である。
ラーメンズ小林賢太郎の舞台に『うるうびと』、『うるう』という話がある。前者は〈うるう〉という名の孤独な青年が掘った穴の底で救済を得る話であり、後者もまた同型のテーマを森の奥に住む妖怪を探る物語に転じたものだ。本作にも記されているとおり〈うるう〉とはあまりものの意である。おなじ着想から発生したものとして比較するのも一興だろう。
第1章《診断》は現実と陸続きな舞台上で、各個の人生に取り憑く魔の存在を示してみせる。死する直前の走馬灯『夜明け、彼は妄想より来る』と街の息の根を止めるような『召されし街』はおしまいの物語だが、残りの二作ははじまりの物語だといえる。
『いつか、僕は』は幼いころから語りかけてくる二人の男に死を阻止されてきた青年が、平凡な家庭を手に入れ幸福を見出す物語だ。自殺の実験を繰り返す少年の日常は、同じように死に囚われていた少女との出逢いから一変する。死への興味を忘れ、結婚し娘を生み、日常の悩みに溶け込んでいく毎日。やがて死の不安は、娘を事故で失わせ、青年の前にふたたび現れるのだった。
屍斑で描く地図というアイディアはさることながら、国際地図学協会稀覯図斑の二人組が異質。特に地図のピースが足りないと気づいて片方が片方を殺す場面は、筒井康隆『冬のコント』を思わせるブラックな人体損壊。ヒトデナシの国と称した地図の指し示す場所はともかく実在の猟奇殺人鬼の網羅はやり過ぎに思えるが、地図を完全なものにするために殺人の拡大を図る主人公と避けることの出来ない不幸という対比と、あるいは朱川湊人『フクロウ男』のように個人的な問題にすることで偏在性を伝わすのではなく敢えて実在するという事実を掲げることで、加害者・被害者の距離感に戦慄を覚えさすとともに深い失望的恐怖を感じさせる。
作者の異常な興味は、妄想から言語へと発展する。はじめに言葉ありきを地で行くように
『インキュバス言語』では一人の男の口から発せられることばが世界を再構成するシステムとなってしまう。中年男性の性的妄想という偏狂なコードに当てはまれられ、世のいかなる乱交小説を嘲笑うかのようなナンセンスコメディの様をなすが、体感するのは単方向的に発せられることばの哀しさである。人から都市へ、自然へ、そして宇宙へと伝播していく言語の凶暴性は、我々人間が言語を扱っているのではなく扱われているのではないかと被害妄想すら掻き立てるのだ。
ジョナサン・キャロル『おやおや町』や『細部の悲しさ』との対比から、〈神〉の代替物としての人間の悲しさといってもいいだろう。
牧野小説にとって〈神〉は〈病〉であり、〈天使〉は〈悪魔〉だ。『スイート・リトル・ベイビー』をものした作者であることからも自明だろう。
妄想から生み出される創世記という意味では『インキュバス言語』の方がまだ確信犯で救いがある。
『ドギィダディ』はより厭世感を漂わす偽典で、築き上げられた神の造形は自虐的にも否定されてしまう。
ここで描かれる神のもとへと導く天使の名は〈どぎぃだっど〉。犬のような――といってもジョナサン・キャロル『友の最良の人間』や『ぼくのズーンデル』でイメージすると莫迦をみる。なぜならその正体は勤めていた工場での事故で肉体が半壊した父親に過ぎないからだ。それでもなお生き続けているという陰惨な奇跡によって、嶽本野ばら『Religion』も真っ青の偽神崇拝がおこなわれる。
神母〈でぃど〉、始まりの男〈あぁだん〉、創造主〈やぁぶぇ〉、天使〈どぎぃだっど〉、救世主〈じぅ〉、仮の父親〈よぉでむ〉。グロテスクな福音は監禁淫楽の現実をねじ伏せ、作者の長篇『だからドロシー帰っておいで』にも通じる表裏関係の物語を紡ぐ。やがて信仰の犠牲となった躯だけが残され、語り得ない者にとって神など存在しないことだけが人の眼には映る。
第2章〈症状〉に収められた三作はこのように救いのない〈神〉の、否、〈病〉の仕業を直視していかなければならない。
人間が築くのは〈神〉――宗教だけではない。
『バロック あるいはシアワセの国』では幾つもの世界の遍歴をなぞり、社会に根付く〈病〉こそが姿のない創世と終末の主であることを明かす。
〈バロック〉という薬をめぐるネット掲示板でのやりとりと、千二百年前に存在した〈時の王国〉についての解説書、実際に薬物取引現場で伝承される〈王国〉の話などが交錯し、いかにして国家は病に罹り崩壊の一途をたどるのかと見せつけられる。時間認識の異常、神の速度の計測など人体科学から宗教SFまでの片鱗に触れる一方で、内的時間と外的環境の合理化が現代社会を呼び起こしたという社会学のホラ話にまで達すなどあまりに豪勢な造り込み。
〈時の王国〉を死に至らしめた未来派なる一派と、すでに機能しなくなった掲示板でひとりだけ浮いてしまっている書き込みの主を対比させながら、〈バロック感染症〉〈しあわせ症候群〉など形を変えて語られる病理――〈バロック(歪んだ真珠)〉の正体は、クリトリスを粘膜で包んだ嶽本野ばら『Pearl Parable』を足蹴にし、貴志祐介『天使の囀り』に一矢報いるようなとんだシロモノだった。〈バロック〉の氾濫により隆盛をきわめた〈時の王国〉に反し、圧倒的速度で閉鎖に追い込まれる掲示板と綻んでいく日本社会を並列しながら、〈王国〉を語り尽くした解説書の最後の舌なめずりが国家の死を予言する。
『中華風の屍体』は『夜明け、彼は妄想より来る』のように現実と妄想が咬合する話である。語る者と語られる者が混在していく話ならば筒井康隆『驚愕の曠野』のようだと説明できるのだが、それとも異なる。
本作の場合、娼婦工場で人造的に生まれた脚フェチ専門の少女が創造主である。『夜明け、彼は妄想より来る』の姉弟関係、あるいは長野まゆみ『カンパネルラ』の兄弟関係を、果ては川島誠『ぼく、歯医者になんかならないよ。』を思わせるような、弟と兄をめぐる二つの物語が少女の脳裏に描きこまれる。
劣等感や恨みとは逆しまに兄に対して異常な愛欲をもった弟は、食人鬼に食いつかれながらも行方不明の兄を求めて耳の迷宮を走る。
神の代名詞をもつ音楽プロデューサーとして芸能界で成功した男は、病を患ったのちに神の言葉を聴き、現実を放棄するようになる。男の前に現れた天使はこの世界が娼婦の生み出した夢ものがたりであると諭す。
これらの物語を動かす原理は、男に対する惨憺とした愚弄か、肉親に対する異常な興味か、神に対する強烈な憎悪か……。手の込んだ自殺を成し遂げたあと仮にも父親の腕の中で睡ることができたのが、本作をフェアリーテールやベッドタイム・ストーリーと呼べる所以である。
構造的に筒井康隆『驚愕の曠野』に近いのはむしろこちらかもしれない。その実、
『踊るバビロン』は『メタモルフォセス群島』を思わせる生態系SFのようでもある。否、遠藤徹『ジャングル・ジム』を思わせる無機有機の融合を企てたメルヒェンのようでもあるし、否、沼正三の人体改造SF・SM小説『家畜人ヤプー』だ。サニタリンガ、トイレタリンガをペニリンガ、クニリンガの亜種と見ないわけにはいくまい。
注釈小説という構造はさておき、生体建材、家具人間なる着想がとびきり破格なもので、さらに闘具となるまでの道筋はカンフー映画のパロディとして男心をくすぐりつづける。『いつか、僕は』の二人組を思わせる珍妙な会話は、牧野作品の命題である言語伝達の難しさを如実に表しているし、何より人体にまつわる変遷を活写して物語が具現化していくことの衝撃。
第3章〈諸例〉の三作は突飛ゆえに着想が奇抜である。
『演歌の黙示録』なんてシロモノ――というかキワモノを誰が想像し、誰が書ききってしまうことを想像しただろう。演歌と神秘主義の重奏がやがてコズミックホラーへと転じていく様、恐怖と笑いは紙一重というが、ほぼどちらの面でも完敗である。
演歌は神秘主義から生まれた。川上音二郎『オッペケペー』から添田唖蝉坊や〈薔薇十字団〉ならぬ『日本薔薇十字興業』を設立した黒井津楼膳(ローゼンクロイツ)、東海林太郎、音丸と誕生していった演歌師たちだったが、歌謡曲の流行によって廃れていった。そこで天才演歌師とも謳われる捲屋名山(マグレガー・メイザース)が登場、演歌を復活させたのだった。彼は『日本薔薇十字興業』からデビューした。デビューへと至る黒井津と捲屋の邂逅は、演歌史研究科・金宮不乱(フランシス・キング)の著書に記されている。しかし、のちに二人は決裂。捲屋はデビュー曲の作詞家である憂入谷臼琴(ウィリアム・スコット)とともに〈黄金の夜明け団〉ならぬ『黄金の暁プロダクション』を設立する。当プロダクションは、ムード歌謡の新鋭・江戸川縁次(エドワード・ヘリッジ)、アニー豊任丸(アニー・ホーニマン)などを輩出したが江戸川の性愛思想をなぞらえた楽曲にアニーが反発。
演歌の帝王と呼ばれ一時代の隆盛をきわめた捲屋が関係者をつぎつぎと馘首にし、プロ内に内紛が起こった。一方で、主蓮華安奈(アンナ・シュプレンゲル)という名を騙った詐欺師・幌州婦人(ホロス夫人)に騙され偽の資金援助をさせられたり、演歌の超新星・荒下黒瓜(アレイスター・クロウリー)が頭角を現すなど捲屋の牙城は崩れていく。『黄金の暁プロダクション』は荒下に奪われ、〈A∴A∴ 銀の星団〉ならぬ『A∴A∴エンタープライズ』と名を変えた。芸能界から姿を消した捲屋は人知れず〈内光協会〉ならぬ『内光興業』として、ひとりの歌手を発掘。それこそが貧しい漁村の娘であった薄幸の美少女、大安宝珠(ダイアン・フォーチュン)だったのである――。
ここから物語は紅白歌合戦の舞台裏に突入し、国民的歌番組が惨劇の幕開けと化していくのだ。やがて、この物語がインドの山奥に逃げのびた憂入谷臼琴により記述されていることが明かされるのだが、彼が最後に仄めかす操りの構図は『踊るバビロン』で見せた注釈と小説の関係の変奏であるようにも思えるし、何より『バロック あるいはシアワセの国』の逆転の構図をも思わせる。まぁ、そんなことはどうでもいいのだ。とりあえず着想の柔軟さと設定の緻密さに感嘆すればよろしい。
一山越えた感のある本書。あまりにあんまりな狂乱の渦中を経て、最終章〈療法〉では情感の充ちる三作がお披露目される。
『或る芸人の記録』の主人公は非言語表現を含む笑いに関するあらゆるコミュニケーションの壁を突破できる能力を持った天才芸人コンビ・タム蔵タム助。事故で体を失い、タム蔵の左肩と融合したタム助の半生だけでもかなり泣かせるのだが、災害慰問のため宇宙船で航行している途中に絶対的にコミュニケーション不能とされる生命体と出くわし、救助が来るまでの時間稼ぎのために芸を見せる、二人の生き様にけんもほろろ。
漫才と客との熾烈な争いの果てに現れる結末は、ジョナサン・キャロルばりの韜晦癖のようだが、本質はシュール芸のそれ。『演歌の黙示録』もそうだがこういう話を読むと大阪人の遺伝子が途方もなく羨ましく感じる。
そして何より、牧野作品の〈天使〉の多様性――都合の良さに感服。
結婚を前提に付き合っていた男にフラれ自殺を決意して屋上に登った女が、たまたま出くわした〈憑依者〉の僕に身体を乗っとられる
『憑依奇譚』は心霊ものを基調としながら、僕が非科学的なモノを排除する科学啓蒙団体に命を狙われているなど、SFマインドは死んでも離さない。組織の魔の手から逃れた二人はやがて女の失意の原因となった男に会いに行くのだが、なんとも心を穏やかにさせるメロドラマのやり口でボー・ミーツ・ガールのツボを押さえてくる。とはいえ、他の作品でも垣間見せる小説だからこその別れのシークエンスが、ことばの非情と作者の人の悪さを痛感させ、だからこそ安堵させられる。
ことばと存在の問題意識は、序章『病室にて』における創作や『召されし街』における自由への欲求と綯い交ぜになり、
『逃げゆく物語の話』という傑作に結実する。
テキストから生まれる言語人形というガジェット。遠藤徹『キューブ・ガールズ』や朱川湊人『月の石』の呪いのマネキンのような擬人化と即物性を先鋭化したものではある。しかし、企みはモノと人の関係ではなく、『踊るバビロン』で言及された“躰は物語で作られる”という一点の追求である。〈物語〉が登場人物のなかで〈妄想〉として語られようが、我々にとってはことば――すなわち〈言語〉以外の何物でもない。
さらにはこの後の『付記・ロマンス法について』で描かれるものと同様な危険意識、そして愛が、この悲劇を共有できる者たちを――つまり俺を、感動と興奮と快楽に尽き果てさせる。女性向けB級ホラー小説『血塗れ海岸』・ポルノ小説『嗜虐女教師』のどちらが目の前にあっても正直俺は食指が動かないことが確実であること、『憑依奇譚』において逃避行に成功した男女の影を意識せずにはいられない収録順の魔術、それらを差し引いてみてもチマミレとクリプトグラフのラヴストーリーに涙していけない理由はあるまい。
血潮の代わりに〈言語〉が飛び散る様は至上の切なさを演じる一方で、記されたセンテンスと本質の間の溝を感じさせる意地の悪さをも突きつけてしまうのだが、それらすべてひっくるめて、小説が小説であることと小説を愛する者が存在することへの類まれなる喝采であるように思えるのだ。
終章
『付記・ロマンス法について』はより直接的にこの苦悩を描ききる。それはそうでもしないとわからないだろうという作者の切り札のようにも思える。
作者自身をモデルとした男が風呂に浸かっている。男が住む社会では「家族に繋がらない恋愛の排除」と称し、教育に悪いSFやホラーというジャンルを迫害していた。そして主人公は病院に閉じ込められ、一週間の治療を受ける。〈療法〉は家族を持つことがシアワセであると刷り込ませるような、パターン化された恋愛小説の執筆である。退院後も家族を養うために執筆を続ける主人公、やがて〈自由〉を奪われたことへの苦悶から、自らの手首の動脈を深く傷つけるのだった。
これは問題である。ヒステリーに対する療法自体が〈病〉でありヒステリーだと描かれるのだから。だとすれば、第4章〈療法〉で描かれた情感の数々は作者による逆治療の材料なのだという予感はよそに、これはあまりに自虐的な結末ではないか。
否、J.G.バラード『殺す』を引き合いに出すまでもなくSFは現代に対する鏡としても機能する。だとすれば、これは作者流の“手の込んだ自殺”なのだろう。現代という〈シアワセの国〉において、本書で描かれる寓意の刃はいまだ煌めき続けている。
もちろんそれらすべてがヒトデナシな芸人魂による〈神〉の御業のパロディだとしても、だ。
さて、これで『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』については以上だ。そしてこの連鎖的な読書感想はたまた解釈の駄文もひとまず区切りをつけることにする。とはいってもまったく姿を見せなくなるわけではない。連鎖を断ち切るという意味で、だ。
だが目の前に立っているフランケンシュタインの怪物を倒さない限り、次の本は手に取れないだろう。そんなひとりごとを最後に添えて、いっときのお別れとする。
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