こぽこぽ、耳慣れぬ耳鳴りが時折喧しく、蟀谷を押さえると、びりりとした痛みが骨を刺激する。女が蓋を開けたビーカーの中は空だった。まさかそこに奴が潜んでいただなんて、俄かには信じがたい。研究所の窓際に置かれた椅子には、血で濡れた白衣が張り付いていた。先刻まで着ていた人間が消失してしまったという絶奇を物語るように、腕を広げ、赫然としている。奴の研究など興味もなかった。愚者の戯れとばかり思っていたが、既に研究は完成していたのだと聞かされては、重要参考人として話を聞かねばなるまい。
密室で、研究員が殺された。出入り口も窓も施錠され、人が忍び込む余地は無い。扉の鍵は室内で殺されていた研究員の白衣にあったと来れば推理小説さながらである。仮に侵入できるとすれば換気扇の隙間のみである。もし奴の研究が真に成功していたとすれば、容疑者は奴となる。融解生活者。俺を案内した女は、奴をそう呼ぶ。人体を融解させる、そんなことが可能な訳が無いと信じたい。眼前にある白衣は、どうせ奴が拵えたカムフラージュに過ぎない。そう見せようと思えば、幾らだって作れる。
こぽこぽ、女が呻いた。何の呪文だと嘲ると、彼を呼び出す合図だと返ってくるから、この女もイカれているに違いない。そうだ、好んであんな愚者の助手を勤める女だ、正気ではないだろう。
「彼を止めて。でないと、また人が殺されてしまう」
涙ながらに嘆願する女は、よく言えば秀麗な女で、奴とは仕事上に留まらぬ関係であることは直ぐに察しがつく。羨ましさを超え恨めしい。件の殺人の真相は推測できていた。第一発見者はこの女だった。俺が着いた時には密室は密室でなく、すべてはこの女の証言によるもの。つまり、密室など端から存在していなかった。全ては虚偽の証言による殺人。奴の研究が成功したと思わせるための茶番だ。
「私の身体が乗っ取られる」
女の言葉に耳が触れ、振り返ると、首筋から滝のように血を流し、女は佇んでいた。そして数秒後に倒れ込む。女は死んでいた。乗っ取られる……液状化した奴が彼女の身体を乗っ取り、殺人を犯したとでもいうのか。こぽこぽ。しかし、今この部屋は俺と女だけだった。施錠されぬ扉まで数メートル。この数秒間に忍び込み、女を殺すなんて……。
視界の端にナイフの煌きが見えた。刃が俺の蟀谷を狙っている。そのナイフを握るのは、俺の手。……いや今ではもう奴の手。こぽこぽ。グシャ。
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