夜蟲灯は燈っていたが換え時なのだろう、随分ぼんやりしている。灯の環に巨きな蛾が一匹居座っていて、炉澪と樹鈴土みたいねと妻が笑った。
「ろみおとじゅれと? なんだいそれは。故事かい」
「ドラマよ。毎週月曜の九時から」
ほお、と相槌を打ったが大した興味はなかった。新聞は政治経済と社会欄しか見ない。
「結ばれない男女の物語なの。きっとあの蛾は灯りのなかの蟲に恋をしているんだわ」
「またまたそんな」
夕餉の牛肉巻を食みながら停泊した蛾を見詰めていると、目に嵌めたレンズの調子が悪いのか、光に気圧されて焦点がちかちかと揺らいだ。視界には落ちるとも舞い上がるとも見紛う微細な浮埃が漂っているのだが、黄土色の翅が視界に入ってしまうとどうも振り撒かれた麟粉のように思えて仕様がない。にしても奇抜な紋様だ。
「外に逃がそうか」
「いいえ。そっとしておいてあげて。悪気はないんだもの」
妻はそう云うけれども。
近頃、蛾が異様に殖えた。先の領海統合のために来航した北方土人が、悪意なしに連れ込んだとも云われている。確かにあの蛾は見覚えのない種だ。温暖な気候のせいで過剰繁殖したのかもしれない。夜は九時を回ると、懺悔河を渡る橋の翳りに、大鋸屑のような巨蛾の集りが纏まっていたりする。子どもが悪い夢を見るのも当然だろう。一日中、あれが何処かしらで屯っているのを見るのは気味が悪い。ましてや食事中となると……。
「目に毒だな」
私がつい口にすると、妻は悲しそうな顔をする。
外気に触れると肌が爛れてしまう奇病があったとして、否、実際妻がそれに罹っていて、軽量ポリ素材のスーツが全身を覆い、食事を摂るにもチューブを通した流動食でなければならない。肉体を同型の容器に包装された彼女は、環のなかの発光蟲に自身を重ね合わせているのだろう。気持ちは分からないでもない。だが生身むき出しの私は私で、麟粉に触れやしないかという不安感を蔑ろには出来ないのだ。
「逃がすよ」
妻の返事を待たずに、私はフォークを置いて、傍らの新聞紙を折り畳んで蛾を捕まえにかかった。大人しく新聞紙に埋もれた蛾は、窓から外に投げた途端に、殺虫熱線の入り乱れる家庭菜園から上空へと羽ばたいていった。
食卓で私の行動を物言わず見ていた妻の頬、指を伸ばすと硬い感触の下には確かな体温。
私たちは互いに互いを莫迦だとやっかむことは出来ないのだが、それはそれで狂おしく思う夏の夜更けだ。
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