手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『さらば、いとしき火星床の軍隊よ』

[解題]
いまいち自分でもどういう物語なのかよく分からないってのが正直なところで、アスベストへの恐怖(時代後れだが)のリソースであったり、喫煙者としての苦悩であったり、小人のイメージ先行であったり、『火星のプリンセス』映画化記念であったり、もう何がなんだか……。
なお、《短編》に投稿したものは1000字きっかりだが、こちらはその際に削った部分を付け加えている。なくてもいいのだけれど、割と気に入っている箇所なのでその思い入れを優先したい。




 蒸し暑く、寝苦しい夜ばかり続く。窓を数ミリ開ければ降りしきる氷晶の粉が乱反射して、目には愉しい丑三つ時の夜景だが、外気の冷たさは輪をかけて鋭く、夜風に十秒と当たってはいられない。
 頭上からごとりと音がして、何となく天井裏のボイラーを散策する小人の姿が思い浮かぶ。扉は閉めているはずだが、忘れた頃にこうして抜け出てくるのだった。
 台所に入るや否や、物陰に逃げ込む影があったり、紛れもなく足跡であろう僅かな染みの連なりも確認できたりする。額から噴き出る汗を拭いながら温蔵庫の取っ手に指をかけると、ぼふん、と扉の隙間から蜂蜜色の粉塵が放たれて、危うく吸い込むところだった。火星床の赤鉄鉱は肺胞に巣食って棘を伸ばす。と言いつつも、いま目の前にあるのは模造の赤土だからどうってことはないのだが、知ってか知らずか小人たちはいたずらに粉塵を巻き上げるのだった。
 都合五千体、とあまりに数が多いので誰彼見分けることは不可能だが、傍目にはいつも同じやつが先頭を歩いているように見える。どれも頭は剥いたサンダース豆を思わせる質感ながら、先頭を見比べると、少し頭頂部が紅潮している気がする。と言いつつも、行進は縦横無尽に蛇行を繰り返し、交差し合流し分岐しと目まぐるしく変わるのが常だから、見分けはあってないようなものだ。
 その行進は稠密で、覗いて観察すればするほどに気が狂いそうになる。小指の爪の半分きりない背丈の小人である。アルバ・パテラという山稜に棲む痩身の部族で、個人的には平原やクレーター海系に多く見られるずんぐりむっくりよりも気に入っている体型だ。
 先頭の小人が吼えた。一斉に数百の隊列が床を離れて、温蔵庫から溢れ出して来る。スポイトで応戦する。奴らは水に弱い。溶けもかぶれもしないのだが硫黄臭い煙を上げる。痛そうな素振りを見せるがそのときだけ動作が鈍くなるので、単に滑稽だ。

 何はともあれ作業の邪魔をした私が悪かったのだ。
 小人は深夜に領土拡大を図る。火星床本来の赤鉄鉱を体内で生成し、行進は吐き出したその粉末を踏み固めるための作業なのだ。そんな特性もあってか今年の四月から奴らを飼う事が法的に禁止されることとなった。火星に還すか、穴を開けた袋にしまい水没させるのが飼い主の義務。怠れば有害物所持で処罰される。火星の気候に合わせるためのボイラーも不要になるだろう。蒸し暑いだけならまだいいのだ、寝つけない理由は。

 行進する小人を見据え、温蔵庫の扉にもたれ溜め息をつく。諦め悪く隊列を目で追う。
 すると一体、頭頂部の朱い小人が踵を返した。今さら何を訴えるかと思えば、黒々とした瞳でこちらをはっきりと見、小さな右腕で、しっかりと敬礼をしたのだった。目頭が痺れた。だがなに……汗がしみたか、眠気のせいだろうよ。
 凍気が窓を叩く。怯えて乱れた隊列に、いまは目をつむる。
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