Pで始まる英単語を探していた。
ベッド脇に椅子を持ってきて、座り込んで二時間ほど経つだろうか。夜の冷気が鋭さを増すばかりで、膝の上に乗せたピシピシの熱でさえ微かになってくる。ピシピシの調子が悪い。充電をしても一時間で切れてしまう。執筆してもその成果はバッテリー切れの深淵へと引きずりこまれるのが関の山で、そう思うと文章も忽ち浮かんでこなくなる。
二十分おきに看護婦が様子を見に来る。母親の容態のこともあろうが、覗き込む女性達の顔には俺を迷惑そうに思う表情が感じ取れた。
特例を、二つだけ認めてもらった。
ひとつは面会時間外に病室に居残っていること。これは個室だったから割とすんなり受け入れられた。但し、夜中となってはナースステーションやら警備室に顔を出さなければならなくて、今さら出て行くのも億劫とさえ感じた。
もうひとつは、ピシピシの持込み。Parsonal-Computer, Portable-Crab略してPCPC、通称ピシピシ。蟹を模した形状が特徴の、ネットブックもかくやという小型PCのことである。丸みを帯び、凹凸の目立つ外装といい、脇に突き出た八本の足(USBポートやらサブメモリやらを備えている)といい、見た目はコラージュされた蟹そのもので、甲羅を開くようにモニタを上げれば、メインディスプレイとキーボードが現れる。決して蟹味噌が溢れ出てくる訳ではない。誰が好き好んでこんなゲテモノめいたPCを造ろうと思ったのかは不明だが、何より本体価格の安さでこれを選んだ。けれど、安物は安いだけの理由がある。三年目を目前に、バッテリーがもたなくなってきた。
ネットだってろくに漂流しないのに、どうしてPCなんか買ったかといえば、それは小説を書くためだ。何とか母親の息がある内に世に出るような作品を書きたい。その一心だった。けれど二年の猶予期間はあっという間に過ぎ去り、ろくに実績も残せないまま今夜を迎える。瀬戸際ですね、と医師は語った。
peak,pain,pathos……ネガティブな単語しか思いつかない。
P…… the Cancer。
母親の癌をどうにかしてくれる手立ては、俺の手中にない。何度電源を入れなおそうが、ピシピシは起動しなかった。ベッドに横たわる母の手を握る。ピシピシが失ったものと同量の熱が辛うじて残る母の手だ。
俺は今、失ったあの日の熱量を蘇らせたくて、これを書いている。
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