あの娘は波濤の娘だ。人を二千人、食った。
娘が去った後には、花が残った。蛆虫の食う花だ。あの肋骨の柵で支えられた、干からびた肉の。いまでは希少価値の高い紅色の花弁を人々は持て囃し、いずれは撤去費用も嵩むであろう、大型の記念碑を建てた。麓に捨てられた赤子がいた。透明な硝子箱のなかに入れられ無菌状態を保持されながら、超意識投影のための高周波教育を受ける。
記念碑には去り行くあの日の日付と時刻、娘が浚った人々の数が刻印された。
赤子は成長し、痩躯の男子に育った。髪は赤毛で、瞳は夜を湛えた黒。巨鴉が伸ばす双翼の如く、はっきりとした眉毛が瞳を抱えた。周囲は身寄りなく生まれた彼に、是が非とも素晴らしい名前をと画策して何度も筆を振るった。高々二、三文字に込められた人々の思いは強烈で、改めて考えればなんてこともない文字も、彼の名前に授けられた途端に墨色の綾が失せた。彼が拒絶の仕草を見せるたび文字群が嬉々とするようでもあった。
終ぞ彼は名前を持たなかった。
勇敢なあの子と呼ばれるようになった。
彼のランドセルには花が咲いた。血みどろの鮮花が植わった黒の合成革は、かの出来事を思い出させる。光が反射し艶かしい油膜の変化を見せる花弁の陰から、苔むした腕が伸びる。蔦でも根でもない、腕だ。彼の首に腕が巻かれ、クラスメイトは瞳を輝かせた。皆が、萎びた暁光めいた瞳だ。
好奇な眼差しは一年ともたなかった。飽きたのとは違う。皆、外側に行ってしまったのだ。何故かと問うことに意味はなかった。避難もできぬ彼の漆黒の瞳は大海嘯に向けられていた。
彼がはじめて客観的に宿命を認識できたのは、首筋に痛みが走ったからだ。彼は生まれ落ちた記念碑を訪れる。枯れた花々が横たわる大地のその下に、幾重にも折り重なる紅の層を見つける。歪み、潰された女の顔と頭蓋があり駈寄る。
尾けてきた引率の教師が、彼を捕まえた。家に帰ろう、の一点張りだった。
僕の家は此処です、そんな奇麗事を吐く余裕もなかった。
教師の肋骨は未熟で、彼の重い魂を支えるには不十分だった。耐え切れず瓦解するその上に立ち、彼は泣いた。耳を劈く芝居がかった慟哭を責める者はいない。代わりに荒れ野は非常警報に包まれ、再び町から人が消えた。
彼岸から来る少女の首筋に、彼は爪を立てた。
数百の花弁を散らせ少女は泣いた。笑った。
血と泥の雑じった花は、恋の色だと云って、笑った。
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