新時代のために用意されたアベックがわたしとこの男ならば、世界は終末を迎えた意味などない。
――この男が、嫌いだ。姓を木谷、と云う。
見かけだけ公務員よろしく、耳の縁、襟元まで至らぬように切り揃えた髪の毛と、太い蔓の眼鏡、デザイン性のないスーツに、よれよれの革靴。寂れたとも萎れたとも云い難い、疲弊が垣間見える風貌こそ、生理的に受け付けなかったが、重要なのはそこではない。
この男が内に秘めている感情、思考は想像よりも混沌としていて、つまるところ、粗暴をひた隠しにしつつ、社会に溶け込みながら生きているようで、実は内部から食い散らかす気でいた寄生虫ではないか。レンズ越しに覗く眼は、とにかく澄んでいない。瞳孔が濁っている。肌の荒れ、唇のかさつき、無精髭、黄ばんだ前歯すら大人しくさせる眼が、先ず嫌いだ。
篠田さん、ここからだとよく見渡せるでしょ。
磐城港の近くにいる。左手にアクアマリンが見える。親潮と黒潮の境目に建つ環境水族館。見た目は鼠捕りの籠のようだが、近代的なフォルムには違いなく、漁港の湾景に比べると聊か芸術的にさえ見える。繋がれた手の温もりを想起させるほど、父と出向いた思い出は充ちるが、景色自体は古物の風格が拭えない。
水平線に防波堤。観測棟。背中に、突き出た崖。一角に年代物の灯台。
今夜もあれは来る。何をしに来るのかは解せぬけど、とりあえず来る。
湾景は黄昏て、海は凪いだ。重層の混ざる空に、浮かび上がる点星を数えながら、午前のことを考えている。潮風に燻されに来る必要はなかった。泊まったブティックホテルの窓辺から眺望できたのだ、この海も。会えますよ、お父さんに。それが口説き文句だと本気で思っているのか、木谷は嘯き、自前の手品でも披露するかのように海へと視線を誘う。
あれが甥、あれは大叔母。鰯雲を突き抜けるように現れた数多の流星群のなかに、見知った顔を見つけるのは容易かった。血縁者ばかりか、かつての恋人や友人たちもいる。空の涯てより来て無尽蔵に殖える生首衆は、アクアマリンの網目を撫でる間もなく、燃え尽きる。今さら父の眼差しが恋しくなるなんて……。
現れませんか。木谷が赤子のそれを包むように握るのは、三十路手前の女の手で――
幻影にすら見放されて、どう生きよう。
けれども諦めが運命を支配するなら、わたしは男の手を握り返す。大嫌いだった父のそれによく似た毛深い手を、優しく。
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