近頃のこどもたちは遊び方を知らない。その点、《仮想球をもつ男》はやるべきことをしてくれていると私は思うのだ。あの布のターバンはどこかで見覚えがあるが、曖昧な記憶を頼りに《男》の素性を詮索するのは愚計だろう。
ここいらでは夕暮れ時になると嵐がやって来て砂に塗れる。《男》は烈風のなかをゆっくりと歩いてきて家々の戸口を叩いて回る。肩に提げた大袋の口からは《仮想球》の糸がなびき、風で遊んでいる。糸は艶やかだが触れれば指先が切れてしまうようで怖ろしい。数軒隣に織物屋の一家があり、主人が云うに、あの細さではああもてんでばらばらになびくはずがない、巷の糸であればすぐに絡まってしまって、《男》が操るような軽やかさは出せないだろう、とそんなところだ。
織物屋主人と云えば、五歳の息子が先月《仮想球》を継いだそうだ。尚早ではないか、と個人的には思うが裕福な生業の家の子だ。遡れば、私より歳がひとつ下の主人の方も同じ年頃に継承したはずだ。
かくいう私は数年遅れて……。
「和らぎたまえ。十秒、呼吸を止めているのとさして変わらないから」
私の頭を撫で、《男》は糸を手繰り寄せると筆を執るように手首を捻る。袋のなかから現れた《仮想球》は海を湛えた深い青で、見るからに冷ややかさを放つ。それが自分の頭のなかに入ってくる、そう思うだけで恐怖だった。《男》は周囲を窺うように宙を踊った《仮想球》を指先で摘まみ、私の眉間に近づけてくる。
「退屈より怖ろしいものはない」
憶えている言葉はそれが最後だった。にゅまり、と皮膚を蕩けさせた《仮想球》が眉間のなかに入っていくのを感じながら、私は悶絶し、挫傷のような記憶の切れ端を何度も見た。脳が苛められている、今ではそう喩えるだろう。気がつくと寝台で眠っており、父母が心配そうに私を見ていた。《男》は施術後すぐに去ったらしい。無事に継承した私は、稀に見る御馳走を平らげその夜は早く寝た。《仮想球》が根を張るゆめを見た。
この町には遊具がない。誰も木棒を打ちつけあって遊ばない。どうして。危険だからだ。肉体を操る限り、事故に繋がる原因はなくならない。
反して私たちは平安に守られている。自ずと溢れ出てくる《仮想球》の精液が与えてくれるものを、どうしてきみは批難できようか。寂れた広場ばかりを見て、どうして脳裡の花園を見ようとしない。
受け継いで欲しい、きみにも。《仮想球》が視せるゆめを。
PR