朝、隆起した荒原に、痩せた鹿の幻影が浮かぶ。白い和毛の生えた膚が青空を背にし聳える赤い山稜の前を横切ると、疲弊と空腹で霞がかった視界に爽やかな風が宿り、遠のいた意識も辛うじて蘇った。右肩にのし掛かる妹の首の重みをはじめて感じた。ずれ落ちた綿毛布が焚き火の燃えかすに触れそうだったので、少しだけ引っぱってやると、眠気は浅かったのか、妹はすぐに目を覚ました。
荒涼とした大地を眺める瞼は重たそうで、気難しく結んだ唇はかさかさに乾いていた。どれ、薬を塗ってやるよ。指を伸ばすと妹は顔を背けて、それ嫌い、臭いんだもん、と断る。乾燥を防ぐ薬は紫鈴樹の葉をすり潰し薄荷を混ぜ合わせたもので、臭いは相当きつい。触れた指にもしばらく残る。
さっき鹿を見たよ。
白いの、青いの?
白……かな。
じゃあ風の鹿だよ。
またその話か、白い鹿しか現れないのに。
青いの見たもん。
青い鹿は空の鹿だっけ?
そう、翡翠色のは水の鹿よ。
妹が得意げに語るのは伝説の類だ。ここいら一帯は隆起した土地のせいで蜃気楼が見える。遠く離れた場所にいる鹿の姿が幻影となってそこいらを駆け回るのだ。日照りが先の方まで続いていると空の色が強調されて青い鹿となり、草の生い茂る水辺が近ければ、その傍にいる鹿は翡翠色の幻影となって映し出される。
喉かわいた。
呟いたきり、妹は大人しくなった。また眠ったのだろう。太陽の高いうちは移動しない、日暮れて涼しくなるまで体力は温存しておかなければならないのだ。湯気さえ立たぬ地面の果てを見つめながら、その先へと連れて行かれた両親について思う。かつては草木で潤っていたこの土地を太陽が浚っていったあの日から、二人の行方を追いはじめて幾晩が過ぎた。少しでも諦めた素振りを見せれば、必ず会えるそう信じてと、妹によく叱られる。信じればきっと叶うから、と。怖い夢を見て泣き出す妹はもうどこにもいなかった。
水気の失せつつある眦がしびれて、瞬きを繰り返す最中、開けては途切れる視界の片隅に目映い何かを見つけた。赤土に殊更映える翡翠色の、幻影だった。
鹿だ、水の鹿が見えたぞ。
肩を揺さぶっては見たものの、妹はごろんと寝返りを打っただけだった。肌が砂にまみれようとも、寝顔は安らかでひたすら可愛らしい。鹿が逃げてしまうよ。諭す声もか細くなっていく。
人知れず足許に芽吹いた新芽の、青々とした葉に蓄えられた雫が、土を濡らす。
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