「乾杯しよう」
八手が静かに笑みをこぼして、グラスを上げた。二十数名いる他の者たちも真似をした。皆、喪服がよく似合っている。
「彼女は――麗(うらら)は、我々にとって特別な存在だった。母であり姉であり、妹であり、恋人だった。彼女は我々を愛し、我々は彼女を愛していた。――心から」
星野が語り出す。その瞳はうっすらと濡れている。
「集まってくれてありがとう。麗は宴が好きだった。歌を歌い、踊りを舞い、至福の時だ。今日はあの幸せだった頃の再現をしよう。乾杯」
グラスがかち鳴る。飲んべえの八手は幾つものヌーヴォーを飲み干し、昔以上に顔を紅潮させている。宇都宮も一緒になって暴飲暴食に抜かりはない。人知れず、麗を心から愛していた平は隅で、悲嘆にくれていた。
「今なら彼女を正面から見つめることが出来るのに……」
私は呟く平の肩を叩く。気持ちは分かる。
ここにいる全員にとって、麗は特別な存在だった。人間の身体に魚類の尾。一目見て、彼女を化け物だと思わなかったのはその美貌によるものだろうか。初めて出会った時、水面から覗かせた顔――。碧色の長い髪に、澄んだブルーの瞳、紅を塗るまでもない整った唇、朱に滲む頬――。
宴も酣(たけなわ)の頃、皆が一斉に嘆き出した。
彼らにも感謝している。私も余所者だった。そんな私を受け入れてくれた彼らも、私にとっては特別な存在だ。
私は会場の窓を開ける。朝の潮風が吹き込み、カーテンが靡いた。
「気持ちいいな。酔いざましには特に」
誰かが言った。その肌は乾燥してきている。魔法が解ける時間だ。
皆がグラスを手から離し、直立して時を待つ。彼らの身体が震え始めた。顎の下に同化していた鰓が離れ、腕が縮んで鰭が広がる。鱗が浮き出ると、一張羅の喪服を脱ぎ捨てて、窓から崖下に臨める海原へ飛び込んでいく。死に際の人魚が放った一つの魔法。彼女に恋をし、海に棲むものが一晩だけ、人間になれた。
「なあ。俺たちは同志だろ」
声をかけてきたヒトデも、ウツボも、タコも、ヒラメも、仲間たちは名前を捨てて海に消えていく。
そして、私も――。
麗の微笑み、奏でる詠唱歌(アリア)。水面を叩く尾のうねり、話してくれた七つの海の伝説。忘れない。
海の思い出に別れを告げて、私は元の姿に戻る。
家族が迎えに来ていた。
私は白い翼を広げ、飛び立った。故郷の空へ。
海鳥の、群れの中へ。
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