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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『初夏のエチュード』

[解題]
やいやい、おまえさん。これのどこが奇想だってぇ。話と違ぇじゃねえか。
まあまあ落ち着きなさいな。普段奇抜なフィクションに接していると、普通の暮らしの些細な偶然やらシンクロニシティとやらがとても新鮮に感じてしまいやがる。そんな経験はねえか。事実は小説よりも奇なり、なんて大それたことは申しませんが、このさしてドラマチックでもねえ話、現実にもよくある話だとしてもな、ちょいと隅々まで覗いておくれよ。細かいとこで物語としか思いようのない被せがあるだろうが。これを物語と呼ばず何と呼ぶ。そんな奇想もあるってことよぃ。
まあ、一番珍奇なのは、この作者がこんな趣味にもねえ話書くってことだ。
ああ、確かにそいつぁ違ぇねぇ。


お後がよろしいようで。




 部活の帰りに図書室で本を物色した後、ふと忘れ物を思い出して教室に戻った。昨年度建て直した近代的な校舎は中も外も白亜の壁で、まだその真新しさに慣れない。夏休みだからだろうか、静かさが一層それを引き立てる。廊下の窓の向こうのグラウンドから野球部の声が聞こえてきた。
 教室に着くと、女子が一人窓辺に凭れて、校舎から校門へ伸びる並木道辺りを見下ろしている背中を見つけた。直ぐに誰だか分かった。
「何やってんの、一人で」
 私が声をかけると、陽子は振り返った。
「美月か」
 特別驚く素振りも見せず、陽子はまた窓に顔を向ける。「部活の帰り?」
 陽子の問いに、私はうんと答えた。私は自然と陽子の隣に移動して、窓辺に並んだ。
「来週、発表会なの」
「吹奏楽部は大変だよね」
 陽子はずっと帰宅部を突き通していた。中学の頃から吹奏楽部で一緒だったのに、彼女が一年生の夏に退部してから、何となく私たちは疎遠になっていた。同じクラスなのに。
「進路決まったんだっけ?」
「ううん。美月は決まったの?」
「就職だからね」
「いいな。進学組はこれからだし」
「進学の方がいいよ。将来のこと考えると」
 窓の外から蝉時雨。陽子は沈黙した。こんな世の中だから、大学に行っても働き先がない可能性もある。不安は誰もが持っていた。私だっていつ内定が取り消しになるか分からない。猶予の種類が違うだけで私も陽子たちと何も変わらない。
「久し振りだね、こうやって話すの」陽子が笑んだ。
 そうだね、と言いながら私は今まで何度かこのきっかけを得ようとしていたことを思い出す。テストの成績が落ち込んだ時、家の都合で進路を就職に切り替えた時、隣のクラスの元彼と別れる時……私は誰より陽子に相談したかった。でも、実行に移すことが出来なかった。やっときっかけが得られた今では、打ち明ける悩みもない。
「これから塾の夏期講習なの。行かなきゃ」
 陽子は窓辺を離れた。私は今しかないと思った。
「進路決まったら遊びに行こう。二人で」
 陽子はまた笑んだ。「時間かかるよ」
「待ってる。応援してるから」
 ありがとう。元気出た。陽子は教室を出て行く。廊下の向こうからカキーンと野球部がホームランを打った音が響いた。
 そういえば忘れ物……。何を忘れたのかすら忘れてしまっていたけれど、別のものを思い出したからいいとしよう。窓の外には蝉時雨。私たちの夏休み。

 半年後、陽子は無事志望校に合格した。
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