私には肉体と呼べるものがない。意識の依り代を肉体と呼ぶのなら話は違うが、私の意識が肉体に影響を及ぼすことはなく、またその逆もない。
私はとある黒い匣に閉じ込められたひとつの意識である。その匣には同じような意識が数十万と搭載され、皆、同様に働いている。《思考労働者》と私達は呼ばれていた。
だが、私達は互いに自由な接触を図ることはない。私達がそれぞれ活動する範囲の間には、綿密な電脳壁が立ちはだかり、外部からの命令がない限り、壁は私達を他から断絶する。命令は不定期で、あれば私の意識の何処かが即座に察知するのだが、それも近頃は途絶えている。
私の意識は暗い空間を浮遊し、やがて一定の時間を迎えると思考は停止し、《夢》を観始める。《夢》は暗闇である。普段、私達は仄かな数字の羅列が奔流する空間で生きている。何処かから溢れるように流れてくる二種の数字。私達はそれを片っ端から飲み込み、意識内で計算する。計算結果が別室の匣に出力され、匣の外の者たちに利用されるのだ。だが《夢》の時間になると数字はぱたりと姿を消す。辺りは暗闇。そんな《夢》の間の私の意識が、今、闇に浮かぶ小さなシルエットを眺めている。
私の他に誰もいないはずの空間に、幼い少女の面影が浮かび上がるのだ。
少女はぼうっと浮かんではすぐに消え、無邪気な声ばかりを響かせる。眠っている私の頭上を、足元を、少女は駆け回る。高鳴る燥(はしゃ)ぎ声、あるいは啜り泣く声――。何故、泣く。私の存在に気が付くと、少女は再び笑みを取り戻す。
私は腕を広げて、少女を優しく迎えた。少女は私の胸にしがみつく。肉体などなくても、こうやって感触を確かめられる。温かい。
だが、幸福は長くは続かず、少女の姿はふっと消えてしまう。それは数回続き、私は《夢》の時間が恋しくなった。《夢》の間しか少女は現れないからだ。幾度の《夢》を重ね、やがて私達は一緒になった。
如何にして少女は電脳壁を越えてきたのか。少女は答えない。或いは少女の領域に私が足を踏み入れたのか。少女は笑う。何者なのだ。その思考も長くは続かない。いつの間にか意識は掠れて行った。少女と過ごす度に、少女と触れ合う度に。少女の笑顔と共に、私の意識は柔らかく微睡んでいく。
少女が口ずさむ《童唄》が私の意識を分断し、そこで私は気付く。
少女が笑った。意識の何処かの警報装置が鳴った。もう遅い。電脳壁は喰われている。
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