手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『アクアリウムの死』

[解題]
オバケヤシキテーマにわざわざ水族館をモチーフとして組み入れる理由は作中で言及されている通り。動物園では表せない、水族館特有の閉鎖環境と水の神秘性を大事にしたかった。動物園と水族館の明確な違いは、対面する両者を硝子が隔てているか否か。そんなことを思いあぐねる内、悲恋のラブストーリーが出来た。
視点の移動が印象的だと思われるかもしれない。水中から室内に入っていく様は、どこか長大な物語の冒頭、俯瞰的カメラワークにも似ている。

 青に沈んだ暗室。硝子越しに水の呼吸が聞こえる。細かい泡が水槽の底から上り、天井に消えて行く。
 水中照明がその軌跡を照らし、さながら銀色の鎖のように天へと伸びて行く。光と闇が混在する空間。青の揺らぎと白の揺蕩いの交わり。水槽で隔たれ、水棲生物と人間が共存していた世界。……現役の頃は。
 海沿いに建てられた近代水族館。
 当時もここは静かだった。あの人と一緒に観た時も。
 あれから一年。
 あの人とは結ばれなかった。でも交わした約束を忘れたことはない。一年後もこの水槽の前で会おうと。
 その約束は果たされず、この水族館も……近い内になくなってしまう。その前に約束を……足音が聞こえる。入場口からゆったりとした足取りで近付いてくる。
「先輩、やばいですよ。勝手に入っちゃ」
「好きだった子がいてさ。付き合って一か月だった。休みの折合いがつかなくて……一度もデートらしいデートが出来なかった。だから、その日は必ず会おうと 思って……彼女、オバケヤシキが苦手だって言ってた。じゃあ、怖くないオバケヤシキを観せてあげるよと言ったんだ。そして、ここで待ち合わせをした」
 水族館の従業員二人が、からの水槽の前に立つ。
「オバケヤシキは、幽霊を見に行く場所じゃない。幽霊に見られに行く場所なんだ。彼らはじっと見てる。水族館も同じ。僕らが見てるんじゃない。彼らが見てるんだ」
 彼は水槽に手を当てた。彼の掌。私の頭をよく撫でてくれた掌。
 私は彼の前まで泳ぎ、彼の掌に手を重ねた。
「僕は約束したんだ。二か月前死んだ彼女と、ここで」
 途端、彼の背後にいた男が何かに気付き目を見開いた。
「先輩……水槽の中に……」
 彼が顔を上げる。私と目が合った。彼は微笑む。
「ずっと謝ろうと……。君が事故に遭ったことを知ったのは、ずっと後だった。ちょうど浸水が見つかって、その対応で首が回らなかったんだ……」
 青い硝子に彼は語りかける。その時、異変は起きた。低く響く破壊の音。水槽が震えた。水の流れが変わる。
「先輩、浸水だっ」床下から水が溢れてくる。
「先輩っ」
「僕はここに残る。彼女と、水族館と、一緒に……」
 地盤沈下だ。浸水が確認されて、すぐにここは閉鎖になった。
 後輩は見た。
 水槽に唇をつけた男と、水に同化するほど青白い女性型の幻影(ウィスプ)が硝子越しに口吻を交わすのを。
 そして彼女の背後に浮かぶ、老若男女、数え切れないほどのウィスプの影を。
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