遠のくラベンダーの香り。
一緒に過ごした高校生活。
少しずつ忘れ行く思い出。
二時限目の数学の授業の最中、さっきまで僕の隣に座っていたはずの君はいつの間にか消えていた。机の上の教科書もなくて、無人の席がそこにあった。まるで最初から何もなかったかのように。
僕は声も上げられずに、空席を見つめていた。教師がそれに気付いたが、寝ぼけているなと叱られた。教師の言葉とクラスメイトの笑い声で、僕以外の人間が異変に気付いていないことを知った。彼らにとってそれは異変ではなかったから。
最初から僕の隣は空席だった。僕が君だと思っている人間を、他の誰もが覚えていない。彼らに言わせれば、そんな生徒は知らないという。仲良くしていた女子のグループですら、首を傾げて僕の主張を否定するのだ。
けれど、確かに僕は君と逢っている。二年の二学期から席が隣同士になって、一度……そうだ、君から消しゴムを借りている。白い縞の入った薄紫色の消しゴム。それを僕は自分の筆箱の中に見つけた。丸一日貸してあげると言われ、結局返さずに終わっていた。君が存在していたという唯一の証拠だ。
僕は消しゴムを肌身離さず持っていた。君という存在を忘れずにいるために。
願いが叶ったのは、君が消えてから三か月後。秋が深まる駅前で起こった。私電の改札から自転車を停めている駐輪場に歩き出した僕は、ふわりとラベンダーの香りを感じた。立ち止まって辺りを見回したが、何処にもラベンダーなど咲いていない。ふと気になって、筆箱にしまった消しゴムを出して嗅いでみた。この匂いだ。今し方、嗅いだ匂い……。
その時、僕の意識は蕩け出した。周りの景色が線状に過ぎ去って行く。何倍ものスピードで早送りしたかのようだ。その隙間を縫うように、こちらへ歩いてくる君を見つけた。君は目の前に立ち、滑らかな掌で僕の頬に触れる。
(必ず追いついて。待ってるから)
頬を離れた君の掌は僅かに揺れて、徐々に加速が治まっていく景色の隙間に埋もれていった。
それ以後、君とは会えていない。僕は卒業後、同級生と結婚して、久しく君のことを忘れてしまっていた。消しゴムも失くしてしまった。
君は、本当に存在したのだろうか。不可視の速度で今も君は街を駆けているのだろうか。
遠のくラベンダーの香り。
一緒に過ごした高校生活。
少しずつ忘れ行く思い出。
君は時を駆けていく少女。
やがて少女は時の彼方に。
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