手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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《短編》第83期感想

※ネタバレを大いに含みますので、まずはTOPから。
tanpen.jp/
長いタイトル、作者名は省略します。

※感想を書くにあたり。
基本、いい部分と気になった部分を適当に書き並べます。
もし読解が間違っていると判断された場合、どうぞご指摘ください。
なお、これはあくまで感想であり、個人の価値観と偏見によるものです。
お気に障られた場合は、どうぞスルーしてください。

今回も逆順で書いていきます。
26:その信仰は崩れない
tanpen.jp/83/26.html
『スパイキッズ』を思い出した。――違うか。
ここでいきなり自作の話になるけども、かつて自分は『ハッタリ・クエスト』というRPGを内側から描いた短編を書いたことがある。もしくは、『ドグマ・ドラマ』という千文字を書いたこともあり、こちらはRPGの代わりに探偵小説をモチーフとしているが、構成としては変わらない。そのどちらも現実が非現実に敗北する終わり方をする。
つまり、自分が同じネタで書くと、非現実主義で留まってしまうということだ。
その点、この作品はゲーム内世界と非現実を対比しながらも、最後の最後で重ね合わせている。
今でこそ小説のガジェットとしてヴァーチャル・リアリティは過去の産物となっている気配がある。現実がヴァーチャルでないという結論は永遠に出ないだろうし、それは机上の空論の域を脱しない訳だ。ヴァーチャル・リアリティは存在自体がメタ構造であるから、小説に用いるには可能性の幅も狭くなる(何でもあり、になるとは思うが、すべては定型に留まる。その場合、取り入れ方、他のアイディアとの連携に評価が向けられる。構造自体の評価は得られない)。
現実がゲーム内世界と何ら変わらないという点は、大して奇抜なアイディアではない。むしろ、作中で小説内世界がゲーム内世界であると明かされた時点で、オチはいくつかに絞られる。
1.実際にゲーム内世界である。
メタ構造弱⇒ゲームが終了する(世界が消える)。
メタ構造強⇒ゲーム外世界が登場する。
2.ゲーム内世界ではない(司祭の狂言である)。
メタ構造弱⇒ ◎
メタ構造強⇒と見せかけて、ゲーム(またはその他の創作物)である。
大きく分けたうち、◎が本作の位置。つまり、メタ構造の外側にも内側にも解決を出していないバージョンと考えられる。一番無難なパターンともいえるが、その未解決な部分を、メタ構造の外側の外側である現実世界(読者)と重ね合わせているわけだから、方法としては効果的だと思う。なおかつ、この物語は引きこもりがヴァーチャルのより深い部分に堕落する瞬間を描いてもいる。そういう意味では、テーマとしてもしっかりしていて評価に値する。だが、問題はひとつの物語としての魅力がないということだ。剣や、邪教の司祭、魔術師、などの単語だけでは舞台づくりに弱い。ファンタジーとして味気がないのだ。もう少し綿密な作品設定が欲しかった。あと、"宗教"あるいは"信仰"も用いやすいガジェット。そこからして説得力がない。

25:師の教え
tanpen.jp/83/25.html
『その信仰は崩れない』と似ている。――違うか。
世の中には夢オチであるというだけで、嘲笑する価値観の薄っぺらい人間がいるが、自分は夢オチ擁護派である。
ここでまた、自作の話をする。拙作『朔の囃子』という短編と『夢で逢えたら』という千文字小説で夢オチを使っている。前者は、初夢と、後者は多重の夢オチ・予知夢・夢魔をテーマにしている。自分の中で夢オチのスタンダードとして書いた。それ以来、夢オチは使っていない。
さて、『師の教え』の感想に戻ると、これは夢オチの悪い部分が露見してしまっていると思う。というのも、夢そのものが単なる「機械仕掛けの神」でしかない。タイトルの『師の教え』が何なのかがラストで明かされる訳だが、最早前半はミスリーディングでもなんでもない。夢オチは都合のよさをどう利用するか、その後の真なるオチにどう影響させるかが大事。夢と現実の落差を大きくしてもいい。
師匠と弟子の関係は微笑ましいが、作品そのものは笑えない。

24:飼育の関係
tanpen.jp/83/24.html
まず雰囲気は好き。スチームパンク風だとも思ったが、どちらかというと近未来都市の裏路地のような雰囲気。近代文学をまねた書き方も功を奏している。
(だが、チュウブはチユウブまたはチウブとした方がいいのではないのか。シャンデリアがわざわざシアンデリアとしてあるのだから勿体無い。もっとも、シアンデリア自体、発音的にシヤンデリアにすべきだとは思うが)
ストーリーを眺めると、退廃した世の中で生きる孤児の心を巧く描いていると思う。猫に与えた情けに似た優しさにより、生きる術を見つけた少女。その姿を通して、少女の孤独と愛情への飢えが痛烈に表現されている。ラスト一文での反転が、より一層、作品世界の冷淡さを際立たせている。
だが、書かなければならないのは、少女が懇願した後の、麺麭屋の返事ではないだろうか。そこが割愛されているからか、猫の気まぐれさと、少女の悲哀のみが浮き彫りになって、物語が尻切れトンボになっている気がする。断るにしろ受け入れるにしろ、青年は作品内世界の偶像でもある訳だから、そこを読者の想像に任せては意味がない気がする。

23:夏の鐘
tanpen.jp/83/23.html
この作者の作品は、アイディアそのもので心をくすぐってくれる。
春夏秋冬という感覚的なものを、"鐘"や"ピストル"というモチーフに置き換えることによって、属性として機能させている。そこまではいいのだけれども、ただ今回は少し流れに粗が目立つ。
"銀行強盗"という言葉が共通認識されていない世界で、"自殺"が如何なる意味を持つのかが不明。"自殺にも使えるんじゃないかな?"ということは、少なからず自殺に対する"僕"の認識は、読者と同じ。でもそうすると、"僕"の自殺が唐突なもので、あくまで衝動的な自殺に思えてしまう。また、"僕の中にいっぱい、夏があふれ出した。"というラストも、直接死を描いているのか、作中での"死"がそういう形なのか、分からないまま終わってしまう。
"不安になったんだ。秋の軽さが"で、"僕"の心情をすべて説明するのは言葉足らずだし、それを引き起こす、"一瞬だけ、世界が自分のものになったような気がする"というイメージも軽さや重さでは説明しきれない。
"鐘"と"ピストル"という二つのモチーフを並列的に語ったことで、それぞれの効果が打ち消しあってしまっていると思う。
大事な部分がぼかされているまま、登場人物の行為と心情、世界観が突っ切ってしまうので、それこそ作中の"秋"のように、"どこか捉えどころがない"作品となってしまった。『境界の言葉』では、その辺がスマートだっただけに惜しい。

22:箱庭
tanpen.jp/83/22.html
じわじわと主人公を取り巻く不気味さが、読者をも飲み込んでいく流れと、ラストで主人公がそれらもろともぶん投げる構成はよく考えられている。
箱庭、人形というモチーフも、いわば現実の相似形であり、それが徐々に狂気へと導いてくのは怪談の定番だし、けども、先の夢オチのように使い方によっては新鮮に感じる。しかし、この作品の場合は収まるべきところに収まったという感じで、どうせなら箱庭のその先の恐怖を描いて欲しかったようにも思う。
"だから君が一番愛しい"の"だから"の部分で、端から狂気は主人公にあったのだと思えるし、それを表現するのであれば、もっと巧く切り返せるでしょう。狂気の貫き方が甘い。語りが大事なはずなのに、描写が冗長だというところも、マイナス。
好みの題材だけに、小手先の怪奇に落ち着くという中途半端さが嫌だ。
ところで、"五十"と"五〇"の違いって何だろう。

21:イゾルデ
tanpen.jp/83/21.html
これはいい。アンチケータイ小説ともいうべき、あるいは裏『魔女の宅急便』(?)ともいうべき物語。何より語りが秀逸。
苦言を呈せば、タントリスと出会って以降、語りの力が弱まっているし、"竜を退治"という風に御伽噺に着地する必要はなかった気がする。そこで一気にチープさが際立ってしまっている。まあ、トリスタン、イゾルデという下地があるのだから仕方がないか。というか、これは二次創作ではないのかな? ……まあ、いいか。ちなみに映画版『トリスタンとイゾルデ』の主演は、『スパイダーマン』のハリー・オズボーン役の役者だった。ジェームズ・フランコ。他ではあんまり見かけないけど、なんか好き。あのいつでも苦虫噛み潰したような顔。
閑話休題、充分投票の価値はある。

19:恋心談義
tanpen.jp/83/19.html
なるほどね。いや、会話している片方の好きな相手がもう片方だというのは、序盤ですぐに気がつく訳で、その二人の実際の関係に期待していたけれど、特に何事もなく終わってしまった感じがする。
二人が二重人格とか少しばかしの捻りがあったら、それはそれで許容範囲だなと思っていたけれども、そうでもない。
男が男を好きになるということに対して、特別な言及があるわけでもない。
告白された方は、驚きながらもそれを受け入れているわけだし、まあ元から両想いだったってことも会話の中から感じ取ることもできるし、いいのだけれども、読者としてはその最後の驚きを共有できなかった時点で、この作品の評価が出来ない仕組みになっている。序盤~中盤の恋心談義に共感できればいいじゃないかという話にもなるけれど、わざわざ物語にするほど読む価値のある談義ではなかった。共有できなかった場合の予防線を張らずに、一発ネタで作るには、あまりに手垢のついた物語だと思う。奇をてらう必要はないけども、もう少し話を綿密に作って、読者の目を引くような別の視点から恋心を切り込められれば、"恋心談義"として充分評価できたのに。

18:午後五時四十五分の悲鳴
tanpen.jp/83/18.html
これも、いい。
何作かぶりに、この作者独特の語りがぴしっと作品に嵌った好例だと思う。
"知悉"という言葉は、なんでもない言葉(日常で使うことはまずないけども)だが、男の純粋な気持ちも含んで、この作品ならではの"知悉"が成立している。
"黄菜子も男の部屋に付いて行った。"という殺伐とした結びも、無味乾燥だからこそ、逆に微笑ましく感じる。
タイトルの"悲鳴"というのが気に食わないが、それはそれとして、投票候補。

17:赤い糸
tanpen.jp/83/17.html
奇麗事だなと思う。この作者が男性か女性かはわからないけれども、美化しすぎているように思う。
導入の車内の描写等もよく出来ているし、適確な筆の運びで文句はないけれど、やはり結びが気にかかる。"かき消えてしまった"というのが"私"の本音だったり、自分を騙まし込んでいるだけだとしても、"色めいたこと"を期待するのはほぼ当然のことで、それに対する"音絵ちゃん"の心情が見えなければ、自己完結で終わってしまう。
物語の中で"音絵ちゃん"の内面部分をもっと深く抉って欲しかった。
ちなみに、仙台は近場なので牛タン弁当も数回買ったことがある。
最初に出逢ったときは革命的だったなあ。

16:コント「ブランコと僕」
tanpen.jp/83/16.html
芸能人の名前を効果的に使った小説は、松尾スズキの『同姓同名小説』が有名だけど、津原泰水フリークとしては『聖戦の記録』という短編が忘れられない。固有名詞はそれだけ力を持つということだ。
この作品でも同じことが言える。登場するのは苗字だけだが、浜田、松本、東野、板尾と四人集まれば、往年のごっつええ感じを思い出さずにはいられない。すると、今田や蔵野はいないのかと疑問になるし、ああ、"僕"が今田か蔵野のどちらかなのだなと納得する。ただ、それだけ。
著名な固有名詞が力を持つというのは、簡単にいえば、それに付随するイメージが作用を及ぼすということで、それは当たり障りのない苗字よりも、イメージ喚起力を補助する働きを見せる。たとえば、この作品の内容を実在の四人で想像すると、いまいちありえない光景になる。
タイトルに"コント"と題されている時点で、作者が意図的に四人の姿をイメージせよと伝えているのは明白。そのイメージと物語のギャップが効果的に表現されればいいのだけど、そうでもない。というのも、ギャップというのは、諸刃の剣で、度が過ぎれば不快感も掻き立てる。
この作品はその典型。生々しさが嫌悪感しか生み出せないから困ったもの。それが作者の狙いかもしれないが、お笑い好きであればあるほど、苦笑しか出てこない。どうせなら女性芸能人の苗字を用いれば楽しめたかもしれないのに。

15:ふえるワカメ
tanpen.jp/83/15.html
"ある対象が感覚を通して浮かんでくるとき、乾燥したワカメが膨張するような状況がそこにあらわれる。つまりは《ふえるワカメ》ということだろう。"
なかなか面白い、大前提。
でも、"ふえる"と定義しているのは語り手本人なのだから、"ふやす"との違いを論述しても、意味はない。
こういった思索そのものが物語化していくのはいいんだけれど、いまいち好きではないんです。やはり書き手としては思索を物語にするのではなく、物語に思索を組み込むことが必要だと思うから。
というのは、作中の登場人物に感情移入することもなく、物語にとって共感とは必要のない要素であると思っている筆者ならではの価値観だろうけど。
その思索がスライドしていって最後に別な場所に落ち着くというのは面白い。でも、物語として楽しめるかどうかは別の話。筆者の中では、この作品の立ち位置はエッセイと変わらない。あくまで、好みの問題なのであしからず。

14:超宇宙戦機ボルティック・ドライオン
tanpen.jp/83/14.html
なんともいえない。こちらはアンチウルトラマンといったところか。ある意味では、松本人志監督作品『大日本人』と近しいところがある。でもやっぱり突き抜けてない。
"だが、死に損ねた私に対し全ては残酷なままだった。"がラストに繋がる訳だろうが、どこもかしこも全部受動的なんですね。主人公の意思が定まってない。導入まではそれでいいのだけれど、最後までその調子ではねえ。ばかばかしさが面白さに繋がらないのであれば、単にばかばかしい作品で終わってしまう。タイトルもこけおどしだなあ。固有名詞で楽しませてくれれば、何かが変わったかもしれない。
『宇宙平和かっこわらいかっことじ』を、『宇宙平和かっこわらいかっことじ』(笑)とする気力もなくなる。

13:夏の魔物。
tanpen.jp/83/13.html
どう言っていいばいいのやら。これがもし小説のつもりで書いたのだとしたら、小学校から始めたほうがいいと思う。以上。
で済ませるのはあまりに酷なので、とりあえず思うところを。
三点リーダは二つが原則。なおかつ、… ←きちんとこれを使いましょう。
おやつにデザートとか、コンビニのだけどとかの注釈もだめ。日記を書くならブログで書きましょう。
。は統一しましょう。
それから母親を永遠だなんて思っている時点で、作者の年齢が分かる。
この作品の教訓は、『夏休みは計画的に。』ではなくて、『親孝行したいときには親はなし』だと思いますが?
というか、自分は端から夏休みの宿題は新学期始まってから終わらせる性質だったので、先生に謝るとかそんな高尚なことはできません。夏休みの宿題ねえ、……懐かしい。

12:エゴいスタア
tanpen.jp/83/12.html
作品の感想(特に『短編』での感想)を書くときは、何かしら作者にメリットがあるような感想を書きたいと思っている。自分自身、まったく作品に関係のない感想を書かれることほど、腹の立つものはないし、それが感想だと言い張るのであれば、乏しい感性に同情するしかない。また、面白いだとか、つまらないだとか、一言の感想よりは、具体的に至らない部分を挙げてもらったほうが次に繋がるし、それでこそわざわざ掲示板に投稿するほどの感想と成り得ると思う。
でも、中にはどうしても評価のできない作品が出てくるのは避けられないことで、どれだけ熟読しても内容が理解できない、作者の意図が理解できないものには、感想も書けない。理解しようと努めたというのは、感想を書く側の驕りでしかないし、こうやって書くこと自体、無意味な言い訳に過ぎないと思う。でも、この一連の感想と区別するのはスタンスとして気に食わない。
が、自分にも許容量というものがある。すべての作品に対して何かしらの感想を持ちえることは不可能だ。
ということで、この作品は評価できない。理解しようという気もない。

11:確変男になりたいよう
tanpen.jp/83/11.html
困った。感想が書きづらい作品が続いている。こういう場合は結構ある。このチェーンリアクションは『短編』のひとつの謎だ。
パチンコはやったことがないので、作中の状況がどんなものか分からない。そもそも確変自体、どういったものか分からない。確変という言葉自体、一発で変換できないのだから困ったものだ。それは自分のPCのせいか。面目ない。
とりあえず、就活がんばってください。パチンコは控えめにしてください。

10:夏の続き
tanpen.jp/83/10.html
ようやくガス抜き。まともに感想が書ける。
人の死というのはいろいろな形で周囲の人の心に傷を残す。そういった意味で、タイトルの『夏の続き』は凡庸だけど、秀逸だとも思える。
作中で描かれる心情は、彼らが学生だからに他ならないもので、正直同級生の死の受け止め方には首を傾げてしまう。でも、いざ自分がそうなった場合、同じ感情を抱かないかというと自信がない。それを巧く表現してくれているのは、"マスコミに囲まれた容疑者の気持ちがわかるような気がした。"の一文である。つまり何かに映しこんだ時に初めて、その感情が浮かび上がってくる。ここでいう、登場人物と読者の関係は、容疑者と登場人物の関係と同じ。
そんな複雑な感情を、"気まずそう"だとか"とぼとぼ"という形容詞で表すのは、陳腐だと思う。また別な表現で、間接的に読者に伝えてくれた方が、効果は増すのではないかと思った。

9:ラストシーンはせつなくて
tanpen.jp/83/9.html
今期はメタ物が多すぎる。
作中人物がメタ構造を理解している作品といえば、いの一番に瀬名秀明の『八月の博物館』が思い浮かぶ。夏が来ると読み返したくなる。あとは、筒井康隆の『虚人たち』に積木鏡介の『歪んだ創世記』……。といってる自分もメタフィクション好きだ。
本作でのアプローチは、『八月の博物館』のそれと似ている。
ただ、本作の場合は身も蓋もない使い方をしている。作者を登場させては意味がない。それは長編のあとがきでやるようなもの。むしろ、作中人物の男がその作者であったんなら、赤松秀昭『ある日突然』(のあくまで劣化版だろうが)に近しいメタフィクションのスタンダードにでもなったものの、そういう訳でもない。
"二人が喋っているかぎりこの物語は永遠に続いてしまう……二人では終わらせることはできない"という箇所を読んで、不覚にも井上雅彦『よけいなものが』の男女を思い出したのだが、作者は意図的に書いたのだろうか。
"そして会話は終わり"が"二人は永遠に眠り"に変更されているのが、作者の優しさ、というか気遣いが感じられる。でも、それだけの話。

8:ベイビィポータブルボム
tanpen.jp/83/8.html
話の作り方が隅から隅までライトノベルだ。でも、補修組と野球部の戦争というのは面白いかもしれない。前例はありそうだけど。『図書館戦争』とかに近いのか。違うか。『昭和歌謡大全集』を思い出したけど。違うか。
文章の運びは巧いけど、こういったアクションものは苦手なのかもしれない。臨場感が出ていない。
話の構成もまとまっているし、作品としての面白さもきっちり伝わってくる。色々、気にかかる部分はあるけれども、水準は超えているんじゃないでしょうか。

7:nikki
tanpen.jp/83/7.html
マイスター・ホラってなんだっけと思って、調べたら『モモ』だった。懐かしい。ミヒャエル・エンデなんてもう十年以上読んでない。
それはいいとして、この作品のような女性だから書ける文体っていうのは密かに憧れている。男には書けない。自分には書けない。書けたらどれだけ創作の幅が広がることか。
それはいいとして、『nikki』という題からして、内容は理解できるし、曇り空も相俟って、主人公の心情もすんなり理解できる。色々なしがらみを曇り空に重ね合わせるというのは、よくあることだし、作品としても目新しいものはない。
ところどころで強調するために連続している単語は、無駄な手法だと思うし、自問自答やいかにも疲れてます感が漂う独白もただの自己陶酔だったり現実逃避にしか思えないから、読んでメリットになるものもない。ただ、題が『nikki』ということで、これがあくまで日記でありながら日記でないポジションにあることを踏まえると、それもひとつの表現技法なのかと思う。
それもきっと作者は意図していないことだろうけども、自然と出てきたかに思える文章だって、そういう意味では効果的ではないかと思う。当然のことだろうけど、最後の"くもり。"がいい味でてる。

6:ケイ
tanpen.jp/83/6.html
読んでるこっちが恥ずかしくなる。でも、ここまでストレートにラブストーリーを書かれてしまうと、逆に新鮮だ。
こういったロマンチズムは小説だから生み出せる。小説は現実を違った形で映し出せる魔法の鏡であるから、こういった作品が出てくること自体は何ら不思議でもないし、今もケータイ小説にはごまんとあるだろう。
自分はそういう話が嫌いだから、ケータイ小説なんて馬鹿にしているけど、こういう場でこうもストレートな作品を目にすると、技巧だとか表現だとか、小説に対してひねくれていた自分が恥ずかしく思える。
この作品もまったく技巧を見せていないわけではなくて、小箱だとか冒頭の数行だとか、構成は考えられている。
歯の浮くような台詞で主人公は語りすぎていて、もう少し現実に足が着いた書き方をすれば、ずいぶんとハードルは低くなると思うが、この場合、歯が浮きすぎてもいいのかもしれないと思う。だって、これは小説だから。
っていうセンチメンタル。

5:バイクで走る
tanpen.jp/83/5.html
なんでか知らないが、バイク特有の疾走感が出ているように思えた。話が駆け足だからだろうか。
結局、人の生き方はそれぞれ違って、ともすれば、それを見守る他者の視点も違うということになる。
女性に対する主人公の視点がそれ。
この作品は色々なことに対して、語るのが不足している。それこそバイクで疾走するように目の前を通り過ぎていく。もう少し、緩急を整えて、細部に目を凝らしたほうが良かったかも。
でも、女性の使い方は今のが一番いい状態だと思う。女性についてはあまり語らない方がいい。

4:映画
tanpen.jp/83/4.html
拙作『ニューシネマ・パラダイム』は評判が悪かったな。自分の中ではお気に入りだったんだけどな。身内も首を傾げていた。そういうものか。
この作品はいらない描写が多い。で、大事な説明が足りない。ロボットで撮る映画というのは面白いのだけど、語り手の位置だとか状況は、書かなきゃ分からない。冒頭では観客がいるのに、中盤ではロボットが演技している最中になっている。時間の経過が分からない。
オチも、ちょっと良く分からない。

3:私の好きなもの
tanpen.jp/83/3.html
詩、ということでいいんでしょうか。散文傾向とか、文章配置の無駄な工夫とか。
というか、ひとつ疑問がありまして、これを疑問に思うのは実際に視力が弱い人とか盲目の人に失礼に値するかもしれないのだけど、生まれつき盲目なのであれば、物の色って把握できないんじゃないか。かつ、それを"好き"と表現するのは違うんではないか。あくまでそれは憧れであって。
周囲から伝聞として聞いたことを言っているのか。にしても、"生まれつき盲目"であるという設定を、考えていない書き方のように思える。

2:ボクカノ
tanpen.jp/83/2.html
この作者にはこういう話が多い。
彼女の正体はいいんだけど、それ以前の猫と思しきミスリードは必要ないと思う。"変態コスプレ"に繋げるんであれば、セーラー服でもナースでもなんでもいいんじゃないのか。というか、冒頭の一文は親切すぎる。すぐにどんな話か想像がつく。
前回の『あたしジャスティス』はキャラクターが面白かっただけに、今回は物足りない。
ところで、"お前みたいな豚がいるから"っていう文なんだけど、いい加減"豚"を悪くいうのはやめて欲しい。奴隷よりも家畜が偉いというのは不謹慎だけど、馬鹿もそうだけど、悪い言葉に動物とか生物の意味を添えるのは、嫌だ。まだ馬鹿は発音があるからだとしても、豚は何の脈絡もない。この一文を観ただけで、気分が悪い。金髪豚野郎? もってのほかじゃい。
いや、特別豚に愛着があるわけじゃないんですけどね。

1:悩ましき大問題
tanpen.jp/83/1.html
衣替えって、6月1日に一斉に実施されるんですよね、基本。ということは、恥ずかしがる以前に、みんな夏服に移行しているわけで、それが悩ましき大問題だということは、どれだけ自意識過剰なんですかと思われても仕方ないかも。
たとえばこれが眼鏡をかけるだとか髪をきるだとかなら分かるけど、衣替えはイメチェンのなかに入るわけでもないし、そもそも夏服はみんなばらばらだっていう時点で、ついていけてない。今はそういう高校ばっかりなのかなあ。
普通だったらほのぼのとするラストだけど、この作品の場合は白けて読んでしまう。
文章表現どうのこうのじゃないからなあ、この問題は。これこそが悩ましき大問題です。
[追記]
どうやら、衣替えそのものの認識に差異があったよう。自分の故郷(東北のとある市)では中学から高校まで、果ては勤務先まで、6月1日になったら一斉に衣替えをします。自分がいた高校は校則なんてあってないような高校だったので、衣替え自体が不明確でしたが。つまり、僕の周囲では6月1日になったら衣替えをして当然だという認識でいたのです。だから、"浮いちゃうんじゃないか"っていう不安が理解できなかったのです。県民性というのもありますが、そこは自分の理解が足りなかったと思います。ただそこが根幹になっている作品ですので、僕にはついていけなかったということです。

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