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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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俺、完全復活! 映画『ヒーローショー』

近頃の俺はといえば、もう過去最大級の鬱に襲われてもうほんとに死ぬことしか考えておりませんでしたよ。
自殺するにはこうしてああして、で、家族はこんな風に見つけて、職場にこう連絡がいって、などと妄想膨らまして、いやはや今の俺は世界一自殺をする人間の気持ちが分かる男です!パッパヤ!

で、そんな極限状態からこのたびちょっと回復いたしまして、なんというかまたいつあの鬱が甦ってくるか怖ろしいところではあるのですが、とりあえず回復へと至るきっかけでもある映画『ヒーローショー』について語りたいと思います。

『ヒーローショー』が自殺から救ったというと、人生賛歌の映画なのかと思われるかもしれませんが、特段そこに密接な関わりはなくてですね、あくまで
あわわんッ、お、お、面白かった!
というテンションの賜物でございますゆえ、ご了承ください。


なお、ここ最近お世話になっております鑑賞メーターからの転記が主となっており、乱文が過ぎたものをちょっと(大幅に)加筆、纏め直した具合です。


ではでは、
映画『ヒーローショー』

普通の若者たちが思いも寄らない事件に巻き込まれ暴走していく姿を、限界を越えたリアルな暴力シーンを交えて描く青春ストーリー。監督は、「パッチギ!」 の井筒和幸。主演は、本作が映画初出演となるジャルジャルの福徳秀介と後藤淳平。共演は、「かぞくのひけつ」のちすん。第2回沖縄国際映画祭正式出品作品。

芸人を目指すユウキ(福徳秀介)はオーディションで失敗し、バイトもクビになってしまう。暗い気分で歩いていたところ、先輩で元相方の剛志(桜木涼介)と出会う。剛志はユウキに新しいバイトを紹介する。翌日ユウキは、紹介されたバイト先である住宅展示場の中で行われる『電流戦士ギガチェンジャーショー』の会場に向かう。剛志が演じる怪人バクゲルグが司会の美由紀(石井あみ)に襲いかかると、5人のギガチェンジャーが現われるというお決まりのショーで、ユウキは悪の手下の1人として参加することになる。剛志は悪役の方が子供のウケがいいとうそぶくが、ギガレッドを演じる俳優志望のノボル(永田彬)とギガブルーのツトム(米原幸佑)は剛志をバカにしている。ある日、剛志の恋人である美由紀をノボルが寝取ったことが発覚する。剛志とノボルは、ショーの最中に大乱闘を繰り広げる。怒りの収まらない剛志は、サーフショップの鬼丸(阿部亮平)を訪ね、ノボルたちを締めてほしいと頼む。鬼丸は金を強請ろうと、大学に乗りこんでノボルとツトムを痛めつける。観念したノボルたちは、金を借りるためにツトムの兄・拓也(林剛史)のところに行く。渋谷で出会い系サイトを運営している拓也は、剛志たちを返り討ちにしてやろうと、自衛隊時代の友人・勇気(後藤淳平)に相談を持ち掛ける。勇気は今は配管工をしているが、年上の恋人あさみ(ちすん)とレストランを出すため、調理師免許を取ろうと考えている。かつてその凶暴性で評判だった勇気は、拓也の頼みを引き受ける。金を受け取るために勝浦に来た鬼丸たちは、勇気たちの壮絶なリンチに遭う。さらに暴力はエスカレートし、ついに殺人が起きてしまう。(goo映画より引用)
 

正直、井筒作品ってあんまり馴染みが無くて、まあ暴力だとかアクションだとかその反面、ほどよくリアリティに即した青春エッセンスを用いて、どこか古めかしい映画ぐらいにしか思っていなかったんですよ。
そもそもこの映画自体、期待していたかというとそうでもない。確かに評判は聞いていましたけど、主役の二人がいまを代表する若手芸人ということも加わって、ちょっと斜に構えて観始めました。

その結果、観終わって感じたのはこう。

脚本は論理で築かなければならない。だが演出は、映画そのものは、感性で描かれるものなんだなあと感慨ひと しきり。観始めた冒頭から鼻に付く確信犯的薄ら寒さ、何が楽しくて撮ってんだよと辟易。しかし、観終わって脱力。面白かった。演技、演出、シナリオのうね り、歪みに途轍もないエンタメ性を感じた。リアリティがあるかないかでいえば、ない。これがリアリティだとするならまだ現実は恵まれた方だ。ただ、現代の 縮図としてパロディとして、青春ドラマの轍をなぞりつつ映画としてすべきことを体現している。ただ面白かった。気持ちが歪んだ。

褒めすぎです。はい。
気持ちが歪んだってね、なんのこっちゃって感じですがね。
でも本当に面白かったんです。いや、面白かったというか、愉しめたという方が適切かもしれない。


じゃあ細かいところを見て行きましょう。
まず観始めてすぐはやっぱり俺この人の作品合わない、っていうかジャルジャル好きじゃないわーと思いましたね。冒頭、オーディション会場で漫才を演じるユウキのシーンから始まるわけですが、はっきり言って全くこの漫才が面白くないんですよ。その癖、観客も審査員もすごいリラックスして笑ってるわけ。
え、ハードル低……。
映像作品に埋め込まれた漫才って(他にあんまり思い浮かばないんですけど)面白いと思った試しがなくて、どこか嘘臭い、その面白さ自体がフィクショナルな気がしてしまって笑えない、笑おうとも思えないってのがあると思うんですね。漫才とかコントを見るときってやっぱりどこか無意識に笑おうっていう気になっているのかもしれません。
ま、それはいいとして、この冒頭のシーンも、いや、故意につまらなく描いている、というかつまらなくなければ話が続いていかないわけですけど、にしては、作品内の観客とこちらの温度差がはっきりしてしまって、これでいいのか、こんな感じに続いていくのかと心配になりました。

で、このつまらなさってのはある意味、主人公ユウキの心情を隠匿するための巧みな布石で、二度目に見ると彼が芸人という職業に対して熱意を持っていないことが分かりすぎる。初見では単に才能の無いボンクラの立ち振る舞いにしか見えなかったものが、一通り映画を観終わったあとで確認するとこれほどユウキという存在のあやふやさを的確に描いているシーンはないわけで、感心した次第です。

とはいえ、感情移入を拒むほどに朧気に描かれるのはその後も続き、彼はなんというんでしょう、スーパーかなんかのバナナの詰め合わせ作業ですかね、よく分かりませんけど、まあ外人を多く雇っている下請け会社みたいな工場でバイトしていました。オーディションのその日ももちろんバイトの日だったわけですが、無断欠勤で上司から連絡が入ります。この上司というのが、本作で数少ないちっとは顔と名前が売れている俳優(光石研氏)だったりするのですが、ここら辺も人間性というのを極端に誇張されていて、観ているのも少し苦痛だったりします。このときのユウキの上司に対する返答がもうなんというか、やっぱりコイツ嫌いだよ、ってかこの映画ダメだよって思ったりするんですね。

で、いよいよヒーローショーのバイトへと至るのですが。
ここの描写はキャラクターの描き分けもあって、ちょっと楽しかった。学生風情の若者と副業でやってる禿親父、みたいにあからさまなキャスティングではあるわけですが、それでもシーン単独で面白い部分もあって、お、ちょっと良くなってきたかなと思いました。
で、あらすじにあるとおり、ヒーロー役の一人ノボルが悪役を演じている剛志の恋人美由紀と浮気することが事態の引き金になるのですが、ちょいとここら辺の描き方は後述。

ステージ上で殴り合いになって、双方とある兄弟を中心として諍いへと発展していきますが、この兄弟がなんとも曲者で、まずユウキ側の鬼丸兄弟は見るからにバーバリアン然とした、もうその威圧感だけでお腹いっぱいという野獣。見た瞬間に、こいつらに目つけられたら警察に相談するしかねえなオイというような、キャラ造形。
一方、敵対する方の拓也・ツトム兄弟は、弟がくだんのヒーローショーのメンツの一人で、顔は今風のイケメンながらゲーム厨でしかも下手糞というボンクラ、兄はマンションの一室で出会い系サイト(サクラ)を運営しているまさにゼロ年代の世渡り上手!というやり手実業家(なのか?)です。その語り口といい、うわぁコイツ嫌いやーでもなんかなんかちょっとほんのちょっとコイツの生き方憧れるかもッ、という成功者の貫禄丸出しで、この兄の画策が事態をどんどん悪化させていきます。
兄の昔の友人で、白羽の矢が立てられたのがジャルジャルのもう一人、勇気。まあ初めて画面に現れたときはバーバリアンに対抗できるようには思えない好青年で、ちょっと役不足かと思ってしまったりもするのですが、まあそこは大目に見ましょう。

さて、いよいよノボルをスケープゴートとして、鬼丸兄と剛志、ユウキの三人はワゴン車で脅した金を準備しているという拓也の指示どおり、勝浦に行くわけですが、それからの展開はまあそうなるよねと言ったところ。
エスカレートしていく暴力は去ることながら、鬼丸兄の頑丈さ、図に乗って美由紀のハメ撮り写真を見せびらかすノボルを剛史と一緒にトランクへ閉じ込めてしまうという勇気のカタギさ、そこら辺が見所かもしれません。
事態の収拾はつかないまま拓也の画策によってどんどん泥沼化していくわけですが、更に追い討ちをかけるのは急遽穴を掘るためにハローワーク経由で呼びつけたオヤジで、事の次第を掴んだこのオヤジがあろうことか金を脅迫してくるわけです。このように状況は逸れに逸れながら、目的は変わらずハードルだけが上がるという良きシナリオの典型ともいえる展開は、ご都合主義でもありながらよく出来ているともいえる。
ただここからジャルジャル(ユウキと勇気)を中心とした人間ドラマの様相へと変じていくのが欠点とは言えないながらもちょい退屈。

途中、拓也を中心としてこの事態を真摯に見ゆる視点は挿入されながらも、ユウキと勇気が巡るドラマはあさみとその子どもを交えた誘拐物であったりロードムービー調であったりといささか脇道に逸れすぎな気配は否めません。
無論、勇気とあさみのラブストーリーがヒーローショーという作品の本質をバックアップする推進力でもあるし、青春ドラマとしての重要な支柱であることは間違いないのですが、ユウキと勇気を再び犯行現場に導くきっかけとなったあの出来事以降、あまりにも反転が過ぎるというか、行動原理だけがあって、直前まで積算されたキャラの背景がまるで別物のようにさえ感じてしまう。つまりそもそもユウキが“信頼の出来ない語り手”であるからこそ余計に感情移入してしまうはずの勇気からも、共感する要素を奪ってしまうように感じられる。

この最後の土壇場が、二人をとある結末へと向かわせる臨界点なわけですが、その描き方もちょっと歪んでます。
本作の特色は、二人の主人公がいて、片や『冷たい熱帯魚』を髣髴とさせる非力であるがゆえに巻き込まれてしまう男と、片や力を持つからこそ望まずとも巻き込まれてしまうが宿命の男、この二人の対比にあります。
普通観客は前者により共感しやすいはずですが、前述しているとおり、ユウキはまったくそれを求めない描かれ方が為されている。
彼が、たとえば妹が自分の帰りを待っていると言えば、シナリオ上それは撤回されず、作中人物と同じように疑うことなく彼の言うことを信じてしまう。無論、彼が言う妹とは、パソコン上の2次元キャラでしかないのですが、もはや彼自身がそれを妹と信じて止まないからこそ、妹がいるという設定は生き続ける。また冒頭、彼の暮らすアパートに母親から仕送りが届くシーンがあります。このときの文面は終盤になってようやくカメラに映る。もちろん両親が実際に姿を現すのも最後の最後。
一方の勇気の母親、または心のよりどころであるあさみとの関係性などが序盤からしっかり描かれていることと比べれば、遥かにこの映画の主人公として共感を求められているのがユウキではなく勇気であることは自明でしょう。
何故そこまでユウキの心情を隠匿する必要があるのかといえば、まさしくラストシーンへと至る布石であり、漂流する魂をそのまま描いていることに他なりません。

印象的なのは、クレーン操縦のオヤジから金を脅された挙句、ユウキと勇気が消費者金融へ行くシーン。
ここで唐突にユウキの口から語られる、まさに取ってつけたような人物背景、人となりについては特段嘘でもなんでもない。とはいえこの空気の読めなさが彼は素直に物語っているにも係わらず素っ頓狂に映ってしまうという皮肉。次いで、窓口の女性社員にせがまれて、一人コント『フランダースの悪い犬』を演じてみせるわけですが、この痛々しさは言わずもがな。
ただ演じた直後、ウケていないと知るやユウキは豹変し、店を飛び出してしまいます。無論、その脳裡には殺人の光景が見えていると思われますが、演出上その刹那に一体何が起きたかは明かされません。
ところが終盤、前述の土壇場の際、彼は勇気に犯行現場に連れて行かれるのですが、このとき、なんとも意地の悪い手際でとあるシーンが断続的に挿入されます。
この土壇場、つまり勇気が犯行をさらに隠匿するため、地中に埋まっている死体をユウキに掘り返すように指示します。ところが挿入されるシーン、舞台は同じ犯行現場、且つユウキと勇気のとある行動を描いたシーンなんですが、明らかに現実ではありません。
追い込まれたユウキは屑折れて本心を打ち明けます。ユウキという存在が真に空虚な存在であったと明かされ、冒頭の漫才シーンでのつまらなさ、『フランダースの悪い犬』の痛々しさが結実するシーンです。
そこに挿入されるものはまさしく、追い込まれた際にユウキの脳裡に甦る映像であり、『フランダースの悪い犬』を演じた後、如何にして彼が狂気の沙汰へ至ったのかが分かる仕掛け、あのときも彼の脳裡にはこの挿入された一連のシークエンスが過ぎったのだと分かるのです。つまり本作は“信頼できない語り手”であるユウキの一人称によって描かれているのではないかと思わされ、漫才シーンで相方を務めた人物が以後、まったく登場しないこと、見ているこちらと温度差がくっきり分かれた観客と審査員の反応等を踏まえるに、冒頭の場面すら、芸人という道に仮初の幻想を見ることしか出来なかったユウキが、不意に思い描いたフラッシュバックではないかと勘繰ってしまったりもします。
閑話休題。
語り終えたユウキは、それまで一緒にいたはずの勇気の姿がないことに気がつき、取り残されていることに気がつきます。
一見、ユウキは独りごちて本心を明かしたように思えますが、少なからず勇気という聞き手がいたからこそ。しかし語り終えた後にその不在を確かめたユウキは、そこで初めて自分と向き合うことが出来た。勇気はユウキと対比される存在、鏡像としての存在でもあった。だからこそ繋がる部分もあった。けれども、鏡像に向かって発された言葉はその不在によって行き場を失い、ようやくユウキ自身、自分の発した言葉を自らの本心として受け入れられたのです。だからこそ彼は故郷に戻ろうという意志を得れた。

さて、一方の勇気もまた感化され、現実へと戻っていきます。
自分が置かれている状況、未来に何を託すか、母親の姿を見、アパートに戻ります。恋人あさみとの新天地として用意されたアパート。昨夜まで待っていたはずのあさみの姿はなく、書置きだけがありました。
本当に巧いなあと感心させられるのは、この書置きを映すか否かです。
ユウキのパートで母親からの仕送りに同封されていた手紙を映すのにも同様な手法を用いられていますが、こちらはより分かりやすく、ギミックとして活用されています。
というのも、あさみが不在であることそれ自体が勇気にとってある種の悲劇を予兆させるんですね。彼の戻った現実の悲惨さ、自分自身と向き合えたユウキのシーンが直前にあるからこそ、罪を背負った勇気の宿命を不安視してしまうのです。
勇気は一言返書を認めるのですが、この文面そのものを踏まえれば、その不安は杞憂であったと安心することは出来ますが、それでもあさみの姿が見えないこと、彼女の残した文面が明かされないことで不安は漣の如く穏やかながら未だ凪いでいないところがミソ。
そして現れる、あの男たち、鬼丸兄弟。
何故、事の発端となった勝浦の現場に弟がついてこなかったのか、初登場シーンから兄以上に異彩と威風を放っていたあの弟の不在は、端的に言えばシナリオ上の都合の良さなんですが、それでもアパートの玄関から顔を覗かせるあのショットでご都合主義も充分に覆されます。あれは本当に怖ろしい。けれども昂奮もするのです。ユウキや拓也たちが姑息な手段を使い、鬼丸兄を甚振った場面を歯痒い気持ちで見続けた結構があるからこそ、このリベンジマッチにどこかしら喜びを感じてしまう。この瞬間、観客すら際限ない暴力の共犯者になってしまったように思えます。
シーンは切り替わり、買い物袋をぶら下げたあさみがアパートに戻ってきます。
そこでようやく安心するわけですね。やっぱり不安は杞憂であった。二人の愛は確かなものだったと。下手に勘繰れば、勇気が殺人を犯したことを打ち明けた後ですから、何かしら気持ちの変遷があってもおかしくはないのに。彼女の姿が描かれるたったそれだけのシーンで、心が揺さぶられる。
ただし観客は鬼丸兄弟の来訪を知ってしまっている。この後、何が待っているか知ってしまっている。待ち構えている惨状を予期できるからこそ、一度は去った悲痛の漣が大海嘯となって観客の心に押し寄せてくるのです。
映画は元より小説や何やらでもそうですが、感情移入できないだとか、伏線が巧みだとか、そういう評価感想をしている人たちが増えてます。でもですね、そういう人たちが評価している他の映画より何より、本作のこの流れ、このシナリオと演出運び、これこそが本当の感情移入、本当の伏線というものの張り方でしょう。
それも本作は描かないということを伏線としているわけです。コンパクトながらまさに絶妙、目から鱗!
とはいえ、待っている惨状というのが蓋を開ければちょい拍子抜けは否めなくて、本当に気は晴れたのか鬼丸兄弟!とさらに要らぬ勘繰りをしてしまいます。
これだったら結局のところ、エスカレートする暴力というものを表現できていないわけじゃないですか。むしろ収束してしまっている。ちょっと惜しい気がします。

その流れを受けてラストシーン。
自己の本音を受け入れたユウキが故郷へ戻り、両親が営む鯛焼き&たこ焼き屋に現れます。
先ほど触れたユウキの幻視する癖は、このラストにおいてまた変化を見せます。
最後に彼は剛志の姿を見る。取ってつけたように明るい、剛志。
一見、命を軽視している描写に思われますが、これもあ くまでユウキの主観によるものです。且つ、この場面ではそれが錯覚であると彼自身に認識させている。犯行現場でのシーンからまた一歩、自覚に歩を進めたと感じ得るシーンです。
本作の根幹にあった、“信頼できない語り手”ユウキの一人称は、単に彼の人格・生き様の放浪とも見て取れます。結果のラストシーンに至っても、空を見上げる瞬間まで彼の魂は虚空を彷徨っており、どこにも着地しません。しかしそれは終盤までの放浪ではなく、成長の兆しを得ようとする力が漲ったシーン。
希望も絶望もなかった序盤から不意に絶望が表出する中盤を経て、さらに昇華していくのがこのラスト、黄昏の空なのでしょう。
ラジオから流れるピンクレディー『SOS』の効果は言わずもがな。ポジティブ且つアグレッシブな曲調に隠された僅かな不安と恐怖。
ユウキが故郷に戻り、希望を得るかと思われる場面でさえ、フィクショナルで端整な〆をも吹き飛ばす爆風のような爽快感、最近忘れていた鳥肌の感触を味わわせてくれました。
決して美談や一辺倒の成長物で終わらせない、人生の縮図がまさに投げかけられた最高のラストシーンです。


はてさて、まとめにかかります。
伏線の妙がそのままシナリオの巧みさとなるわけではなく、当初からも指摘しているとおり、本作は不愉快といってもいいほど歪んでいる箇所、至らない箇所があるわけです。
代表されるのが、事の発端、浮気に関する部分ですね。
もうこれが狂おしいほどに変!
浮気の事実が仄めかされるワゴン車のシーン。あんな狭い空間で、あんな示し合わせたようなことされちゃ誰だって気付くだろバカッ! なんだよそのアイコンタクトはッ!てなもんですよ。
そんで浮気された剛志はその後居酒屋で美由紀に連絡を図るんですね。おかしいなあなんつって。で、もちろんその直前にサービスショットがあるんで観客にはもう莫迦にしか見えない。
で、このサービスショットなんですが、もう近年稀に見るお莫迦な、中途半端なお医者さんごっこで、……まあ、いいですよ、裸見られるのはいいんですけど、正直ね、いらねえよ。
話逸れますが、俺はね、はっきり言って女性の裸大好物ですよ。悪いけど。そりゃ好きさ、男だもの。でもね、こういう映画とかに出てくる濡れ場って、好きじゃないんだ。だって邪魔なんだもん。もう俺みたいなドスケベは裸が出た時点で、悶々とするんだよアホタレ。ね、あんなさ、聴診器で乳首を……く、この、ボケナスッ! そういうのが欲しけりゃAV見るわ! 間に合ってますって話ですよ!!
勇気とあさみのキスシーンだってそうだよ。なんだよアレ。
長ぇッ!! ちゃっかり胸揉むなッ!! どんだけ貪るんじゃ、くそったれッッ!! 映画だからってやっていいことと悪いことがあるんでしょうがッッッ!
でもまあ、この映画にとってはね、必然性ってものがないわけではない。だからいいですよ。何の脈絡もなく出てくるより数百倍よろしいです。まあいきなりパンツを脱ぐとかね、二人の性生活がどんだけ奔放か見てとれるあたり失笑ですけどね。
はい。全然まとめになっておりませんが。

で、何の話だっけ。ああ、そう。
それでね、そもそも剛志って男が鈍感にも程があるんですよ。で、まあ、どんな形で浮気が発覚するのかなあと思えばね、シーン切り替わって、ノボルくん、ヒーローショーの舞台裏でこんなこと言います。
「あぁー、腰痛ぇーー」
腰に手当ててね、剛志の方見て。いやわざとなんですよ。浮気してますよポーズなんですよ。
でもさ、なんで?
なんで、そんなに剛志が気に食わないのか理由が分からん。
ただノボルくん、調子に乗ってるだけでしょうがね、だったら剛志はどんだけ莫迦なんだって話ですよ。お前、キャラ設定間違ってるだろって話。あとね、ノボルくん役の俳優なんですけど、全然イケメンじゃないんですよ。まあ女性視点で見るとイケメンなのかもしれない。でも、気持ち悪いんだなーあの鼻筋。明らかにドンファン役じゃないでしょ。

で、結局のところ、そんな風に序盤に特に顕著なんですが、何故そこまであからさまに事態は進行する必要があるのか。何故ここまで先を予測せずに行動するのか。行動原理に説得力がないんですよ。
まったく……お前ら、莫迦だろ。の一言で済んじゃうわけ。

でまあこれも一重にシナリオ自体の悪さというよりか、演出だったり演技だったりもするんですけどね、意図的だとしたらちょっとあざといかなあと。
演技といえばですね、主役のジャルジャル、本当にまあジャルジャルってお笑いコンビじゃなくて演劇集団でしょと言われても不思議でないくらいの出来で、確かに評判がいいのも肯ける。ユウキ役の方のヘタウマな感じは演出のせいだろうしね。むしろユウキというキャラクターには的確な判断だと、観終わった後は思えます。
ただしあの事情聴取というか検問? あのシーンは、ない。
あんなんで見逃すポリスメン、クビですよ。あさみさんも微笑ましい顔してますけど、ちょっと病院とか勧めてあげなさい。子ども近付かせたらダメ、あんなの。俺が警官だったら即逮捕ですね。それか射殺
とまあ、ユウキの無邪気さ・打算さ、勇気の逞しさ・脆さという互いに相反するものを孕んだキャラクターは素晴らしくよく出来ているんじゃないでしょうか。
鬼丸兄弟の兇暴性、拓也・ツトム兄弟が体現するボンボンとはまさにこれという身なり、ノボルくんの鼻筋(笑)、剛志の底抜けて憎めないキャラ、そしてあさみ役のちすんさん。いいですね、いや全然知らない女優さんでしたけど、いい。
この何ていうのか目の焦点の中心に来てやっとその良さが分かるような、感じ。うん、まあどういうこっちゃ分かりませんが。その真面目エロ大人しい感じ。いい。
で、他にもいい人いっぱいいるんですけど、もう最大のお気に入りはですね、勇気と拓也の昔馴染みで名前なんつーか忘れましたけど、なんとかっていうボーイがいて、まあコイツ、最後の最後でしょうもないオチを見せ付けてくれる彼なんですけど、コイツの登場シーン!
コイツがですね、女の子連れてくるんですよ。年下なんですかね、割と莫迦っぽくて心ここにない感じ、ただなんとなくついてきましたみたいな。
そんでね!! この女の子とね、コイツ!! ぶちゅうっってするんですよ!!
勇気と拓也の目の前で。ぶちゅうって。まあ勇気とあさみのべろべろに比べれば可愛いものなんですがね、この後のこのガールのなんちゅーか、ノロケばかカワユさ、といったらもう……
いる!! 見たことある!! なんか色々お世話になった覚えもある!!みたいなね。うわ~って思いましたよ。嫌だけどイイみたいな。
もうね、そんな女の子とぶちゅうなんてしてくれているコイツ死んじまえっなんて思っていたらね、まあああいうオチですからね。いい気味いい気味。

という風にですね、演者についてはどこからが役者の要領であり天性のものか、あるいは監督の演出なのか、見えないところが憎い。随所に見られるあざとさっていうのも、演出とかのって言うよりか、よくいるでしょ、こういう反応そのものがあざといバカタレども。
そういう実際に身近にいるあざとい衆に対して感じるものであって、嫌い!って思うのとか、好き!って思うのとかも、まさしく役・役者に向けてではなくひとりの人間としてそう思ってしまいましたね。素晴らしいです。


以上、まあ色々語ってきました。
はっきりいって疎かな部分は少なからずある。
シナリオ上の変な部分だったり、演出過剰、役不足、拾えば幾らでも見つかる。
ところがですね、最初の方に挙げた感想にも記しているとおり、映画のシナリオは論理で紡がれ、演出はやっぱり監督とか作り手の感性によるものが大きいなと思うんですね。
シナリオの至らぬ部分を演出が補完しながら、演出の過剰な部分も抜群なリーダビリティによってシナリオに埋め込んでしまう。この相互補完がくねくねくねくねと蛇行することで、歪みとなるわけですが、それも本作の場合は物語の加速度に追いやられ霧消してしまいます。

実在の事件を題材としていようが、これは映画。テーマの重みは、物語としての出来栄えの後についてきます。つまり往々にして、映画とは過程を如何に描くかにつきる。原因ではなく、過程を描き、そして結果を観客に与えることが映画の使命であり宿命です。
暴力や社会現象が主張するものは当事者で無い限りはいつでも結果であり、原因の大小に係わらぬものであります。だから実際、些細な原因で、とか、こんなしょうもないことで、というのはまるで意味のない説法であり、過剰ともいえる本作の導入部はそれを物語っているのではないでしょうか。
シナリオがそれを主張しようとも演出が食い止めている。だからこそ映画全体の歪みが一連の出来事のブサイクな様態を映し出し、『冷たい熱帯魚』同様、かくも現代の事件性はブサイクな社会性のうえに生まれることを表す。
その結果、物語性に歪みが生じれど、その歪みが才と技量を併せ持ったものであれば、殊更に素晴らしく心地がいい。だからこそ本作は面白い。よって、映画は感性で描かれるのだと思った次第です。


俺は本作で描かれるような暴力とは無縁の生活に身を置きながらも、本作の登場人物より遥かに劣った生気を感じることもままある。
何故、死を意識するような精神状態のなか本作を見ようと思ったのか、今では何とはなしにとしか表現し得ませんが、たとえ何が描かれようが、どんな精神状態だろうが、きちんとした熱意と工夫でもって拵えられた作品には心を動かされるのだと改めて感じました。
この鳥肌を感じたいがために、映画を観ているんだなあとも。
そして俺自身、拙いながらも創作者としての血を自覚する身としては、ふんどしを締め直されましたね。
映画小説媒体に係わらず、面白い作品は人を変え世を変える。それを体現するのが創作者の使命でもあるのでしょう。こういうご時世だから特に。
そしてそれは小説を書き始めた頃から変わらぬ俺の夢。

私的なことですが、このたびの鬱の原因のひとつは最近まったく筆が乗らなかったことでもありました。
けれども今日、久々に1000文字小説を3つほど書きました。ほんとうに久々の充実感です。
それもこの映画のお陰。
今まであんまり作品は好きじゃなかったけれど、人物としては嫌いではなかった井筒監督。
作品まで好きになってしまうのは正直心外だけど、本作『ヒーローショー』は好き。

俺が今後この映画を勧めるときは迷わず、こう切り出します。
「俺はこの映画に命を救われました!」

家族のお陰ではないのかって?
んー、まあ支えてはくれたけど、救われたっていうほどじゃ(笑)
いえいえ感謝しておりますよ。

作品としてもね、その数日前に観たギレルモ・デル・トロ監督作品の方が好き過ぎるんですけどね。でもまあ、いいんだよそんなこと!

とりあえず『ヒーローショー』は面白い!
俺は死ななくてよかった!! 
つまりそういうことです。以上!!! 
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