やってきました。
何か月かに一度、映画を語り出す僕の悪い癖が。
長文につき、理解を示せない方は見なくて結構です。
『パンズ・ラビリンス』
確かに傑作です。
童話の源はどれも残酷で、それをダークファンタジーに位置付けるとするならば、この作品もダークファンタジーかつ、れっきとした童話であることは言うまでもありません。
まず映像はとても綺麗でありながら、至るところで閉塞感が目立ち、舞台や人物の緊迫した表情が全編に渡り、強調されていたと思います。
この手の作品は、光と闇の対称性を描くのが通例ですが、それに固持せず、あくまでも現実と幻想の両面が暗く緊迫している世界であると匂わせていました。
闇には黒い闇と青い闇があるのだと思います。
監督であるギレルモ・デル・トロがインスパイアされたというスタジオジブリの諸作品を例として挙げれば、
もののけ姫にて、
デイダラボッチが立ち上がるシーンは、デイダラボッチの体色も影響する中、青い闇が森の上を覆っています。
また、千と千尋の神隠しにおいて、竜の姿になったハクが登場する場面でも夜の風景は青い闇です。
変わって、
もののけ姫にて、
ショウジョウなどの森の神と、村の人々が対峙する場面では、黒い闇色の森が描かれ、
千と千尋において、
湯婆婆が街を旋回するバックは黒い闇。
となりのトトロで、
まっくろくろすけが出てくるのは黒い闇、
トトロが出てくるのは青い闇、
ラピュタで、
シータが下りてくるシーンも、ゴリアテが登場するシーンも、洞窟のシーンも青い闇でありながら、
ラピュタが登場するシーンの直前は黒い闇です。
もちろんこれらは描かれている状況、場所、時刻などなどによって必然的に、話の流れとして当然の情景とも取れるでしょうが、
パンズ・ラビリンスにおいては、少なからず闇の中の闇と闇の対比が同じように巧く表現されていました。
というのも、
現実と幻想の対比が総じてこの黒と青の対比によって描かれているのです。
これらは実際に映画を見れば分かるかと。
闇の変わり目が現実と幻想の境目であるという風に考えていいでしょう。
ただ、現実と幻想の境がこの作品においては、明確でありながら、結局のところは混沌としてしまいます。
これはストーリーの運びに関連しているのでしょう。
この作品のオチとそれに付随するテーマは、決して現実も幻想も否定するものではありません。
結局、主人公オフェリアが見ていたのは妄想だったのか現実だったのか。
要はリドルストーリーでありながら、どちらが表でどちらが裏か分からない構造になっています。
また、迷宮が呼び起こす迷いは現実の迷いなのか幻想の“迷い”なのかとも言えるかもしれません。
それは観客の想像にお任せするという感じです。
現実と幻想が寄り添い、時に混じり合い、干渉しつつもそれぞれのベクトルは乱されることなく突き進み、
衝撃的なオチで一つに収束されると。
どちらも比重を偏らせることなく、パラレル構造のリドルストーリーとなっています。
一方、
PG-12がR-15であっても見劣りしないほどの描写が印象強く、他の感想にもあるように子どもには見せられない映画でもあります。
ただ僕的には、思春期の不安定な子どもたちにこそ見せるべき映画だと思います。
話がきちんと理解できる大人になってではテーマの意味がなく、理解できるまでの成長途中の年代にこそ、
むしろテーマの真っただ中にいる人たちが見るべきです。
もしか、20代30代でもいいかも。
では、そのテーマとはなんぞやと。
作品を彩るモチーフとして、先程、闇を挙げましたが、それはあくまで演出としてのもの。
実際に作品のテーマに関連するモチーフとして、もっと分かりやすく大事なものがあります。
もしかしたら、それがPG-12作品となってしまった所以かもしれません。
そのモチーフは、血。
あるいは、性でしょうか。そして、それとファンタジーが融合する上で、最終的なテーマが結実するのです……
まず、陰惨な描写が多いため、血はよく登場します。
銃で打たれる、瓶で鼻を砕かれる、金槌で顔をぶたれるなど、
主人公オフェリアの義父であるビダル大尉がファシズムを擬人化したようなキャラクターであるがゆえに、様々な人が血を流します。
そんな中、オフェリアは、他のどんな血よりも衝撃的な血の赤を見てしまいます。
その直前、牧神パンからもらった未来が見通せる魔法のノートには、テーマの源となる決定的なあるものの形が浮かび上がり、
その形は、第一の試練でオフェリアが向かった大ガエルが棲む大木の形にも現れています。
またこのテーマを掘り下げれば、大ガエルと第二の試練で出てきたペイルマンという手のひらに眼がある胎児のような肌をした男の怪物と第二の試練の罠、
もっと言えば、義父との関係、牧神パンの存在理由、オフェリアの造形、最後の試練と結末の意味までが一つに繋がります。
もちろんこれは映画のストーリーとは関係なく、単なるこじつけに似たようなものですが、
作品を語る上では外せないテーマです。
なぜこの作品がPG-12なのか。
それすらも一つの意味を持ち合わせるように見えてきます。
でもあえて今はテーマはここでは明かしません。
ひとまず、
作品の方はご都合主義満載の“なぜ、そんなことするのっ”と突っ込みどころが目立つというファンタジー映画の手本をなぞりながらも、
かつて少女だった人、
そしてこれから少女ではなくなる人たちに、
ある一つの可能性と結果を教えてくれるダークファンタジーの傑作です。
ファンタジーとホラーを両方楽しみたい人にも最適でしょう。
とりあえず興味が湧いたら是非見ることをお勧めします。
ただ、気分が暗くなること受け合いですので、心してかかってください。
おまけ的にテーマを明かすヒントをいくつか。
・ビダル大尉にとって自分の子(オフェリアの弟)を身ごもった母親の存在意義とは
・オフェリアが旅先にまで持ってくるものとは
・最後の試練および結末において、オフェリアがとった行動
・純粋な者とはどのようなものを指すのか。
そして、
・子どもを身ごもること、またその子どもは、父親と母親にとって如何なるものなのか。
あるいは、そのプロセスについて。
以上。
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