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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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津原泰水『約束』

前回の村田基『裂け目』、初出がミステリマガジン92年8月号ということで、同じく初出であった皆川博子『水色の煙』を取り上げようと思ったのですが、ちょっと時間をおいて考えてみたかったのでとりあえず繋ぎでこちらを先に。

村田修といえば津原泰水の実弟、三津田信三の刀城言耶シリーズの表紙絵師ですが、別に前回が村田基ということでその繋がりを狙ったわけではないのであしからず。
津原作品については『11 eleven』の時に散々語ってしまった(参照:)ので、俺自身が聊か食傷気味だったりするんですが、この作品について場を設けてきちっと語らず来月を迎えられるか!ッチュー感じで、今さらながらですが、長々しく語らせていただきたいと思います。

ちなみに前回は構造がうんぬんだとか、源泉となる作品はなんだとか、背景を見据えたアプローチで語ったんですが、(ちなみに前回のはすべて俺の憶測ですくれぐれも鵜呑みにしないでください
第2回目にして早くも方針転換、というわけではないですが、本作に限ってはより深読みの度合いが強いものになっております。くれぐれも鵜呑みにしないでください。

なお、『11 eleven』について語った際の、『琥珀みがき』の項でも本作について語っておりますので併せてご参照いただければ。⇒ 


津原泰水『約束』

98年出版、異形コレクション【ラヴ・フリーク】が初出。その後、『綺譚集』に収録される。

タカシとエリカは十六歳。夜の観覧車で出合った。
互いに連れがいたにも関わらず些細な偶然でゴンドラに乗り合わせた二人は、どちらともなく約束を交わす。また明日、下北沢の駅で会うという約束を。けれども約束は果たされることなく……。


そもそも本作との出会いは、異形コレクション第1巻【ラヴ・フリーク】でした。
収録作家は、皆川博子、倉阪鬼一郎、加門七海etc.思えばオールスターとも言うべきメンツ、異形コレクションの非凡さにいま改めて瞠目してしまいます。自身、まだ読書歴も浅い頃でしたから、小説を愛する契機はむしろ【ラヴ・フリーク】だったのかもと思うこの頃。
その中で毒牙にやられてしまったのは皆川博子『砂嵐』であるのは言うまでもありませんが、純粋に物語としてド肝を抜かれたのが本作、津原泰水『約束』。なぜこんなにも愛してしまうのか、それは【ラヴ・フリーク】というテーマに絡めとられてしまった結果かもしれません。『約束』は僕にとって初恋の人なのです。
今回は、この短い掌編を噛み砕き、作中で言及される“大事なこと”は何かを追究したいと思います。


CHAPTER1:“約束”は生き続ける。

まず基本的なストーリーを追ってみましょう。

物語は“美しい話だ。”という語りから幕を開けます。
同級生に頼まれ、その姉・ユカリとしたくもないデートをする主人公・タカシ。
騙されて、バイト先の上司とデートをするヒロイン・エリカ。
この二人が夜の遊園地、観覧車のなかで出会うところから物語は始まります。
概要にも記したとおり、二人は約束を交わした後に別れる。
エリカはその夜、ホテルで上司に抱かれ、同時刻頃、タカシは先天的な病で死んでしまう。

冒頭から俯瞰して描かれる二人の状況には誰しもやるせない気持ちを覚えてしまうことでしょう。二人は係員の手違いで一緒にゴンドラに乗せられてしまうことになるのですが、このやるせなさが強ければ強いほど出会いの場面にまず驚かされる。
本作はそもそも津原泰水の作家性、初出、そして最終的に収録された短篇集を思えば、単なる恋愛小説ではないことは明白で、まずこの出逢いのシークエンスで、その謂いが表されています。
出逢って間もない二人なのにも関わらず、そこに現実的な距離感はなく、唐突に頬へキスをし、抱擁を交わす。そして相手の素性も知らないままに、明日会おうなどと約束するわけです。
ロマンチックはとうに超えてメルヘンチックともとれる劇的な出会いから転じ、片割れの死という出来事によって、とりあえずこの約束は果たされないことになります。それに縛られた思いが“約束”となり、それは見失ったとしても永く生き続けるんだよ、という広大なストーリーへと至るのですが、はてさて。

約束は果たされないまま風化していった二十年後、エリカは電車のなかでばったりユカリと会い、彼女の口からタカシが死んだことを聞かされる。
その後、恋人との別離や肉親との死別を経、エリカ自身の寿命が尽きる間際に、彼女はタカシに語りかける。
「りっぱに喬くん(=タカシ)に守られて、これまでよく生きてきたと思うの。だからいま、わたしを抱きしめて、褒めてください」
二人の精神が抱擁を交わし、“約束”が成就するところで終結を迎える。
とここまでが本筋のストーリー。ただし問題はこの直後。

ここまで語られたすべてをひっくり返す最後の二行です。
これが本作の最大の魅力であり、津原泰水という作家の人の悪さでしょう。
それを生半可にラストの衝撃!と語れない理由は、ミステリー的などんでん返しに驚くぐらいならまだ救われる方で、技術として語れば韜晦・目くらましの類であり、煙に巻くと言ってもいいものだから。

この衝撃については第三項にて語るとして、これがとりあえずの『約束』という作品の骨格です。
どこにでもある日常の、どこにでもない恋物語。浮き立つ様はロマンチック/メルヘンチックでありながら、足許を見下ろせば綺羅とした現実が広がっている。それは、読者こそゴンドラに乗り込んだ“約束”の一部であるのかもしれないと思わせるほど、なんていうのは野暮ですが。
だが本作の刹那さとやらは、メルヘンともファンタジーとも類型し難い。一体、この物語は何なのか。

続いては、幻想小説としての作品像を繙きます。


CHAPTER2:『ケータイ小説的』という幻想

ちょっとここで話は逸れてしまうのですが、本作が持つとある側面を映し出すのにケータイ小説との対比が適しているように思えます。
いまやその横溢は落ち着いてきたものと見受けられますが、本作が発表されてしばらく後に、ケータイ小説と呼ばれる媒体が世を席巻しました。あえて説明は不要でしょう。

俗にいうケータイ小説が、ある一方で賛美を得、またある一方で批難の的となる原因は何か。
大きな欠点は、文章力あるいは読み物としてのレベルにあるでしょう。つまり簡素で文章としての魅力がないもの、国語力の未熟さが目に余るものだったり、そもそも小説としての体をなしていないものもある。
ケータイ小説とはその呼び名のとおり、ケータイを日常的に扱う女子高生のために書かれたようなものらしいので、ケータイで読むに適した文章密度・読解の容易さが要ともいえる。更にはケータイで書くという要素も含んできた結果、顔文字やら絵文字やらが用いられるケースも出てきた。
表現というものに規制はないので、それらを摘んで批難することは、ブームが去った今特筆することもないのですが、他方の問題はそれらによって描かれてきた物語自体にある。
レイプ、ドラッグ、DV、援助交際、中絶……
主に女子高生をモチーフとしたあらゆる社会問題をばらまき、悲劇の臨界点として愛する者の死を描くという結構は、ケータイ小説のフォーマットとして君臨し続けました。暗部を避けるために、難病を持ち出して来ることもしばし。とどのつまり、そんな悲劇に直面した主人公との感情共有・悲劇を乗り越えて生きることのドラマ性が求められた故の現象でありました。
そしてそれらを批判するときに、よく持ち出される言葉があります。

“記号的”。

レイプや中絶、難病など先に挙げたガジェットが現実的に用いられていないことに対する批判。リアリティがないという言葉にも置き換えられます。
難病が死を導くもの、果ては二人の幸せを奪うものとしての側面以外機能せず、レイプや中絶は性に対する低俗さを表現するためだけに留まっている、というような。
これらが危ういのは、ドラマを描くツールから多様性を奪い、記号そのものに頼ってしまっていること。
元来より物語が定型のうえに築かれていくのは結構ながら、そこに馴染みのあるマクガフィンを用いることで作者は安心しきってしまう。
一方で、読者もまたケータイ小説の擬似リアリティに安心していたのかもしれません。描かれる事象が非現実的と断言できない実社会、小説だからこそ愉しめていたという状況に陥っていたのかもしれない。

さて、この場を借りて特別、ケータイ小説を揶揄するつもりもカルチャー論を語るべくもないので本筋に戻しますが、『約束』もまた記号的な物語です。
主人公タカシは陸上部に入っている。
エリカはハンバーガーショップでアルバイトをしていた。
舞台は夜の遊園地。
それ以上の説明はまったくない。ここはどこなのか、いつの時代なのかがまったく明記されていない。ただひとつ下北沢で落ち合うという約束の舞台だけは登場するものの、今この場所がどこなのかが不明確なまま、物語は進みます。
どの高校に通っていて、どんな生活を送っていて、というのが欠如しているから、二人の本当の関係性というのも見えなくなっている。登場人物を描くときそれが主たる人物であればあるほど、どこかに関係性を持たせなければ、それこそリアリティが欠如しているように見えてしまう。
けれども、本作では正反対に何も描かない。外堀を埋めるという行為をしていないのです。だからこそ出会いの場面が鮮烈に、悪く言えば唐突に感じ得るのでしょう。

その場面、望まないデートを押し付けられた二人が、偶然ゴンドラで二人きりになるという束の間を、運命と呼んでしまっても差し支えないでしょうが、一見するとちっぽけなリアルをはみ出した過剰なラヴストーリーに過ぎないように思えてきます。更に運命すら引き裂く死。
本作の執筆時期を勘案すると、ケータイ小説というカルチャーがあって、書かれたものではないはずなのですが、《記号的》+《悲劇》となるとケータイ小説と同系の物語のようにも思えます。

閑話休題。
そもそも、本項ではタカシを主人公・エリカをヒロインとして語っていますが、作中にて明確な区別はありません。
概要に記したとおり、遊園地に来る理由付けの対比は元より、交わした約束が成就されない理由付けも両者は綺麗に対とされています。
読者の目にはタカシの死によって衝撃こそ薄らいでいるものの、その夜エリカは処女を喪失します。面白いのはこの時点で、約束の場所にはいけないことを悟る部分です。
ただ、これも対比が崩れているわけではない。好きでもない男に処女を捧げるという行為がある種の死と見なせるのならば、約束は二つの死によって妨げられたものと考えられます。

思えば、約束が破棄となった原因は、タカシの死にあるわけではなかったのです。その時点でタカシの死を知りえないエリカが、自発的に約束は果たせないと思い込むところがミソで、ここでようやく本作が、タカシではなくエリカを中心とした世界であることに気付かされます。
あくまで世界の中心にはエリカがおり、その世界を囲む外側にタカシは逸脱してしまったという構造なのです。

それから本作は、表向きにも幻想小説たるゴーストストーリーの要素を滲ませてくる。
肉体を失ったタカシは永いことエリカの傍に寄り添って生きることになります。もちろん、相互のアプローチはまったくない。エリカがその存在に気がつくこともなければ、タカシすら生前の記憶を失い、ただ“約束”としてあり続けるようになっていく。
それはタカシというひとりの存在が“約束”という《記号》へと記号化されたことに値します。
ましてや約束の内容(下北沢で云々)さえ放擲されてしまい、“約束”という集合的な記号になる。
これはむしろ、記号の擬人化と呼んだ方が適切なのかもしれません。
ではなぜそんなことをする必要があったのか。タカシとはそもそも何者なのか。それが本作の大きな謎となっていきます。

ちなみに本作は【異形コレクション】収録時、編者である井上雅彦伯爵によって“PHANTASY”という領域の作品であると紹介されました。それは伯爵が提唱する、ホラーともファンタジーとも言い難いあわいの領域に位置する作品のことです。
幻想とはそもそも取りとめのないものですが、、本作の場合、とりわけ都市幻想と呼びたくなるようなエッセンスがあります。
《都市》とは我々が生きる社会であり、リアリティの器です。
ただ有象無象が溢れ返る都市となると、そのなかに人生はおろか人間という存在、あるいは時間、意識そのものを封じ込め、熟成させるための貯蔵庫であり攪拌器のような機能もある。
さまざまなものが生まれ、死んでいく。
人間の営みに一番近しい、世界の枠組みが《都市》だともいえる。

そんな《都市》という現実と陸続きの舞台があるからこそ、言葉足らずの本作はリアリティとファンタジックの領域をぼかすことに成功しているのでしょう。それは紛れもなく日常生活の隣で起こっていると、我々読者は想像しやすいのですから。
肝心なのは物語のどこにリアリティを持たせるか、です。
《記号》をばらまいた作品がすべて劣っているわけではないので、《記号的》という冠は何も別称ではありません。問題なのは擬似リアリティを描く目的であり、個人的にケータイ小説の某作品群が好みでないのは、擬似リアリティをあたかも現実を装って描く部分にあります。ところが、前述したような似たり寄ったりのガジェットが重層的に扱われ、逆にリアリティを損なうと同時にドラマチックの枠を超えてしまった。それすらも許容する流れが、《記号》に頼る風潮へと導いたと考えることも出来ます。
《記号》というのはそこにあるだけで意味を成すものでありますから、重ねれば重ねた分頼りがいがある、描くだけでドラマチック(擬似リアリティ)を描くに容易いという見方が生まれた。何よりそれに安心してしまう見方が生まれた。

つまり、リアリティにおける《記号》の置き場を見誤るだけで、チープで粗製濫造のケータイ小説のようにも、幻想小説のスタンダードにもなり得るということです。
本作は、そういう意味では現実からの逃げ、として幻想小説に踏み入ったという考えも出来ますが、そのような邪推すら吹き飛ばす結末が待っています。文末において、唐突に《記号的》な擬似リアリティは突き抜け、そこから圧倒的なリアルが現れるのです。


CHAPTER3:形のないものに形を

そもそも本作は幻想小説でありながら、現実というものを否定する作品ではありません。だから前述したように現実と地続きであることが強調されています。

“約束”と化したタカシの登場から単なるゴーストストーリーへと帰結するわけでもなく、むしろ話の主流はエリカの視点にある。
では、これは遺された者の話なのか、というとそれも違う。
遺された者の物語とするならば、エリカにとってタカシの死が明白なものである必要があります。遺されたという自覚がなければ、成立しない。あるいは、読者にのみそれを分からせ、不明のまま生きるエリカの人生を俯瞰する物語だとするとしましょう。
だとすれば、健気に“約束”を信じる少女を描いたかもしれない。けれども、前述のとおり、彼女自身が“約束”は果たされないものと切り出している。
では、タカシの死を知って初めて“約束”の重みに気がつくのか。もしそうであるならば、転換期であるはずの二十代のエリカ――タカシの死を知ってからの彼女――の人生が重点的に描くべき部分となるはず。けれどもそうともなっていない。その間、綺麗に省略され、ト書きのような記述でエリカが老いていくことを記すのみです。それは、まるで以後の人生は物語るに値しない現実であるかのように。

そして散々引っ張ってきたラスト二行。

 だけどぼくらは知ってる。タカシなんてどこにもいない。
 それはそれで大事なことだと思うんだ、おかあさん。 (本文より)

これによって読者は改めて、この物語が《語られた》ものであることに気がつくのです。
唐突な出会いの場面や、タカシの死でさえ、物語の一部であることを認識しなくてはならなくなるのです。


さて、この二行について、明確な回答は分かりません。これより個人的な読解を記述したいと思います。理想的な読みではないのかもしれない。深読みです。案は二つ。

まず読み解く上で、この語り手が誰なのかを明確にする必要があります。
“おかあさん”と呼ぶことから、その対象はエリカだと固定してしまいましょう。するとその息子ということになる。そういえば、確かにエリカは息子を生んでいる。
  1. そもそもこの物語は床に伏せるエリカに息子が語りかけている物語、あるいはエリカの口から聞かされた話を再構築したものではないだろうか。何故、彼はタカシが存在しないことを知っているのか。それはそもそもこの物語自体、エリカが生み出した幻なのではないかという余地もある。けれども重要なのは“美しい話だ。”という前置きがある点で、語り手はそれを批難する姿勢を取っていない。つまり実在不在関係なく、当事者にとっての幸福であれば、それは美しきものだという主張を意味している。つまり本作は若き日の“約束”を秘めた末期の母へ宛てたレクイエムと呼ぶべきでしょう。
  2. エリカにはもう一人、幼くして死んだ息子がいる。彼は肉体を持たない。つまり、物語を俯瞰することが出来るのです。更に、もし彼女のなかに“約束”が生きていたとすれば、生まれた息子にタカシと名付けるのも不思議ではないのじゃないか。つまり、末期にエリカが語りかけた“喬くん”が、“鳴瀬喬(=タカシ)”その人である証拠は何もない。これは単に母と子の物語である可能性もある。観覧車というガジェットは円環の象徴である。生まれ変わりや輪廻転生。“約束”はエリカの思いと行動によって継承されていたと見なすことも出来る。その上、それそのものが極めて純粋な、愛の形のようにも思えるでしょう。

これが個人的な推論・読解です。
しかし、大した意味はありません。
どう取ってもいいように本作はできています。
“約束”が形のないものだとすれば、本作に、本作の結末に如何なる形や意味を与えようとも、それは決して実存ではありません。
重要なのは、経過はどうあってもたった一つの“約束”によって人が救われ、また、人が成長できるという点にあります。
形のなくなったタカシは“約束”という記号によって現世から消えずに残れた。
同様にして、エリカもまた記号的な“約束”により生き永らえたのです。

“約束”の重みは人それぞれ、そもそもそれが取り交わされること自体プライベートな状況なのですから、他者が他者の“約束”の重みを知る余地はないのかもしれない。
ただひとつ擬似的に知ろうとするなら、“約束”を交わした他者本人を知り尽くすことに至るでしょう。
“約束”の重みとは人間の重み、人生の重みなのです。
“約束”自体は記号でしかありませんが、けれどもそんな記号を通して、人は人を知ることが出来るのではないか。そんな感慨さえ浮びます。

概ねケータイ小説が記号の表層的な意味合いを連ねた物語であるのに対し、
本作は《記号的》を逆手に取り、形のないものをあえて《記号化》し、形にする物語なのかもしれない。
記号から意味を引き出す作業が小説の宿命なのだとしたら、記号に意味を封じ込める作業も、それはそれで“大事なこと”なのでしょう。

それを踏まえると、
作者曰く発表する宛てのなかった本作が《PHANTASY》なる記号に飾られ、異形コレクションに収録されたのもまた因果なものです。


おわりに

黄昏。現実にふと訪れる刹那の奇夜。そんな時にはこの物語を思い出します。
描かれるのはどこにでもある日常の、どこにでもない恋物語。浮き立つ様はメルヘンチックでありながら、足許を見下ろせば綺羅とした現実が広がっている。俺ら読者こそ、ゴンドラに乗り込んだ“約束”の一部であるのかもしれない。“約束”という記号により救われる愛を描いた本作の刹那さは、メルヘンともファンタジーとも類型し難い。この物語は何なのか。それは“PHANTASY”なる記号により救われた。
思い出は過去でしかない。初恋は遺物の思いでしかない。けれど、“思い出”と、“初恋”と名付けられることにより永久の命を得られる。“約束”もまた永遠に生き続ける。また、生かされ続けるのでしょう。


俺が何故この作品を好きで好きでたまらないのか、まったく説明は出来ないのですが、本作が収録された異形コレクション【ラヴ・フリーク】、そして『綺譚集』。
【ラヴ・フリーク】の方は、アンソロジー、それもホラーアンソロジーという特性上、あまりに不釣合いな物語である本作が受け入れられないのは避けられません。俺はだからこそ本作の輝きに面食らったわけですが、読者によっては印象に残らない作品だったかもしれません。

ただ作者の幻想小説短篇集である『綺譚集』。個人的には、本書に収録されている方がどこか場違いだという印象がありました。凄烈極まりないエログロの作品が集るなかで、一際輝くものはより強く発せられたことでしょうが、【ラヴ・フリーク】の印象が強い自分にとってはより作者の才能が光る併録作に埋もれてしまったような気がします。

その二つの本の感想をネットで探すと、思いの外、本作への評価が芳しくない。
むしろ、きちんと言及されているケースさえ珍しいほどです。
単なる韜晦趣味による作品であることに触れることはあっても、何を伝えたいのか、何を描こうとしているのかまで言及した感想は見つけられませんでした。
これが非常につまらなくて、今回このような形で、改めて『約束』を語ってみようと思った所以です。
内容そのものは以前に書きためていたもののリライトに過ぎないのですが、『11 eleven』も好評だということで、これを機会に本作も再評価されればなと思います。もっともそれが作者の意思ではないのを承知で。

個人的には、これが津原氏のベスト短篇。
みんな大好き『五色の舟』なんかの数百倍、読む価値のある作品だと思ってます。
だから、俺は声を大にして言いてえんだ。
『五色の舟』にしか触れていない『11 eleven』の感想は信用するな!
『約束』に触れていない『綺譚集』の感想は信用するな!

というわけです。


『約束』も短篇というより掌編ですし、津原氏特有の臭みはだいぶ少ないのでそう言った意味でもおすすめなんですが。
にしても、異形コレクション(それこそ【ラヴ・フリーク】)、そして、津原泰水氏に受けた影響はでかい。
なんかそれしか読んでないように思われたらどうしよう。


以上、今回は津原泰水『約束』を語ってみました。
次回がいつになるのかは未定!
皆川博子『水色の煙』はとりあえず候補だとして、乾ルカ『夏光』、『夜鷹の朝』なんかも頭にあったりする。
また鬱が再発する前に載せられたら満足じゃ。
ということでまた次回。

やッ、にしても疲れたなぁちくしょう! トリックオアトリート! ハローーーイーーーン!! ビバ、11月!!



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