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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『ベッドタイムストーリー』

[解題]
語りかける手法の小説はいくつもあるが、それを突き詰めたらこんな感じになるんじゃねえの、と思って書いた。鼓膜に取り憑いた幽霊というのは珍しいと思う。まあ、そこまで限定する必要はないんだろうけど。



 蝉の声。鶯の囀り。川のせせらぎ。隙間風の嘶き。貴方の鼓音。舌舐めずり。ラジオから流れるラブソング。ナースコール。地べたを這う音。空調の振動。蛇口から滴る水。トイレのウォシュレット。裸足の足音。誰かの鼾。換気扇。頭上を飛び回る蚊の羽音。うふふ。ヘッドフォンの中の空気とあたしの囁き。
 聞こえるかしら。
 ようやく、貴方から音を奪えた。長かったわ。でも、それも仕様がないことね。この世はノイズで溢れている。とても耳障りで、聞くに堪えない卑猥なノイズ。そこには理性も愛も、何もない。貴方と出会った、あの美術館。あそこは静寂が満ちていた。すぐそこにある貴方の声と吐息を感じていられた。はずなのに。
 理性も愛も、失ったわ。
 どんなに電話をかけても貴方は出ない。一度だけ、受話器を取って貴方はすぐに置いたわね。あの時よ。あたしが心に決めたのは。不思議よね。電話線は声を運んでくれる。辿り着いた貴方の耳。それから貴方を見ていると、まるでムンクの『叫び』のようで、もし貴方がヴァン・ゴッホみたいに耳を切り落とすぐらいの度胸があれば、ノイズに苦しまずに済んだのに。度胸のない男って嫌い。でも貴方は好き。うふふ。
 良かったわね。少なからず、町のノイズは響いて来ない。白を基調とした病室、ようやくあたしの話を聞いてくれるのね。貴方には喋らせないわ。貴方は決まって別れ話。今さら無理よ。ずっとそばにいるって決めたもの。本当なら、警察の人たちにもあたしを殺したのは貴方じゃないって伝えてあげたいけど、あたしは貴方の耳を抜け出せないから無理。貴方があの時、電話を切らなければあたしは死ななかったのに。でも、不思議ね。あたしはただ首を吊っただけなのに、どうして貴方が犯人にされちゃったのかしら。誰かが告げ口していたりして。やだ、今のは笑うところよ。
 うふふ、愛しているわ。もう逃げちゃだめ。ずぅっとずぅっと一緒にいるの。寂しくなんかない。まさか、あたしがただ話し相手が欲しいだけなんて思っちゃいないでしょうね。貴方だけよ。あたしの声も囁きも囀りも吐息も咀嚼も接吻も貴方だけのもの。嫌ならどうぞ耳を切り落としてみなさいな。出来ないでしょう。頭を打って、鼓膜を破るぐらいしか度胸のない貴方は出来なかった。鼓膜を破るぐらいで、あたしは別れないわ。知ってる? 鼓膜って破れてもまた再生するのよ。
 うふふ。さあ、今夜も夜話をお一ついかが。
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