家族四人で、ちゃぶ台を囲みながら昼食をとっている時、父ちゃんがきゅうりの浅漬けを頬張りながら何か思い出したように、あ、と声を上げた。
「そういやタク坊ももう十歳になったんじゃ」
それを聞いて母ちゃんも、あ、と箸を咥えながら言った。ボケている祖父ちゃんは口を半開きにしたまま、味噌汁の椀を見つめている。
「すっかり忘れとった。母ちゃん、糠床の用意だ」
「そ、そうね」
母ちゃんは台所に駆け込んでいく。一体、何の話か分からない僕は味噌汁を啜った。母ちゃんがプラスチックのバケツのような糠床を持ってきて、僕の目の前に置いた。父ちゃんは箸を休めて腕を捲ると「タク坊、頭貸せ」と言った。
父ちゃんは僕の後頭部をちょっといじった。パッといきなり頭がスースーし始めた。
「飯時に悪いな、じっちゃん」
祖父ちゃんがあうと唸る。父ちゃんは僕の頭から優しく持ち上げた、ピンクの物体を僕に見せた。
「これをな、漬けるんじゃ」
僕の頭は朦朧としていた。父ちゃんの話も理解出来ない。手元から箸が畳に落ちた。
「一晩漬ければええ。そうやって大人になっていくんじゃ。俺もじっちゃんもそうやって大人になってきたんだ。心配いらん、切った脳髄は二晩で元に戻る」
父ちゃんは僕の脳を糠床に入れ、丁寧に糠と揉み込みながら容器に沈めた。
「ようく漬かれ、ようく漬かれ」
僕は夢を見ているような心地だった。糠床の海で泳ぐ夢。脳は離れているのに、そんな光景が瞼の奥に広がる。母ちゃんが糠床の蓋を閉めて、台所に持って行った。僕は自分の脳の寝床を見る為、着いていく。
「タク坊もお願いするのよ。ようく漬かれ、ようく漬かれって」
母ちゃんは流しの下の醤油の瓶やら味噌のパックやらを出すと、冷えたその奥に僕の脳を収めた。僕は何とも恍惚にそれを眺めていた。ようく漬かれ、ようく漬かれ、僕の脳よ、ようく漬かれ。
「あら、これ何かしら」
母ちゃんがその奥に、もう一つ似たような容器を見つけて、引っ張り出した。蓋を開けると小蠅が数匹飛んだ。
「あら、ヤダ」
「どうした」
父ちゃんが様子を見に来る。母ちゃんは容器の中を見せると、父ちゃんが口を大きく開けて言葉を失った。
「お前、まさか、これ、じっちゃんの脳じゃねえかっ!!」
数年間忘れ去られ、糠床に漬かり続けた脳を祖父ちゃんの頭に戻すと、祖父ちゃんはしゃきっと背筋を伸ばして、ものの一時間で脳科学に関する論文三十ページを書き上げた。
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