かれに会った時、どうしてそれがかれだと分かったかといえば、その手を振る仕草が毎日見ていた放課後のかれのシルエットそのものだと気付いたからだ。
思い返してみれば、それはざっと十年以上も前のことで、あの頃とは背格好もだいぶ違う。
なのに、私はそれと気付いた。
「それは運命だね。僕と君は運命の……いや、それは言い過ぎか。ノスタルジアだ。懐かしさは感情のタイムカプセルなんだよ」
茹で卵のようにつるりと滑らかな顔から言葉は発せられる。どこから声が出ているかなんて疑問はどうせ意味を持たない。
昔、どこかの作家が書いた絵本を二人で開いたことがある。挿絵にキリコの絵画。懐かしさはあの当時、絵本の中にも在った。母親が淹れるオレンジペコーとかれと絵本。未だその時ほど胸が高鳴るシチュエーションは出会っていない。
かれはこの街に来て、眸も鼻も口も失った。皺ひとつ、眉毛一本すらない。
「この街で顔は必要ないんだよ。想い出なんだから」
かれはそう言った。
確かに記憶の中では、風景や台詞は明瞭に残っているのに、相手の表情はいまいち覚えていないことが多い。
沈没していく太陽。大きく伸びる影。陰影の際立つ異国の街並み。無表情で通りを歩く人々。マネキンみたいね、と私がつい口走ると、かれは寂しそうに笑った。かれもマネキンの一人になっていたのだ。
そして、いずれは私も……。細く溜息をつくと、かれは私の肩を抱いた。
「怖いのかい?」
その声、口調は昔のかれのまま。
「どうして僕がこの街に来たのか教えてあげるよ」
かれは語り出した。幾万の人々が抱く夢と記憶と感情が織り成した、遠い遠いこの街の歴史と。
それに魅せられた人々の伝説を。
「何も怖くなんかない。ただ僕らは素直になればいいんだ。素直な表情、素直な気持ちにね。きみもすぐになれるさ」
黄昏が街を駆け抜けた。
小さな体は飲み込まれ、軽い撫でりで私の顔からすべてが消える。枷が外れたような解放感があったが、僅かな擽ったさがこめかみに残った。温もりが私を包む。過ぎ去った記憶は過去の産物だと誰が言おう。それはここにある。かれに寄り添い、あの頃のように、昔みたいに、私は微睡むように今に浸る。
「ようこそ、僕らの街へ。いや、おかえりと言った方がいいかな」
懐かしい匂い、温もり、シチュエーション。
この懐かしさが私の故郷――。
オレンジペコーとかれと絵本。それはベストな組み合わせ。
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