狂気は、金曜の夜にラザニアを食む。
硝子の天板のうえに陶器の皿、銀色のスプーンで汁と米となにかの混ざったなかを掻く。この窓から見る夜景が好きだから、と彼は語った。確かに十八階の窓から見える花金の夜の摩天楼は、ここに在りていたずらに蠱惑的で、粘っこく目映い。向かいのビルに飛行機が突っ込んだの、そんな夢の話しを、昨日の夜、そちらのベッドで囁いたけど、彼は鼻を鳴らして莫迦にしただけで不安もなにも感じはしない素振りで、今朝も通勤鞄を手にして出て行った。いつもより一本電車を遅らせてよ。そう頼むと、遅刻の責任をお前は取れるのかと語気を強めた。彼が後ろ手に閉めたドアの勢いに、部屋全体が震えた。今夜は何時、訊けなかった。きっと彼は午前様で、どこかの女の影を背負って帰って来るだろう。襟元にキスマーク、源氏名の名刺、目に余るほど確かな証拠だったら笑って誤魔化せるけど、仄かに纏わりついた匂いと、温もりと、軽やかな彼の足取りは、目を背けるだけじゃ済まされない。
今月は……、子どものように口を尖らせて彼が差し出した給与明細にわたしは頭を垂れる。ここから幾ら差し引けば彼を喜ばせられるのか。陶器の皿の傍らに、葡萄ジュースを注いだグラスとそれとを並べて、スプーンの柄で擦ってみる。皺の寄った六桁の数字に、昼間支払った電気代、彼の交遊費、ぽんぽんと浮かぶ金額の羅列を、主婦としての営みと誤魔化しながら、スプーンを皿に戻す。膜の張ったラザニアの、米の感触。舌の先で交わる塩気と温かみは、知らぬ女と彼を孕んだブティックホテルのシーツの嗜み。そう思ってスプーンを噛む。金属の味。勢い余って舌を噛む。血の味は鉄錆の味。
何気ない日常が皮をむかれて、淫らな姿を曝け出す週末の夜に、普段は滅多に出さないラザニアなんて拵えた自分がいけなかった。こんなもので彼の気を引こうだなんて。とつうん、とつうん、と向かいのビルの赤いランプが刻むリズムさえ、エレベーターを降りてくる彼の跫音に聞こえてしまいそう。どうなの、幸せなの。水曜の昼間、遊びに来る友人に訊かれるたび私は笑って答えるわ。だってあんなに嫌いだった掃除もすっかり慣れて、無理だと思った料理も覚えた。これまでずっとプラスのことばかり。私の日常はマイナスなんかじゃない、幸せすぎたの。だから、差し引かなきゃ。
今夜、私は彼を殺します。
冷めたラザニアはゴミ箱に棄ててしまって。
PR