手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『酔狂天使』

[解題]
園子温『自殺サークル』のセンセーショナルなイメージを作品のなかに閉じ込めておきたかっただけ。幻影で終わらせたのはそんな“センセーショナルなイメージ”に目をキラキラさせて飛びつく、一定の世代が養っている青春を肯定させたくなかったためだ。
自分への戒めとしても。自虐としても。




 初恋、だった。
 僕はあの子が大好きで、どうしようもなくて、ヤリたいとかそういうんでなくて、もっとキレイな、あっさりと、いや、でも深く、深く、恋を炎に喩えることはあるけれど、まさしく僕の心は燃え滾って、焦げ付いて、どろどろに溶けてしまって、火傷してしまいそうになる、だから言おう、伝えよう、と毎晩決め込むけれど、そんなことできやしない、分かってる、分かってるんだ。今日も、尾けてきてしまった。

 初恋、だった。
 そして、その初恋は目の前で砕けた。飛び散る血飛沫。潰れる頭蓋、何かどす黒くて桃色の、軟らかいもの。電車が急ブレーキをかける瞬間を初めて見た。もちろん、人がホームから飛び降りる瞬間も。例の事件は世間を騒がした。帰宅ラッシュの新宿駅で起こった、女子高生五十四人の集団自殺。すり潰され、こねくり回され、切り刻まれ、くっつき、原型を留めていなかったそうだ。分かる。僕はそれがそうなる瞬間を見たのだから。身元が分かっただけでも、幸運だといわれている。高校も住所もまったく違う五十四人だから、そのうち何人かは、今もどこの誰だかはっきりとは分かっていない。プラットフォームに流れた夥しい量の血液は、混ざってしまって、詳しい検査も進まなかった。目撃者達が浴びた彼女達の血液、もちろん僕の顔にも、それはかかった。そして、もしかしたらその血は、愛しいあの子のものが少しだけでも含まれているかもしれないのだ。そう、きっと、あの生暖かい感触はあの子の……。

 初めて、酒を呑んだ。千鳥足とは言わないまでも、気分は良かった。あの子の死に場所に立ち、ホームを撫でる風を浴びた。すがすがしい、目が霞んで、夜の構内のライトが苦しかった。アナウンスが聞こえる。もうすぐ……。目の前の空中に女子高生の唇が浮かんできた。何もないところから鼻、目、髪、制服、胸の膨らみ、ミニスカート、生足、ああ、迎えに来てくれたのだね。僕も行くよ、君の元に。踏み出した。
 くらりと気分が遠退いて、電車が向かってくる音を感じる。痛いだろうか、けど、それもすぐに消える。

「君、何をしている」
 不意に腕を掴まれて、僕は冷たいコンクリートに投げ飛ばされた。駅員が仁王立ちをしている。
 ああう。僕は唸った。あの子が悲しそうに顔を背ける。その幻を山手線がかき消した。ライトの霞みだけが残った。初恋、だった。そして、それは目の前で砕けた。
 明日もまた会えるかな。
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