手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『混沌の神の創り方』

[解題]
実を言えば、1000文字を書く前、超短編という名義で作品を書いていた頃、その処女作は本作だった。つまり『レッドキングの結婚』よりも早い段階に生まれていたということである。小生は、かねてより井上雅彦氏のショートショートに触れて育っていたので、単語の羅列だとか抽象単語の海嘯などはむしろベーシックであったから、本作などで単語の羅列がどうとか感想を持たれるのが意外だったことを覚えている。
全体的に怪奇色が強めだが、ある種の神SFとして視る、というのは聊か迎合が過ぎるが、誕生のプロセスが重要なのであって、人間の尊厳などはその糧にあるという構成上、空想のカテゴリーが相応しいのではないかと思う。
ちなみに、我が実家は、今も未だ汲み取り式便所である。そういう環境が身近にあったからこそ来迎した異形の神だ。


 今もひっそり、その家の端に汲み取り式の便所は在る。人ひとりしか入れない窮屈な個室、紙一重で天国とも地獄ともなる密室に、口を開けた白い便器の、黒い穴。外に繋がる配管から入る風が逆巻き、悲鳴のような不協和音が聞こえる。
 毎日そこで用を足し、二、三か月で汲み取りを頼む。溜まった糞尿は排出され、またその奈落の底には、静かな暗黒が蘇る……はずだった。
 金曜の夜に、飲み会から帰り、便器の穴に向かって、嘔吐した。きらきらと宇宙の端に流れる星の河のように、つまみのたこわさびやフライドポテト、お通しのホウレン草、コースのもつ鍋、汁に浸かった焼きおにぎり、デザートのフルーツとバニラアイス……やらの、筋や皮、澱粉や油分、蛋白質が日本酒と渾然一体となり、生臭い瀑布が闇に吸い込まれていく。糞尿の臭いとアルコールの匂いが舞い上がり、胸糞悪くなりながらも恍惚感を得る。穴は何でも容易に飲み込んでくれる。
 ……分別に困ったビニールの包装紙、ペットボトル、鍋の残汁、水に溶けるティッシュに吐き出した自慰の屑紙、髪の毛が入っていた弁当の白飯、キャベツの 芯、腐った卵、黴の生えたパン、蜜柑の皮、溶けた冷凍食品、のびたカップ麺、焦げたカレー、穴のあいた下着、教科書、ノート、参考書、ヘアヌードの写真 集、VHS、ブスにもらったチョコレート、壊れたMDプレーヤー、ペットのハムスター、内定通知に卒業証書、給与明細、ネクタイピン、皺くちゃの上下のスーツ、お見合い写真、海外旅行のパンフレット、婚約指環と婚姻届、偽造の契約書、キャバクラの名刺、後輩のアパートの鍵、書き損じた辞表数通、なけなしの五百二十七円、宝くじ、へその緒がついた胎児、麻雀牌、母子手帳、小煩い姑、離婚届、履歴書、ロープ、カッター、LPSD、シンナー、ペットのイグア ナ、手首から垂らした鮮血、幸も不幸も……。穴は全てを吸い込んだ。過去も未来も餌食となって、魔の化学反応。廻転する闇、呼吸するブラックホール。
 闇の底で、腐敗し、熱を生み、じゅくじゅくと泡を立てて、食材も生理物も、思い出も混沌に帰す。自分を便所の中に生み落とした独り身の母の記憶さえも……。
 消えた命、消えゆく命、生まれた命、その微かな命から神は生まれる。
 蠢く闇、寝返りを打つ闇、手招く闇、汚物の濁流、汚臭の嵐、暗黒領域……そして或る日、住人はその生贄となった。
空洞に風が吹き、神の産声に白骨が嗤う。
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