手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『ホットスポット・スカーフェイス』

[解題]
『水の不死鳥』にしろ『波濤の娘』にしろ震災以後、それを題材に書くことに関して意図的にフィクショナルを究めた形式にしていた覚えがある。本作はそれが判じやすくパロディとして書けてしまった自分が愚かだと思う反面、経なければいけない視点のひとつでもあると考えている。シリーズものにする考えもあったが、1000文字におけるシリーズものはなかなかどうして息が短い。




地から放たれるは、燐か、硫黄か、メタンか銀か。
 この雪室はなかで火を焚き薪をくべても、溶けやしない。土壌に棲みついた毒素虫の侵入を拒むに適す、香草硝子で出来ている。雪室――巷では童夢と呼ぶ――の壁面に埋め込まれた毒素検知のカウンターゲージが先週末、六十年ぶりに基準値に達した。

 桃色眼鏡を掛けた女学生が近くを通り過ぎる。彼女のクレームで二番地八の五にそそり立つ塔型の高周波測定器が壊れた。修繕は税収でもって賄われる。賠償請求の動きはまだない。というのも、対応した窓口侍に非があると分かったからだ。童夢の防護性を訝しがる女学生が関所の鈍さについても指摘しながら、くどくどと不満を並べ立てている間、くだんの侍は八割がた開けた女学生のシャツの隙間に気を取られていたらしい。侍には毎月二十日に銭歌留多が配給されることになっているが、以後半年、十五枚から五枚に減じられた。

 自棄であった、と侍は自宅で腹切りの真似をしてみせた。通販で買ったという防毒般若面を着けた妻が牙の奥からなじった。同じ面の赤子は妻の腕のなかで拳を振った。ぶうぶうぶう。
 その面に幾ら使ったと質せば、返って来た額面に侍は胸を打ちぬかれる。購入は夫婦間で協議するに然るべきであろう、と声を荒げれば庭に放した蟒蛇が鎌首をもたげひとあくびをした。この蛇も毒素虫を吸い食らうと聞いて妻が購入したものだ。そもそも毒素虫は半透明であるから、減ったかどうか確認は容易でない。睨むと蟒蛇は舌を出す。妻は聞き入れぬ素振りで、漏らした赤子の尻を拭いている。

 午後九時、会見場に現れた最高指揮官は二人の末端機械学者を引き連れていた。
 今般、検出され致し仕った毒素の値、是、誠に遺憾なるものにつき、童夢の開発に携わり奉った学者の二人を連れ参ったで候の事。
 早口に喋った指揮官の顔面に刻まれた赤黒い傷の数々から、紫色の冷や汗が滲み出てきたのは間もなくのこと。深々と頭を下げた後、指揮官は場を逃けた。投影機の準備が整い学者が事の詳細を語りだす頃、隣室に寝かせた赤子が泣き出した。茶の間を立つ間際、どうせまた総辞職でしょ、と女の声がした。妻かと思えば、電脳機器《素股本》の画面に表示された二次元少女ベロリンガ女中の呟きだった。

 妻は実家に帰ると言ってきた。公務の都合上、侍は地元を離れられないのだった。
 洗面所で顔をすすいで鏡を覗けば、眉間にぱっくり生傷が開いている。
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