何かの帰りを待っている子どもがいる。夜の自家菜園に立ちすくむ影がある。
彼の髪の弾む毛先が金色に見えるのは傾く月のせいだ。艶やかだが、触ればキューティクルが剥げかかり、指に絡まる。もがけば切れ毛になって肩に落ちる。散ったふけすら、月の下で綺麗に映える。
草の羽ばたく茂みを抜けて、彼は寝間から逃げるようにここに来た。
狸が出る、薮蚊に刺される、蝙蝠に突っつかれる。悪戯な祖母の吹聴も無駄に終わった。彼は馴染みない田舎の夜を恐れともせず、サンダルが肥やしで汚れようが、シャツに野蒜の髭が引っ付こうが、にべもなく畑地を突き進む。
この先に海があるよ。
――彼は間違っている。
家宅を囲む茂みの向こうに岩礁が敷かれ、晩夏の夜は特に凪ぐ海。それが臨めるのは南のかの地にある彼の母親の生家だ。八方を吾妻の山並みに鎖されたこの家に潮騒は来ない。
着いて早々高熱を出し、浮かされてもなお、彼は海が海がと唱え続けた。祖母は幼い頃の息子を思い出し、茄子の味噌汁を沸かした。眉を顰める彼を見て、好けなもんは継がんかったか、と目を丸くした今晩の夕餉のとき。茄子を箸で避け、汁だけ啜った。
こら、行儀が悪いぞ。音を立てるな。
若い母親が家を出、地上三十階建ての高層マンションの一室に取り残された彼。ビル風に乗り上空までせり上がってくる都会の汚れた空気から、彼を守りたかった。離婚調停が進むなか、突然に気管支を病んだ彼を救いたかった。
彼は徐々に誰かに似てくる。その誰か、もかつて茂みの向こうに海を見ていた。十歳のときに海兵だった父親が蒸発した。船の事故に遭ったとも異国の海で斃れたとも聞いた。父親は誇りだった。数年前に興信所から真実を聞かされて以後、私は潮騒を聞けなくなった。
名もなき雑草のうえに立ち、波で潤う風を待つ少年がいる。彼はまだ潮騒を聞けている。母なる颪に抱かれ、遠ざかっていく少年の背中。潮騒は別れた妻の呼び声だ。
私は彼の誇りになれなかったのか。
底冷えに堪えかね震える肩を背後から叩かれた。
おんめ、こんだとこで何しとんだ――
――ユウが、あそこに。
母は私を憂いな目で見つめ、首を振った。
おるわけねべ、明海さんとこさ引き取られたんだろ――
妻子に逃げられ独り帰郷したことを思い出すと、私は母に伴い、とぼとぼと家宅に戻った。
口の中に苦々しい茄子の味が蘇る。父親の好物らしいそれは、未だに好きになれない。
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