何もかもが嫌になった。
訪れた《水鏡の泉》には薄く霧が立込めていて、すでに来た道も見失ってしまった。
白と青の絵の具に水晶を緻密に配合しないと生み出せないような水面を、覗くように僕は四つん這いになった。泉の水は透き通っていて、飲んだら美味しそうだ。でも、底に石や水草は翳も見せない。濁っている訳ではないのに、深みは灰色にくすんでいた。
僕は上着のポケットから、国枝里香の為に買った指環の包みを取り出した。彼女が受け取らずに終わってしまった。彼氏がいないなんて戯けた嘘に引っ掛かった自分が悪いのか。いや、彼氏がいようがいまいが関係ない。当たって砕ける覚悟で行けば、普段接している時の朗らかな彼女であれば、この気持ちを受け取ってくれるはずだ。……そんな期待は虚しく、僕は当たって砕けた。
行き先は決っていた。夏期課外だからといっても、明日からどんな顔で学校に行けばいいか分からないから、逃げるしかなかった。そして、辿着いた《水鏡の泉》。何処とも繋がっている不思議な泉。
午前零時に剃刀を咥えて……そんな都市伝説があった。水の予言。水は記憶を持つと聞いたこともある。
僕は水面を覗き込んだ。僕の顔が映る。大して悪くない。整っているじゃないか。何処が悪い……身長だ、身長のせいだ。
“ああ、そうだ。顔は悪くない”
水面の僕が勝手に喋った。目を丸くしたこちらとは裏腹に、静謐な眼差しを向けている。その顔に……恋をしてしまいそうだ。
“私のことが好きなのか”
水面の僕=彼の声は女の声に変わっている。ああ、惚れてしまいそうだよ。喘いだ僕の顔に冷たい水が、ぴしゃり。
“私は貴方のこと好きではないの”
彼の肖像はすうっと消えていく。待って、待ってよっ。僕は水面に手をつけた。電気がぴりりと走った。僕は彼を追って、身を投げた。冷たい水に包まれ、苦しくなる。彼を探そうと顔を上げた時、水の揺蕩いに幾つもの男の顔が見えた。
太宰治……藤村操……。《水鏡の泉》は何処にも繋がっている。玉川上水とも華厳の滝とも……。入水自殺した者たちの世界なのだ。水の記憶が、彼らの顔を映し出している。苦しい。泡で乱れる視界の先に、国枝里香の顔が見えた。
そして僕は知った。何処とも繋がっている……。それは例えば女子が補習をしている学校のプールにも……。
僕は漸く水面からこちらを覗く彼の顔を見つけ、腕を伸ばした。それは国枝里香によく似ていた。
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