「いつまで溯ろうか」
探査艇にとって内蔵スピーカーから聞こえる声とは、人間でいえば頭のなかで直接鳴り響く幻聴のようなものかもしれない。《うみ》はその煩わしさを、人間に近い感覚として抱いたわけではなく、精神感応DBの座標上の位置づけとして弾きだしたにすぎないが、ひとしきり喋りっぱなしのナビゲーターについてはそれ以外の認識をしていなかった。しまいにはナビゲーターは話の軸をぶらして、どこまでも過去を遡及し始める。《うみ》にとって現実はグラフィックだが、過去はデータでしかない。そうでなくとも人工知能である。人間の乳幼児――〈チゴユリ〉の〈チゴ〉とは幼児のことだというし――ほどの学習能力をもつにすぎないのだ。
海底巡航探査機〈チゴユリ〉はマルチビームで地形図を取得しながら、水深八百メートルを突き進んでいた。ナビゲーターから与えられた第一の課題は、近辺に生息する希少な珊瑚を採取することだったが、見渡せど珊瑚は姿かたちも彩りさえも見当たらず、エメラルドグリーンの藻で覆われた隆起する海底が広がるばかりだった。
「あれはずっと昔の話だよ。地震を探知すると、それはもうけたたましい音がケータイからもテレビからも鳴り響……」
なんの話だろうか。幻聴の話だったろうか。
水深測定用のマルチビームをグラフィカリーソナーに切り替える。地質調査用のサイドスキャンソナーと撮影した高解像度写真を同時解析することでより鮮明な実像を記憶することができる。もっとも海底を画として認識する必要のない《うみ》にとっては無用の技術だ。ましてや、それを必要とする人間ですらきちんと存在しているかどうか不明なのに……。
「探査機のソナーは音を出すね。それで聴覚障害になったイルカもいる。同業者で海は静寂の世界と謳える人間はいないだろう。水は空気以上に音が」
そのとき、〈チゴユリ〉の腹のセンサーが高温を感じた。同時に磁場の乱れも感知した。海は小さな分子でできているという。まるでその微細なものどもが一斉に震えだしたようだった。耳、というよりは全身で感じる轟音、人間だったらそう表現するかもしれない。
「海はみずから身を投じるから優しいし暖かいのさ。奴の方から迫ってきたら、どうしようもない」
ナビゲーターはまだ喋っている。「両親と友人が、流されたんだ」
音がやんだ。水の動く音が尾を引いて去っていった。ソナーの小刻みなリズムが反響してくる。イルカの耳をつぶした音だ。
「人災だったら恨めるよ。けれど天災じゃあどうしようもない。地震大国だからって諦めるしかなかった。いつかこの国は地殻変動で海の底、そんな冗談はいまじゃあ通用しないかなぁ」
ソナーが表土に突き出た何かを捉えた。簡易解析すると動植物のようだ。あまり他では見たことのない種である。〈チゴユリ〉の速度を緩めて近寄ると精細に観察できた。紺色の脈が浮く二枚の青い花弁と間に突き出た二又の茎。《うみ》は解析を始めるのを忘れてしまっていた。故障でもないのに動作がとまってしまった。もしや人間でいう、見惚れるという現象ではないのか。
「おや、ここは僕の故郷だよ。懐かしいな。あ、この山稜。見覚えがある。磐梯山だ。だとするとその花、あぁ磐梯鍬形だね。ここでしか咲かない花だ。よく観に行ったな、裏磐梯の国立公園。瑠璃色の五色沼。コバルトブルーの神秘」
ふたたび振動。熱。磁場のゆがみ。
〈うみ〉の脳裏にナビゲーターの声だけが響く。
「逃げられないのさ。ぼくやきみはこの世界に住まわせてもらっているだけなんだから。主は自然そのものなんだから。水没しても火山は火山、磐梯山はまだ活火山の役目を終えちゃいない」
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