あらすじを読んで分かるとおり、物語は三人の女性を中心に、それぞれの生き様の交錯を枠物語の体で描いています。
いちばん外側の枠は、水野美紀演じる刑事の女。
幸福な家庭を持ちながらも、浮気を重ねる女が、廃アパートの一室で起きた猟奇殺人事件に遭遇するところから物語は始まる。
この猟奇殺人事件というのが、実に乙なもので……。
監督曰く、乱歩の雰囲気で、というように、四肢を含めた女の肉体を分解し、欠損部分を少女の人形に挿げ替えるという、もう乱歩フリーク、エログロ崇拝者の俺からしてみれば涎だくだくの導入ですよ。
どんなド変態が、どんなキチ美学を魅せてくれるのか、と楽しみにしてたんですけどね……。
とはいえ、宣伝でも触れられているとおり、本作は実在の事件を基にしている。
描こうとしているのはあくまで人道内での歪み、であって、複雑怪奇・猟奇煽情の類ではない。
そもそもミステリの導入でありながら、その真相自体は割りと想像が付くというか、あらすじを読んで思い浮かべた様相のまんまで、捻りもなにもない。したがって、そういう見方は相応しくない。
では、この事件が物語に如何なる作用を及ぼすのかというと、蟻地獄さながら、女刑事を呑み込む、言うなれば“城”の門となる。
事件を追ううちに感化されていく刑事なんていうと、『自殺サークル』をどうしても思い返してしまうんですが、あちらが〈
深層心理の奥底に潜む衝動を引き出すための不条理な事故〉、と言ったところ、本作は〈
自覚的でもあれ、もがけばもがくほど没して行く慢性的な病〉と言えるでしょう。
ここでいう女刑事というのは、第三者でありながら、性欲地獄のすぐほとりを彷徨している女性たちの代表な訳ですね。
あれれ、でもそんなこと言ったらむしろ他の二人の方が合ってるんじゃないの?と思われますが、問題は原理が備わっているか否か、です。
さて、こっからが本題。
二人目の女は、神楽坂恵演じる作家の妻。
秒刻みで夫の帰りを待ち、ミリ単位で身支度を整える伴侶を演じながら、性交渉は特に無く、夫の自尊心を慰めるだけの下僕同然。
暇を持て余し、スーパーでパート働きをし始めた矢先、モデル事務所を営んでいる女からスカウトされる。
この事務所ってのがエロ動(どんな略し方じゃ)会社で、言葉巧みに美貌を持て囃されるうちに、男優に組み伏せられてしまう始末。ここでこの女の最初の転落が描かれる。
過剰なまでに抑圧されてきた性欲の捌け口を得た女は、夫の目を盗んでブランド品を買いあさり、女としての武器を自覚し始め、ますます性の刺激と快楽に惹かれて行く。
三人目の女は、冨樫真演じる、大学の助教授という権威ある職を持ちながら、夜は娼婦として男と金を貪る女。
同大学の教授であった父親に、近親相姦然とした愛を持ちながら、それを拒まれた経験と、富ある母方の家系からは疎まれている立場との板ばさみで、鬱屈した結果、立ちんぼとしての極致を迎える。
というように、二人の女については性に溺れて行くプロセスが描かれるが、冒頭の女刑事については性への飢餓というような漠然としたものしかない。これは理由がないと同時に、
普遍的な視点であるということを体現しているのだろう。
つまり観客は、刑事の目を通して事件に触れ、二人の女を知り、感化されていくのである。
だからこそ言葉足らずの描き込みは、
余白として機能する。
水野美紀のヌードあり、という鳴り物入りで宣伝されていながら、実質、それ自体に意味はない。
むしろ、水野美紀である必要性もない。
水野美紀の凛としながらも疲弊している佇み、と、下手な性のるつぼの対比・ギャップは面白いが、そこまで真摯に受け止める役としては活かされていない。直接的にストーリーに関連して行く役どころではない上に、主役として割り付けられ、なおかつ他二人に演技面でも食われてしまっているようでは、ヌードありき、話題性のためだけの撒き餌でしかないと思われても仕方がない。
しかし、その空虚な役柄が、前述したとおり
感情移入の吸収率を高めていることに機能しているのであれば、文句は無い。その点、成功とは言えないが、かえって二人の女を強調させられているのだから、これはこれでいいのだと思う。
問題は、二人の女である。
小説家の妻が、とある優男風の鬼畜男子に弄ばれた直後、くだんの助教授と知り合って物語は動き出す。この瞬間に、繋がり合うものを感じた二人の関係は一気に深まって行く。
猟奇事件の当事者と共犯者(関係者)という点では、前作『冷たい熱帯魚』でいうところのでんでんと吹越満の役どころと重なる。
師弟関係と、やがて反目し合う結構。
しかし、『冷たい熱帯魚』では、ごくごく平凡な男が悪魔の姦計によってどつぼにハマっていく部分が、ドラマとしての推進力になっていたはず。
本作の構造こそ『冷たい熱帯魚』と同型だが、序盤に狂気があるとないとで見方が変わってくる。小説家の妻の狂気は、悪魔(助教授)と出会うより以前に一度頂点を迎えている。以後、助教授の人間性に惹かれてはいくものの、肝心な〈仕事〉の場面になると、小説家の妻は懐疑的であり、半ば脅される形で従うまでだ。
つまり本作の場合、
狂気の収束、としか見えない。収束した狂気は、デリヘルの仕事にも手を出した結果のカタストロフとして、山場でより遥かな高みへと至る。一度は快復した理性が、二度とは届かない距離まで離れてしまう瞬間だ。
物語の構造としては深みを加えられたように感じられるが、見たままだと単なる紆余曲折にしか思えないというのが難点。
神楽坂恵が最も輝いていた瞬間は、騎乗位のシーンでも、放尿シーンでもなく、スーパーのシーン。一度だけ関係を持った男が懇意をひけらかして再び現れた場面。金を要求する彼女に向かって、男が「変な女っ」と毒づいて去って行くと、彼女は小さく手を振るのである。
この些細な描写は、神楽坂恵の演技というより、その素質と引き出す演出の才だろう。
女というものの
強かさと、健気さ、可愛らしさ、恐ろしさが、都合二秒足らずの1シーンに封入されている。
だからこそ、序盤の全裸で鏡に向かい試食販売の自主トレをするシーンなど長ったらしい
サービスショットにしか思えないし、あるいは神楽坂恵を娶った監督の落とし前を見せ付けられたに過ぎない。
一方の助教授についても、作中で最も背景・出自が語られる人物でありながら、最も謎を孕む人物で、彼女の正体を明かすことが裏テーマともなっている。
しかし、一部にはばれているとは言え、大学のキャンパス内での行動がすでに淫乱で、秘密裡の娼婦活動という点にそもそも
説得力がない。原因となる父親との関係についても、話を聞いているだけで近親相姦の臭いは確か。
父親は彼女をモデルに絵を描いていたと事前に明かされ、終盤裸の彼女を描いたデッサン画が登場するのだが、予想の範囲内なのでカタルシスはない。
これを改善するのは、たとえば、数あるデッサン画のなかで、裸体ではない彼女が正面を向いて笑んだところを描いた一枚があるのだが、これをもっと事前に出しておくべきではないかと思う。
彼女の狂気の発端が父の死にあった、その悲嘆の暴走であったとされれば、そこには
僅かながらの同情が生まれる。
彼女のなかに流れている穢れた血を肯定的否定的どちらに撮る意図があろうとも、近親相姦の臭いは最初から出すべきではなかった。無論、彼女の振る舞いを見れば想像に難くないが、くだんの一枚はそれを
否定することが出来る。否定されることで、観客たちの視線も彼女の心情を理解しようとする。まだその余地はあるのだと思える。
だが、実際はそうはなっておらず、徹頭徹尾、彼女は淫乱な女のまま生き、そして死んでいく。デッサン画についてもアリバイ的に登場するだけだ。
これはもはやドラマではない。書割だ。
というように、致命的だったのは物語の根幹を握る二人の女の描き方についてだった。
無駄な勘繰りや、装飾を排除した結果なのかもしれない。だが、カフカの『城』や田村隆一の詩など、
理論武装ならぬ衒学趣味を呈した映画として、それは身勝手な話だ。
また、タイトルにもなっている『恋の罪』。
原典では罪=クライムだったものが、本作ではギルティに替えられている。
ならば、クライマックス。
あの現場に作家の嫁が居合わせてはならないだろう。売春という犯罪行為を差し引いてでも、
クライムの要素は剥ぎ取らなければタイトルは成立しない。
そのような具合に、本作の脚本には
丁寧さが欠けている。
周到さ、と呼ぶべきか。
もっとも細かいとこを探せば、たとえば小説家である夫がなぜ毎日出勤していくのか。書斎が外にあるのだろうが、彼がする仕事とは朗読会やサイン会ばかりである。そして肝心の執筆は場末のブティックホテル(らしき場所)。部屋を借りているのかもしれない。だとすれば、妻が入室する前に気付かないというのは流石に無理がある。
【追記】この設定に関しては、まさに『奇妙なサーカス』に通じるところがあるだろう。そこら辺の関連を紐解いて語ると面白い気がする。機会があれば……。
他にも、クライマックス直前、くだんの猟奇殺人の犯人が明かされる場面。
前述した助教授のデッサン画が登場する前後だが、奥まった部屋に首吊り死体があることで警察が騒ぎ出すという一連があるのだが、ここの演出が意味深に引き伸ばされているため、過剰に苛立ちが募ってしまった。
首吊り死体の人物が誰なのか観客にはとうに明らかだし、それ自体に物語として大きな意味も無い。自発的にか強迫されてか知らないが、単に事件に巻き込まれた人間が首を吊ったまでのことであり、解決としての意義はない。デッサン画の羅列といい、
こけおどしが過ぎる。
【追記】ミステリとして観た場合の、犯行の論理が作中もっとも浅い部分であることは言わずもがな。作品の性質を観るかぎり、あえてぼやかしているに違いない。それでも山場として成立しているのは、大方斐紗子の怪演があってのものだろう。
さて、シナリオについてはまだまだ語りたいことはあるものの(特に男性陣の描写や、チャプターに分ける意義など)、紙幅が付きそうなので端折る。
代わりに、ひとつだけ付け加えておこう。
インタビューでは本作が
「女性賛歌」であると謳われている。女性の皆さん、如何だろうか。
俺は男性であり、男性のなかでも特に男性(何言っているか分からん)なので、女性としての視点や価値観には理解が及ばない。けれども、本作が根源的な女性の姿を描いているとはどうしても思えないのだ。
俺は基本的に女性は純真なものだと思っている。あくまで基本的に。
それも女性だけではない。男性だってそうだ。
生まれながらにして純真さを欠いた人間など存在しないと思っている。人間は人生を謳歌するなかで、成長という
〈純真からの脱却〉を図って行くのである。
近年、恋愛に対する男女の違いを、端的に表した有名なたとえ話がある。
「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」
談義のうえの惹句に過ぎないだろうし、恋愛に対するスタンスをそのまま人生の道理に置き換えるには齟齬がある。あくまで参考として語りたい。
男は、幾つもファイルを持ち、それを出し入れすることで演じているように見せかける。だから時に原始的な感情である純真さが露になり、女より男の方が純真だと見なされることもある。
一方の女は、ファイルを一つしか用意していない。データの書き換えを繰り返し、メモリだけを溜めて行く。その経験から、女は一つのファイルを二つにも三つにも見えるように装う。
原始的な純真さが生のファイルとして残っている男とは対照的に、女はメモリとしてしか残っておらず、一見、純真さは失せているように見える。
しかし遡れば、如何なる女のファイルも皮をむいていけば中心には
原始的な純真さがあるということである。基本的に、女のファイルとは洩れなく
純真な少女のファイルなのだ。
この映画に欠けているのは、そんな
原始的・根源的な人間の純真さである。
ニュートラルなポジションを描かずに、堕落を描いてもそれは単なる
娯楽である。
エンタメである。
前作の『冷たい熱帯魚』では、主人公の娘が辛うじてその役を担っていた。だから父の説教も音だけはよく響いたのだろう。
しかし、本作には該当する人物が居ない。
女刑事も、小説家の妻も、助教授も、偽ることを知り、装うことを知っている。本心を抑制し、それに疲弊したからこそ、限界として不倫に走り、オナニーをし、性と金と死と言葉に飢えることになった。そこに純真無垢な少女の姿はない。
助教授の教え子でも何でもいい。少女をシンボルとして残しておくべきだった。現代において、そんな少女は存在しないというのは理由にはならない。人間はそもそも歪んでいるのだと言い張る
大人のいいわけにしか聞こえない。
また、最後になるが、園子温監督の描く
詩人――
――本作で言うと、助教授と、小説家である夫だ――は、皆、声を張る。
感情を声に籠らせ、声を嗄らしながら詩篇を読み上げる。
それは最早、朗読でも詠唱でもない。
講義でも、吟遊でも、活弁でもない。
演説だ。
演説を始めるエンタメはつまらない。
総括すると、エンタメから脱せなかった代わりに、中途半端に文学を齧り、その手に余った失敗作だと思う。
これは
バランス感覚の問題であり、前作前々前作はそれをクリアできていた。だから素直に楽しめたし、〈人間とは何か〉、〈生きるとは何か〉と思慮することもできた。
しかし本作は、そもそも
別世界の女の生き様を描いた見世物ファンタジーであり、それを寓話として語ることは出来ようが、にしても周到さに欠け、説得力がない。
寓話としてなら『奇妙なサーカス』の方がよりよく出来ているし、何より世界観がそれを体現しようとしている。ところが本作はリアリティとそれ以外の部分のバランスも不恰好なため、単に
浮世離れしたリアルとしてしか受け取ることが出来ない。
【追記】現実に起きた事件の歪みを喩えて描いているのであれば、もしか正しいことなのかもしれない。しかし、演出の撮って出し感が『冷たい熱帯魚』以上に、現実のパロディとしては浅薄に過ぎている印象がある。
B級スリラー、ケレンミたっぷりの『奇妙なサーカス』が、だからこそのカルト的な魅力を持っていたのに対し、テーマを物語に昇華するエネルギーを、猟奇殺人、立ちんぼの女だけに託すこと自体、無理があったのかもしれない。
したがって、俺のフェイバリットムービーである『奇妙なサーカス』よりは劣っているとしか言いようが無い。
あなたはあなたの関係者ですか?――
一貫する命題は不動で心強いが、作品としては力不足の一途。
評価の高い次回作『ヒミズ』の出来やいかに。
以上、『恋の罪』感想でした。
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