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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『冷たい熱帯魚』を観た。

遅まきながら園子温監督の『冷たい熱帯魚』を観ました。

噂に違わぬどころか、まあ噂どおり予想どおりのケッ作でしたよ。
実録犯罪物としての切り口ながら、そこは稀代の映画魔王(いま名付けました)、ブラックユーモアに溢れるその実はムププ必至の犯罪スリラー。

たとえば『羊たちの沈黙』がアンソニー・ホプキンス演じるハニバル・レクターに触れずに語れないように、『ダークナイト』がヒース・ロジャー演じるジョーカーに触れずに語れないように、本作もキャスティングと演出、役者魂の奇跡としか言いようのない悪役が登場するわけですね。
それが、でんでん演じる村田。
まさかですよ。まさかのでんでん。
なんでしょう。でんでん氏はもちろん色々なドラマや映画で見たことありますがね、本作で初めて会ったような気がしますよ。もうでんでんじゃないです。村田です、この人。

すごいなあと思いましたよ。役者としてではなくて、その個性。村田という人間はなぜこうも可笑しく、こうも怖ろしいのかと。憑かれたよう、だなんて修飾では足りない存在感、実在感に驚きましたし、愉しめました。
さながら作中巻き込まれていく人々と同じようにその人間味に惹かれ、ずるずると暗中へと引きずりこまれていくというね。特に詐欺の手口ですよ。爽快なぐらいに巧い。あんなに、映画観ながらにやにやしっぱなしだったのは初めてかもしれない。
並みの性欲、物欲、欲望の諸々だったら笑い飛ばされて終わりだろうね。狂気だなんて浅はか。それらすべて邪な人心の暗部であるなら、村田は間違いなく無邪気だ。それこそ父親から虐待を受けていたという設定もあるようだから、“大きな子ども”なんでしょう。歪んだまま成長してしまったと思しき設定は、蛇足かなんて思ったりもしますけど、僕はあってよかったと思いますね。

要は、この映画は未熟な親子関係、あるいは家族の連なり重なりなんですよ。
主人公・吹越満氏演じる社本は三人家族。前妻との娘、後妻。その生活は破綻ぎりぎりをどうにか維持しているような形で、社本本人はそれに立ち向かうことなく凡々と綻んでいく家庭に屈し続ける始末。
母親っちゅう生き物は煙草吸わない!なんて理由で、後妻をボコしたこともある娘は挙句の果てにスーパーで万引をする始末。
後妻は後妻で、冷凍食品を叩き買い(?)するほど投げやりな家事をしていたりする。スーパーで手当たり次第に既製品を籠に入れていくシーンからこの映画は始まるんですね。もうこのシーンのリズミカルなことと言ったら、まさにSONO SIONフィルムの真骨頂ですよ。
というように、核となるべき主人公家族がこの有り様。
ここで要注意なのは、この家族、特別リアリティの欠けた要素はひとつもないんですね。父親が新興宗教に没頭していたり、後妻が超絶エロ女(ただし体はTHE神楽坂!)であるわけでもなく、娘がカリスマロックグループに傾倒して自殺サークルに云々があるわけでもない。至って、ふつうの家族。
つまり修復は幾らでも出来そうなのに、それを怠ってきた結果、どんな突飛な設定よりも沈鬱な家族関係を築いてしまっているというところからこの家族の墜落は始まります。
まあ主人公がなぜにあんなボンキュウボンな肉体の若嫁と再婚できたか、という最も説得力いる部分について説明はない。そこが突飛な設定とも呼べるかもしれないのだけど。

一方、村田はどうかというと。
妻がいます。妖艶な妻。ただし、この妻。村田のことを村田としか呼びません。あなた、とは呼んだかな。ただ主人だとか旦那とかは呼ばなかった気がします。あまり自信はありませんけど。
で、もちろん子どももおらず、じゃあ誰が子ども代わりかっていうと、経営する熱帯魚店のアルバイト(タイプ、容姿、果ては国籍までなんとなくばらばらな感じがする女子数人)だったりもしまして、結局のところ、村田家は基盤がビジネスパートナーという関係性の上に成り立っていたりします。
村田の出は前述したとおり、父親から虐待を受けていたと思しき境遇で、その父親は山のなかに建てた掘っ立て小屋をマリア像やら磔刑された基督像やらで飾って引きこもっていたという、いわゆる基地の外側にいた人物だと語られます。
つまり園子温監督がこれまで描いてきたような、過剰な信心により狂気にまで発展してしまった人間。かくいう村田自身もボディを透明化する際は燭台に灯をともし、所定の位置に置いておくという儀を守っていたりします。
ただ『自殺サークル』にしろ『紀子の食卓』にしろその後の先行作品のように、第三者が感化されて自発的にダークサイドへと落ちていくわけではない。徹頭徹尾、村田という強力なキャラクターの吸引力によって強制的に引きずり込まれていくという不条理。皆の心にもある暗部ではなく、皆にも訪れる不条理という点、これまでとは異質な気がします。これまでは新興宗教というマクガフィンによって、カルトホラーとしての着地にしか及んでいなかったのですから、またひとつ発展したなという印象。

そもそもこの作品にはちゃんとした家族が一切出てこないというのも象徴的で、被害者となる人物が複数出てくるわけですが、その家族とはヤァさんの血脈であったり、豪邸に独り住まいながら従順な手下がいますよというような、血は繋がっていないが絆だけは妙に深いという主人公一家とは転倒した関係。
村田の嫁にいたってはまさに性欲の虜というような女で、くだんのバイトの女子と蜜月な関係にあるよう(でないような)といった感じで、その上、村田の共犯者でありつつもその人格否定をしてみせたり、顧問弁護士とあんなことやこんなことしてみせたりと、真の主役といっていいほど暴れまくり。妻でもなければ、母でもなく、確固たる女としての生き様とくと見たりてな感じですよ。

ただですね、忘れてはいけないのがメタファー的に現れる家族像であって、村田を父とし、村田嫁を母とし、そして主人公社本を子どもとする、共犯関係ならぬ擬似家族関係だったりします。
村田は社本を自分の若いころそっくりだなどと叱責しつつも、自分のあとを継いでもらう者として社本を鍛えていくわけです。殴ったり殴らせたり、時に甘やかしたり、時に脅したり。
たとえばメインディッシュ(不謹慎か)のボディを透明にしちまう作業中、村田は社本に対して若干の優しさを見せたりするんですね。見てらんないだろ、離れて休んでてもいいぞ的な。
まあこれは村田お得意の詐術の一環かもしれませんし、さりげない一言を優しさと受け取ってしまう僕がおかしいのかもしれませんが、こういう些細なところに人間味があるという設定。さすが実録犯罪もの、という気もします。(違うか)

ゴア描写の最高潮、というかここぐらいしかグロい部分はないと思うのですが、ボディ透明化シーンはもうなんというかリアリズムを通して、笑ってしまうほどの惨状。都合三回登場するのですが、後半見慣れてしまった君!てか、俺!お前はそれでいいのか!みたいな。
当の村田と村田嫁がもう職人面でばっさばっさと切り分けた挙句、もう口で言うのも憚れるような話をしたりするんですね。顧問弁護士を透明化させるくだり、ヤったヤらないと鼻歌交じりで問答するところ。ぺろんとしたアレをポイッとか、もうね、狂気の真骨頂。本当に怖ろしかった。

そもそも村田と村田嫁に対する恐怖って、未知の恐怖に通じる怖さなんですよ。ただの狂気じゃない。かといい、寒気がするような理性で固められているわけでもない。どこからが本気でどこからが冗談なのか、分からないから怖ろしい。ここら辺は『ダークナイト』のジョーカー的です。
ところが、すべて計算づくであることも窺わせつつ、行方不明になった被害者の取り巻きたちが乗り込んでくるシーンでは綿密ながらすごく危なっかしい打ち合わせをして、その手口を曝け出したりもする。
超絶的な計算高さのうえで行われ、どこまで行っても釈迦の手のうえというジョーカーの画策とは一線を画したものという親近感があるからなお恐ろしい。だからといって弱みを曝け出すわけではなく、そんな場面もたくみに切り抜けていく村田の凄みを描くと共に、付き合わされて挙句により共犯関係を強めていく社本の墜落ぶりを描く。

やがて共犯関係は、前述の擬似家族関係を築いていく形で一度カタストロフィを迎えます。
殴り、殴られ、殴りかえらせてというスパルタな方法で、社本を焚きつけて行く村田たち。ボディを透明化する作業を受け継ぐ者として、あるいは墜落の最後の一押しである通過儀礼、とある行為を社本に強制させるのですが、そのおかげで遂に社本は爆発してしまいます。
そして、とある仕打ちを村田と村田嫁にするんですね。
ここで形勢は逆転し、話は山場を迎えます。
ここに至るまで父親然としていた村田が、車中、しきりに記憶のなかの実父に向かって懇願しうわ言を繰り返すというのも象徴的。父親像が未熟な大人、”大きな子ども”に過ぎなかったと分かるからくりを明かすと同時に、父性権力を社本に譲るわけです。村田と村田嫁をボディ透明化の舞台である掘っ立て小屋に運んだ後、いよいよ社本は自宅に帰り、歪んだままに生まれた父性権力をこれでもかと固持して、家族を囲もうとします。あたかも日常を取り戻す方法だったのですが、遅かった。家族間に入った罅は深まり、崩壊してしまうのです。
冒頭の食事シーン、あってないような家族の絆を記号的に築くだけだったシーンと符合するように、社本、後妻、娘の三人は食卓を囲みます。そして、冒頭でも描かれた、娘が彼氏に呼び出され食事の途中で立ち上がるという状況もなぞりながら、そこを臨界点として社本の歪んだ父性が爆発。娘と彼氏を車にたたき付け気絶させ、娘を家に運ぶと、倒れている娘の横で後妻をレイプする始末。

父性を発散させた後、幾許かの理性を取り戻した社本。物語はクライマックスを迎えます。
社本は掘っ立て小屋へ向かう車中、警察に連絡します。そこで言い放つ一言、“もうたくさんだ!”。これが社本の最後の理性だったのかもしれない。小屋につき、中では村田嫁が村田の亡骸を透明化している最中。
村田嫁という女は、とうに常軌を逸している人物で、圧倒的な権力、その場その場で絶対的な父性を持っている男を愛する狂人だった。彼女の社本に寄せる視線は、とても耽美でとても切なげでとても愛くるしいもの、心の底から愛する者を見る目。それは刹那の感情でありながら、深奥まで根付く本当の愛である。
一方の社本は落とし前をつけるつもりだった。
村田嫁を殺そうと彼女の頭を聖母像の置き物で殴りつけるが、致命傷にはならず、なおも縋り寄ってくる女ともつれ合いながら血の海を踊る。焦燥の果てに、村田は叫ぶ。“このケダモノ!”。
女はその一言で箍が外れ、さっきまで村田の亡骸を捌いていたナイフを握り、襲い掛かってくる。
血で滑り、逃げ遅れる社本。馬乗りになる女。そして女はナイフを……。

一番手に汗握るこのシーン。人間の愛とは至上のものでありながら、同等に無価値であることを知らされる非情なシーンでもある。

何とか生き延びた社本は小屋の外で待つ。すべてが終わったと茫然自失の折、到着した警察の覆面パトカー。下りてきた刑事は小屋のなかに走って行き、惨劇を目の当たりにする。
一方、社本はパトカーに同乗してきていた後妻と娘に気がつく。事情は聞いているのだろう。後妻はパトカーを下り、社本の胸に飛び込むように駆け寄る。

愛はまだあった。修復の可能性はなくはなかった。
しかし、それは可能性の話だった。とうに狂気に没した社本には遅すぎた。

社本は娘に歩み寄る。血塗れたナイフで娘の体をつつく。痛がる娘。やめろと怒鳴る娘。
「痛いだろ」
社本は娘を押さえつけ、叫ぶ。
「人生はな、痛いんだよ!」
「生きろ!」
社本はすべてに落とし前をつける。地に臥した社本を覗き込みながら、娘は叫ぶ。歓喜の声を上げて。
「やっと死にやがったか、くそじじい」
エンドロール。


とまあ、いつのまにかシナリオを追ってしまったわけですが、何故この作品が家族の話か。
それはこの物語が幾重にも不完全な家族関係を積み重ねることで出来ているからです。ラストシーン、社本を一笑する娘の言動。つまり、社本の持つ父性もまた、ただの権力でしかなかったと明かされる顛末。徹頭徹尾、登場する家族には愛がなく、見かけだけの繋がりだけがある。そのブラックユーモアはシュールレアリズムであり、圧倒的なリアリズムでもあるのです。
『冷たい熱帯魚』。意味深なタイトル。
冷水のなかでは熱帯魚は生きられない。熱帯にいながら芯から冷え切った魚たち。意味はどうとでも受け取れる。ただひとつ確かなのは、そこに補いようのない《温度差》があることである。
変哲のない家族間、猟奇事件を介して描かれる首謀者と共犯者、偽りの絆と鬱屈した愛、社会の暗部に紛れもなく片鱗は存在するであろう人間関係のなかの《温度差》が、人を狂わせることもある。それが笑いや恐怖に繋がることもある。性欲や破壊欲、独占欲でしか感じ得ない温度もある。

村田とはじめて会ったときの家族の表情。他人に見せる愛嬌とは裏腹に家の中では冷めきった関係。
結婚前の情熱を回顧する夫と、求められても拒む妻。
村田という圧倒的な熱に燻されて、妻は縋り、夫はその罠から逃れなくなっていく。
冷え切った家庭は沸騰した感情によって崩壊する。
どちらにしろ、《温度差》が縮まることはなかったのだ。


総評として。
点数をつけるとすれば、80点がいいところ。ちなみに前作『愛のむきだし』は95点。
村田をはじめとして各キャラクターの造形、演技、特に村田、村田嫁、社本は本当に素晴らしい。顧問弁護士と運転手もいい。社本の後妻、娘は幾つか難はあるものの本当にがんばっている。主要キャスト外れなしとは何たることだ!てな感じです。
減点対象は、都合のいいリアリズムのなかの傷が多数。
たとえば、社本と刑事がはじめて接近する場所が村田の経営する店の駐車場なんですよ。
おいおい見つかるだろ、ってのは野暮ですけど、さすがにねぇ。
あと、顧問弁護士の切り取った首を用いてひとくだりあるのですが、その首がなんとなく軽そうに見えるんですよね。実物感が足りなかったかな、と。
そもそもゴア描写が思ったよりも足りない、そのうえエロ描写も思ったより足りない。
村田嫁の絡みはもっと見たかった! でもムード満点なあの和室でのシーンだけでも見れてよかったよ。だから許そう。でも、後妻はもうちょっとできただろうに。三回ぐらい出てきますか濡れ場。んー、不完全燃焼。見せびらかすだけ見せびらかして押しが弱かった気がする!!! ただのヌードよりマシだけど!!!というのが最大の理由。
それからこの手の映画のエロ描写で、乳首を攻めないという規律。あるんだかないんだか分からないんですけど、ちょっと足りないですよね。最初に一舐めするでしょ。特に段階を踏まない、レイプだとか、昂奮のあまりにみたいなときはさ。
いや、レイプはしたことありませんがね。
『失楽園』でも大したことなかったからな。『蛇にピアス』はよかったのになー。もしかしたら俺の嗜好がマイノリティなのかもしれない。ほっとけ。

ただ面白いなと思ったのは、演技演技の合間に見えるちょっとしたずれというかリアルな描写。
たとえば、村田の部屋で村田が後妻の指から煙草を取る仕草があって、そのとき一回取り損ねたりするんですね。
もうひとつぐらいあったんですが忘れてしまいましたが、こういうアドリブ的な部分、この映画のよさ、本当に演技がかなりのバイトを占めていると思います。

ただ致命的なのは、やっぱりラストシーンと娘の造形なんですね。
がんばってると思うし、胸もやや大きいその体型にしてはむう……てなもんで(おい)
悪くはないんですが、急にあざとさが出てしまったんですよ。というのも、ラストの台詞と狂喜の仕草。これ逆だった方がいいかなと。
台詞を言った後で、だけど父親に対する愛のようなものを感じさせてくれるような表情だったら、まだですね、家庭崩壊の悲しみが娘に受け継がれたことで悲劇の余韻も味わえたんですが、観たところそうでもない。本当に愛はなかったように描かれている。
だったら父親が死んで、それを確認して、喜びが溢れて、発散した後に、一言。暗転。とした方がどれだけ娘にとって父親が下衆であったか、娘の感情が表せたと思いますね。なんか台詞ありきな気がして、感情の方が先に出てきて欲しかった。現行ではいきなり学芸会っぽくなってなんだかなあと別な余韻に浸ってしまいましたよ。惜しいところです。


とまあ、いつもながら長々と書きましたけど、僕は別にこの映画の元になった事件について知識はありませんし、興味も実はなかったりします。まあWikipediaを観たぐらいですね。だから、総体的には見れてないのかもしれませんが、映画として本当に見るだけの価値はある。それだけは譲れない。
ゴア描写もですね、なんというか、少ないものですよ。これぐらいのなら、ざらにあるというぐらい。
僕は実はスプラッタ系とかゴア描写のある映画、あんまり好きじゃなかったりもします。小説は大好きですが。絵として見せられると冷めちゃうんですよね。映像として見たくないから楽しめる。だから小説は好き。
そんな僕でも楽しめたから、これは本当に健全な映画です。
良い子は見ましょう。そして、トラウマになるのです。そうすれば猟奇犯罪は減る!!


ちなみに、続けて『ブラックスワン』も観ました。

もう、僕のテンション、どうにかなってしまいそうですよ。
良い子は真似しないように。
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