『天国』北野勇作:
都市の暗部を徘徊する出だしから、地獄の建造に借出された男の独白によって末端労働者の生活を描く。天国と地獄・光と闇との対比を通じて、社会奉仕の意味や浅はかな選択の愚かさに触れながらも、その本質はぼやかされる。まるで“先輩”が伝道師にも詐欺師にも見えるのと同様に。
『クレイジー・ア・ゴーゴー』飴村行:
RJが悪魔に魂を売ったのはミシシッピの十字路だが、本作の舞台は歌舞伎町の蕎麦屋である。虚構や現実逃避に神経質な男は誘いに来た悪魔を追い返してしまう。男の反応は真っ当だが過程と結果は不条理。虚構をも受容してこそ実現は叶うらしい。どこか逆接的だが。
【追記】
RJ=ロバート・ジョンソン。
『少女遠征』黒史郎:
独特なイマジネーションを連ねた隠喩世界を舞台に、少女の旅路を慌しくも軽やかに描く。強かさを得て行く少女の成長の狂言回しとして悪魔も登場。閉経を迎えて帰路に着くように、旅は人生、成長期、成熟期である。可愛い子には……という諺がこの幻想小説のなかには生きている。
『前奏曲』石神茉莉:
魔王ともIFとも思われる老人の存在を介し、失踪事件に娘が巻き込まれないかという不安が、女に暗い夢を観させた。しかし魔の旋律の奏で手が娘だと気づくや否や、闇は光に、現象は観念に昇華される。女と娘、どちらが悲劇でどちらが不幸か、ただそれだけは表裏一体のように思う。
【追記】
IF=イマジナリーフレンド。
『飛びつき鬼』岡田秀文:
鬼の子が大鬼に教示を受ける場面から、御伽噺としても楽しめる手触りながら、他作品にも登場するあの出来事とクロスすることで笑うに笑えない悲惨な状況へと収束していく。単なる子供だましではなく、あの出来事の複雑怪奇な様相をも封じ込めた、歴史・伝奇小説の見事な融合。
『父帰ル』奥田哲也:
作者の吸血鬼愛は言わずもがな、その神秘を際立たせる要素として人外の美が用いられることもしばし。本作でも面立ちの美しさが二者を分かつ要点となっている。吸血鬼がペット以上人間未満として定着した社会で、人間の方が順応していかなければならないという転倒が殊更ファニー。
『俺たちに明日はないかもね-でも生きるけど-』牧野修:
人を食っているのは無論タイトルだけではない。終末への畏怖、世相や日常生活から染み出るネガティヴな諸々を適度に描きつつ、不意に非日常に連れ込まれる。諦めるとはこういうことなのかとひとり納得し顔を上げたら、不思議とフィクションに救われている自分がいる。
『桜』田丸雅智:
このたびの震災でも桜を巡る奇跡がメディアに取り上げられたのは記憶に新しい。“幼き頃の良き夢”との再会つながりなのか江坂遊『花火』 を連想するが、本作の“良き夢”は裏切りもせず美景となって現れてくれる。しかし所詮は泡沫に帰すが宿命、幻想とやらを捕まえることはできない。
【追記】
同章に江坂氏の作品が録られているのは奇縁か、編者の意図か。知らん。
『そ、そら、そらそら、兎のダンス』皆川博子:
詩人野口雨情が生み落とした童謡の歌詞を題に引用し、兎たちとの不思議な戯れを描くメルヘンではあるが、その実、作者らしい毒と驚きで満ちている。さらりと、さも当然なふうに描出された人体変容の奇怪さは、流石『結ぶ』や『釘屋敷/水屋敷』の作者か。
子兎に限って身体が開かないことや、孕んだ格好が空豆に似てしまうこと、そもそも兎は多産・豊穣の象徴であることから、受胎告知であるという解釈も可能だ。あるいは本作の女主人公を逆ベクトルに扱うと『指』(単行本『鳥少年』所収)のような繊細で心をかじけた女のサスペンスになるのかもしれない。ちなみに空豆の花弁は兎に似ている。
【追記】
皆川女史だけ1ツイート以上なのは、仕様です。
『蛇平高原行きのロープウェイ』間瀬純子:
平野を行くロープウェイの索条となってしまった少女の異質なサヴァイヴァル。尾を呑む蛇だからといってウロボロス構造で語れるほど、解釈は容易でない。純心につけ込む男の誘いや、作中触れられる美醜の対比などはアイドルの隠喩か。とても巧緻な幻想小説。
『銀のプレート』藤井俊:
日常の隙間を見守る温かな眼差しが救いを呼ぶ。男が干渉したように、他者につくられた営みだと勘繰るのは聊か野暮だが、人工物の名称を刻む銀板だからこそ、名付けがドラマを生む過程に説得力がある。シンデレラストーリーの範疇にある突飛なオチからは物語の喝采が聞こえる。
『星を逃げる』宮田真司:
なんともない現実をなんともなく生きていると万象は束縛となる。「さぁ、うんと楽しいことを考えろ」と言ったPP同様の危うさを秘めているが、本作は制約に対する不必要な諦めから脱しようとしているまで。逃避を愉しむことが大人の余裕なのか、比較的、地に足がついている。
【追記】
PP=ピーターパン。
『窓』堀敏実:
どこか近世の童話然とした雰囲気に、好奇心を掻き立てる要素としてオバケヤシキ的な怪奇の手法を取り入れている。その実、現れるのは拍子抜けを狙ったアイディアストーリーの様相だが、際限なく“窓”を行き来する使用人の影を思うと、奇妙な余韻の喉越しが一層わるく感じ、いじらしい。
『時計は祝う』松本楽志:
夜の住人を目撃する話しとなると、各地の伝承や『おもちゃのチャチャチャ』などの童謡に至るまで枚挙に遑がない。人目を盗むのが常套だが、本作では祝うという目撃されることが前提である点、珍しいのかも。置き土産ならぬ持って行き土産を残すなど細部の微笑ましさが特徴的。
『一夜酒』江坂遊:
作中作に喰われる系。一夜酒とは甘酒の別称だが、むしろ後味は大人の苦味。ありがちな異郷訪問譚であるものの“長い夜”を軸にした切り返しや娼婦を表す“一夜妻”なる酒名など、洒落っ気がアクセントとなっている。まあ確かに洒落の洒の字に一を足すと、酒という字になるけれども。
『機織桜』黒木あるじ:
乞町、紛川、馬転町、月見半纏、菜抓衣、マサユメ草、阿修羅百合、泥煮坂、汁撒橋、そして他でもない“機織桜”。あまりに巧みな語調はもとより、これら造語(と思われる)描きこみに息を呑む。此岸・彼岸間の逍遙に同道している心地になって、読後しばらくは哀切きわまりない。
【追記】
“桜”のモチーフは去ることながら、前章《幻想のスパッリエーラ》における章頭の田丸雅智『桜』と章末の江坂遊氏の関係性と同じく、本作と同章末に収録されている倉阪鬼一郎氏もまた何かの因果か。
というのも、本作を読んで想起したのは異形コレクション中でもかなり初期に登場したSS、倉阪氏の『老年』(【ラヴ・フリーク】収録)だったからだ。『老年』もまた死期を悟った夫婦が桜の樹に思い耽る物語である。趣きは異なるが、相通じるものはあるだろう。
『約束』森山東:
何も判じなければ単なるファンタジー。だが解説で作者の意図が明かされた途端、がらりと感慨が綾を変え、心は強かに打ちつけられた。行事自体が目的化することなく、日常に生じる細かな思いが供養に繋がることを忘れてはならない。無論、精霊送りの風習は送る者のためでもあるのだが。
『空襲』深田亨:
ループする物語もSSの定型である。中でも本作のような使い方は稀かもしれない。世には後世に語り継ぐべき事柄がある。供養が墓参に限らず時と場所を選ばないのと同様に、過去の悲劇を風化させるのは時代の潮流ではなく、人の心。トラウマの克服とは忘却と似て非なるものなのだから。
【追記】
冒頭から繰り出される回顧録に、否が応にも野坂昭如『火垂るの墓』を思い出した。
そこから段落を経ることで、怪談ものに移っていくことが救いのようにも感じた。
まだ気持ちが温んでいる証拠だ。
『灯籠釣り』加門七海:
灯籠流しに纏わる平凡な疑問に、いかにもSS的な職人気質のアイディアと怪異を加えた逸品。精霊送りとは、いち側面だけを拾えば非常に無念な行為だ。せっかく還った魂と再び離別しなくてはならないのだから。子の声の対比が象徴するように、送る行為はやはり生者のためにある。
【追記】
“送る行為はやはり生者のため”。……断言してしまうと語弊があるかもしれないが、もう一方の側面からこのことに言及している『約束』~本作の流れは、素晴らしく絶妙なライン。まさにアンソロジー編纂の鑑。
『蛍硝子』速瀬れい:
SS集の先駆とも言うべき『夢十夜』を髄とし、その反定立としても機能する。淫夢を著した原典とは対照的に性のしるしは見当たらず、赤と青の位相や“百年”の引喩も異なる。弟の遺言が主人公を救ったように、ナラティヴの態が夢想へと逃げ込む自身を引き止め、現実へと牽引する。
【追記】
『夢十夜』(主に第一夜を参照されたし)
『墓屋』篠田真由美:
酷似と呼んで差し支えないほどに震災の模様を活写する傍ら、形のないものを形にする作家ゆえ提示できる遺族の嘆きと、救済の手筈。だが代弁者として気を許していると結末で反転を受ける。いまの苦難は先人が乗り越えてきた障壁に過ぎないと、恰も墓碑銘となって興亡の来歴が説く。
『一年後、砂浜にて』倉阪鬼一郎:
長篇バカミスの名残を感じる手法に目を瞠ったのも束の間、単なる叙述実験ではない意図が浮かび上がってくる。まるで形而上の感覚が形而下に描き出されるという風に、波から器へと、太字が図形を象り物語とリンクする。本書の成り立ちさえ包含しているシンボル的佳品。
『一つの月』タカスギシンタロ:
くしゃみからPANする演出にしても映像的な超短編。プシュケーが蝶と魂、二つの意を持つように分裂した魂の逍遙に思える。二つの月は異界の常套表現だが、一元論を啓示しながらも、一向に数の定まらない蝶と月の行方は付かず離れず双曲を描き、悪夢的な視野を授ける。
『忘れ盆・忘れな盆』小田ゆかり:
あまりにストレートな死者からのことば。創作であることを意識して読み砕けば若干のいけ好かなさがあり、リアルとメルヒェンのバランスも歪。だから不謹慎? 不躾な物言いだ。みまもることしかできないものに代わり、我々は選ぶ。多幸感と寂寥感の狭間にある未来を。
『望ちゃんの写らぬかげ』朱雀門出:
現実に起こる不可避の宿命を怪談の手法を用いて炙り出す。やれ祟りだ宿命だ、と札付きで語ると一種の諦めに近づくが、大切なのは“どうすればよかったか”ではなく“どうすればよいか”である。安直な気もするが、影が写ったかと見紛うラストが成就の証とも読める。
『その橋の袂で』矢崎存美:
伝承と言うよりか、作者不詳の散文詩をモチーフとしている。動物愛好家を悲嘆から救済する現代の神話だが、軽快な筆致に仕掛けられた叙述トリックで綺麗に騙される。端から端まで作者の個人的な、寧ろ普遍的な愛で満ちたファンタジー。ちなみに“バス……”は埃及のアレか?
【追記】
ATB(虹の橋)
バステト
『キス』峯岸可弥:
天使のキスとはよく言ったものの、身近な愛情表現である口付けが絶望から救う装置として扱われている。幾ら数多のことばや物語を重ねたところで愛する者とのキス一つには勝れない。キスが魂を交換する儀礼なぞと説く隙もなく、日常生活の1シーンを覗けば誰もが肯いてくれるだろう。
『おちゃめ』藤田雅矢:
既存のことばに新たな息吹を込めるのも作者の技だ。とは言え本作の場合、斬新な解釈を付加したというわけでも解体し再構築した云々でもない。形のない妖かしにそれらしい名前を授け、肉体と意味を与えたに過ぎない。現代の“座敷わらし”の系譜に配された愛情豊かな作品である。
【追記】
《みまもるものたち》という章テーマに絡めて語ることに不足していたか。死者という意味合いが横溢する中では一際浮いた存在ながら、環境の変化にかかわらず出現する怪奇ならぬ快気を呼び寄せるものもまた、豊かな生活を“みまもるもの”であることに違いはない。
『いつもの言葉をもう一度』井上雅彦:
本書に認められた《作者解説》/《感謝の辞》は編者の意図を知るうえでも貴重な情報源となった。中でも驚いたのは『京都宵』発表の陰にあった氏曰く“プライベートな理由”の存在である。というのも『京都宵』に収録された『宵の外套』を読了したときの奇妙な感慨――当時の編者解説に因ると“虚実入り交じっている”ことが所以に違いないが――何はともあれ、母から聞いた都市伝説の言及から始まる『宴の外套』が伯爵作品のなかでも取り分け、奇妙(としか形容できない)に印象に残っていた――その理由が垣間見えた気がしたからだ。
詳細は語られてはいないものの、本作と《作者解説》/《感謝の辞》から浮かび上がってくる隠された物語が琴線に触れる。無論、それは単なる感情移入でしかない。
霊媒をとおし交わされる此岸と彼岸に別れた男女を描いた本作では、上っ面のことばに依らぬ人間の思いの深さを知れるのだが、それ以上に《作者解説》で“ある時”と傍点つきで触れられている出来事、病魔で失った肉親――《感謝の辞》において、氏が“彼女”と呼んだ人物――の面影、“彼女”に対する氏の思いが透けて視えるような気がするのだ。とすればラストに発せられる霊媒の伝言は……と、これ以上は深読みが過ぎるのでやめておこう。
過剰な勘繰りを避けて語ろう。本作は霊体の類別に関する言及など《みまもるものたち》の章に収録された他作品を補完する作用もある。これぞ編者のお家芸。それ以前に国籍不明(混合と言うべきか)の舞台立てにしろ、作品内での参考文献の披露しろ“いつもの”井上雅彦作品であることは言うべくもない。
【追記】
長ぇよ。
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