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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『驚愕の曠野』/筒井康隆

驚愕の曠野―自選ホラー傑作集〈2〉 (新潮文庫)

目の前の現実、慣れ親しんだ世界観にわずかな亀裂が走るとき、総毛立つ戦慄があなたを襲う。〈とてつもない残酷さ・グロテスクさをもって、ほとんど生理的
な反応でパニックすらひきおこす〉(本書解説)と評された「二度死んだ少年の記録」。何度死んでも魔界に転生してしまう絶望的運命を著者十八番の超虚構で
描く表題作。読者の恐怖観を完全にくつがえす自選ホラー傑作集第二弾!

 これはよい本である。文学でしか為し得ない次元旅行『遠い座敷』、読む者の胸に傷と汚穢とむかつきを残していく『二度死んだ少年の記録』、間隙を狭めることで平行世界だかなんだか知らんが前衛キネマの華麗なるパスティーシュ『偏在』、トロピカル・ミュータント物の傑作『メタモルフォセス群島』、異形ミュージアム的に云えば“物語の魔の物語”である表題作というふうに、作者の膨大な短篇小説のうち取り分けグロテスクとトリップ感を催す好篇が堪能できる一冊。けれどぶっ通しで読んだら頭痛に苛まれてしまった。体には悪い本なのかもしれない。http://book.akahoshitakuya.com/b/4101171424


【収録作】
 『魚』
 『冬のコント』
 『二度死んだ少年の記録』
 『傾斜』
 『定年食』
 『遍在』
 『遠い座敷』
 『メタモルフォセス群島』
 『驚愕の曠野』



 川に遊びに来た親子三人が兇暴な魚たちに襲われる『魚』(昭和六十三年初出)は、まだ易しい。気の冷めてしまった夫婦のロマンを皮肉るというスタイルが、逆説的にかつては存在したであろう確かな愛の虚像を浮かび上がらせている。つづく『冬のコント』(平成二年初出)も同様だ。狂言回しとして出てくるボーイに最後は美味しいところを持っていかれるが、妻と浮気を疑う夫の問答が紛うことなき人の体温を感じさせてくれる。もっとも序盤から夫がイカレた気質であることがフォーカスされるし、末期には妻がスライムと化してしまうなど、行き過ぎた茶化しが披露されていくのだが、タイトルに恥じない落とし所が待っている。これは非常に親切である。ナンセンスなことに変わりはないが。


 さて、ここまでが平成二年刊行『夜のコント・冬のコント』に収録された二篇。つづいては平成五年刊行『最後の伝令』収録の『二度死んだ少年の記録』(平成四年初出)である。
 あらすじ・解説にあるような〈生理的な反応でパニックすらひきおこす〉はさすがにハッタリがすぎるのだが、変異後(というか自殺後)の賀沼少年の造形からして、ゾンビのパロディであり且つ『故郷は地球』も真っ青な怪獣像とも受け取れる。ちなみに逆引きにはなるが、津原泰水の『夜のジャミラ』を読んだとき思い浮かべたのが本作だったりもする。
 そもそも筒井康隆という作家がいじめ問題を真っ向から切り裂き、弱者に慈愛の手を差し伸べるわけがない。無慈悲な教師陣が描かれているからには、暴力問題など昨今賑わしい教育の現場に投入してやりたいぐらいだし、作中「あっ。この人、知ってる」からのくだりは高須道江と一緒になって笑い出してしまいそうになる。世田谷界隈のこととか、アイドル映画のこととかセルフ突っ込みが痛々しいというか……。細田守版『時かけ』から入った読者に読み聞かせしてやりたいぐらいだ。
 辛酸の挙句、呆気に果てるかのようなオチも含めて、ビギナーを篩にかける試験薬にはちょうどいい。


 時は遡り昭和五十六年刊行の『エロチック街道』から三作。筆頭は奥の間まで畳が傾斜し、そのまま拡張した畳敷きの空間を滑り下っていくというSFショートショート『傾斜』(昭和五十六年初出)。次元の隔たりがないという点では『遠い座敷』に通じる部分もあるが、こちらは迷宮風情は微塵もない奇想絵画といったところか。
 さて、ここからは傑作しかないゾーン。
 観測問題をあつらえたというか、『ウォッチメン』のDr.マンハッタンみたいな、というべきか、二組の夫婦間にある密かな情事の模様を庭を介したそれぞれの視点を挟みつつ、神の視点で俯瞰した趣向の『偏在』(昭和五十五年初出)。とどのつまりロブ=グリエを核とするヌーヴォーロマンのパロディに平行世界を組み合わせた感じといえば、半分は当たっているように思う。大して長くもないのに密度が濃ゆいと思うのは、凡人である読者が一回の瞬きのうちにひとつの世界しか認知できないからだろう。
『偏在』で切り捨てられた時空間の余白を、強引にしかし念入りに紡ぎ合わせたかのような『遠い座敷』(昭和五十三年初出)。見果てぬほど次元が拡張されているとはいえ、家屋に漂う雰囲気は息も詰まるような湿気と不穏。家に閉じ込められたと捉えるならば、同作者の名作『母子像』の首のない妻子もこのように異空間を感じているのかもしれない。

 
 つづいて昭和五十三年に刊行された短篇集『メタモルフォセス群島』からは二作。
『ソイレント・グリーン』放映および藤子・F・不二雄『定年退食』から二年後に発表された『定年食』(昭和五十年初出)。作者の 手にかかれば食糧難も人生の定年制度も、エログロナンセンスシモネタパラダイスな悲喜劇になってしまう。ペニスと睾丸の扱いからみるに、やはり作中のこの 時代、少子化問題なんてどこ吹く風だったのかしらね。ちなみにカニバリズムテーマは筒井作品でもよく出てくるため本作ごときでひいひい云うたらあかんね。 七北数人編『猟奇文学館3 人肉嗜食』の解説から引用すれば、ほかには『老境のターザン』『人喰人種』『蟹甲癬』『カンニバリズム・フェスティバル』など。ちなみに『人肉嗜食』には 『血と肉の愛情』が収録されている。
『メタモルフォセス群島』(昭和五十年初出)は、チェルノブイリも福島もまだ汚染されていない頃の作品。謂わば登場する放射能はゴジラを誕生させた類のものであり、3.11以降に福島上空に飛散したものではないのだろう。突然変異への警鐘を鳴らすとともに、その背後に隠されたトロピカルモンスター物として今ではB級ホラームーヴィーの様相をも垣間見せる。登場する変異生物のヴァリエーションは多彩で、肝心の習性はありがちだがクビ生物もコロンブスの卵的発想から生み出された代物。それらはすべて見応えはあるものの、個々のキャラクターを控えれば筒井作品にしては大人しいサバイバルホラーとなっている。


 さて、表題作『驚愕の曠野』(昭和六十二年初出)は、昭和六十三年刊行の同名短篇集に収録された。話を説明しようとすると、ストレスで白髪になるぐらい面倒な作品である。おおまかにいえば魔界を舞台にした伝奇モノなのだが、通底に流れたるは輪廻転生。また、それら物語は三百を超す巻に分けられていると思しく、冒頭“おねえさん”がこの長い長い物語を読み聞かせていることが明かされる。今にも332巻(影二の物語)に入るところで、読者は332巻に没入していくのである。
 徐々に巻が進むたび、登場人物たちは死と輪廻を繰り返し、枠の外にいるはずの“おねえさん”も死に(作品内の)語り手も変わっていく。やがて作品内で登場人物が書いたと思しき書物が発見され、それもまた読み継がれていく。
 ここまでの説明で本作がメタ構造になっていることが分かるだろう。つまり物語のなかに物語がある。しかし終盤、外縁にあった物語も内側に吸い込まれ、外側にいた人物が内包された物語のなかに現れて劇終となるのだ。物語自体に魔が棲みつき、読む者・読まれる者の区別を失くす。それこそ“物語の魔の物語”。
 ここでわざとらしく井上雅彦監修のメタ怪談傑作選『異形ミュージアム2 物語の魔の物語』から拝借したことと、解説で井上雅彦の名が出てくることは無関係ではない。
 解説では彼のことばを用いながらホラーの定義と、言語実験による恐怖の発生について説いている。一方、彼自身が編纂した書物を紐解けば、こんなことを書いている。

「ホラー小説を書く」という行為そのものが、そもそも、メタな行為なのかもしれぬ。
 メタな行為というのは、実に、洒脱な、批評的創造の行為だからである。
 実作で、多くの実験小説、メタフィクションを手がけている巨人・筒井康隆は、メタフィクションの本質をフィクションへの批評性と言及している。(『本の森の狩人』など)
 かつては戦慄とともに読まれてきた物語を、たかが「フィクション」であることを前提に、考察していく姿勢は、確かに、表層的には、恐怖を排除する。しかし(中略)これまで読者側が保有していた「こんな非科学的なことが実際に起こるはずはない」(中略)などという安心感――までも、はじめから物語内のフィクションであるなどと開き直られることによって、撤去されてしまうのだ。これぞ、メタフィクション内の罠。こうなると、読者は、よりリアルに物語に直面し、受け入れざるを得ないという状況に追い込まれてしまうことになる。ちょうど、悪夢の中で、これが夢だと気がついても醒めることの出来ない状態のように。
              『異形ミュージアム2 物語の魔の物語』解題より抜粋

 これを『驚愕の曠野』に当てはめて考えれば分かりやすい。この場合の読者とは、枠の外側に居ると思われていた“おねえさん”だ。転生が行われても進む先は四層に分かれた魔界(地獄)。そうして生まれ変わった自分の物語を読み聞かせようとしている。輪廻のなかで、それだと気がついても輪から抜け出すことは出来ないと知ったか知らぬか、“おねえさん”もまた誰かが書いた物語だと明かされ、魔界のひとつである唆界に旅立っていく(と書かれている)。
 その時点で、読者ということばは“おねえさん”以外のあまたの読者を指し示すことになる。そうして感覚ばかりは“おねえさん”とおなじ系譜を辿っていくのだ。つまりメタフィクションの罠へと。
 解題を引き合いに出さずとも、井上雅彦と『驚愕の曠野』ひいては筒井康隆そのものとの親和性はやはり言語実験への興味にあるだろう。これを語らずしてほかは語れまい。『異形ミュージアム2 物語の魔の物語』に収録された井上氏の掌編『残されていた文字』もまた『驚愕の曠野』と手法を同じくするメタ怪談なのである。


 以上、九作が収録されている。個人的なベストは読書メーターにも挙げた五作だろう。しかし、どれもこれも普段は目につかない精神の縒れを描いているなどし、とても穏やかな気持ではないのだ。頭痛もする。
 しかしこれだけは云える。そこに本があり、物語があるかぎり、フィクションを解体せしめようと罠をかけてくる批評の精神と乖離することはできないのだ。ページを開けば開いた分だけ、驚愕を持て余すだだっ広い曠野が、広がっているのだ。まさしく、かの六畳の座敷と同様にして。


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