手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『鳥少年』/皆川博子

鳥少年 (創元推理文庫)

 精神病院で受けた絵画療法によって絵の才能が開花した青年を巡る、病院関係者たちの心の闇を書簡形式で綴るミステリ「火焔樹の下で」、隣室をのぞき見た孤 独な娘を誘う異様な遊戯とその結末を語る「密室遊戯」のほか、初文庫化に際し、閉鎖的な地方に生きる少年少女の倦怠と残酷を幻視的な筆致で描き出した 「バック・ミラー」など3篇の単行本未収録作を附した16篇を収める。

 私の中に巣喰う狂気が、さまざまな夢を見させる―さらなる広がりと魅力を増した皆川博子の恐怖世界。妖しくも美しい、十三の不思議な物語。


「最後にひっくり返されたときに、わっ、これは怖いと思うような……。」そんな怖さを好む作家は各誌にこれらをばら撒いた。ミステリ、ホラー、どう呼んでもいい。本書における謎の肝は人間心理にあり、人間心理の謎は総じて怖ろしいのだ。たとえばおんなの怨念/勁さ、性別も年齢も厭わぬ嫉妬/狂気/耽美/自己愛、他者との疎通性を失った者の孤独/業の深さ、人の世の刹那さ/哀しみ/悪魔主義、情動の機微……悲運な作家の収穫されなかった落ち穂を啄めば、逆に心を啄まれてしまうよ。10年余の時をこえ書肆に舞い降りた、鳥少年の戯れとして。   http://book.akahoshitakuya.com/b/4488441025




【収録作】
「火焔樹の下で」
「卵」
「血浴み」
「指」
「黒 蝶」
「密室遊戯」
「坩 堝」
「サイレント・ナイト」
「魔 女」
「緑金譜」
「滝 姫」
「ゆびきり」
「鳥少年」
「泣く椅子」
「バック・ミラー」
「沼」





 さて、しばらく休暇をいただきました。F関連の著作に手を出そうと思っていたのですが、なかなかよき速度で事が進まなかったため、こちらに戻ってまいりましたよ。なにせ集める資料が膨大すぎるのでね。とまぁ、それはさておき、直近は筆者が愛してやまない作者群の著作を解釈していくがゆえ、より一層気が入るってもの。
 今回は満を持しての皆川博子女史。
 皆川作品を挙げるにあたっては、むしろ気が滅入るっていう表現が適切なのかもしれませんが。

 ここんとこまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで刊行ラッシュの皆川作品。
 その宝掘りめいた日下三蔵氏の働きぶりにはちょっと文句をつけたい節はあるんですが、いまはとりあえず喝采を贈る真似でもしときましょう。
 いや、まさかこのタイミングで怒涛にも文庫化の嵐とは夢にも思いませんでしたし、なにより単行本未収録作の併録というサービス精神! 嬉しいですよ。嬉しいですよ! いや、もう今回未収録作読了して感無量(それも長いこと夢想していた「バック・ミラー」が読めただけでそらもう……感涙)とはこのことですよ。ですがね。ですがですよ……つまり文句のひとつはこの併録に関してなんですが、いまは口をつぐんでおきましょう。

 さておき、本書『鳥少年』だ。
 そもそも99年に単行本が刊行されたいきさつ自体、70年~80年に発表された短篇作品がまとまってないからまとめたよというものなのに、それからまた10年以上経って文庫化という。あまりにあんまりな待遇。その実、90年代のものも含まれているのだが、参考にその初出を時系列に並べてみる。
【70年代】
 『別冊問題小説』77年8月号    「火焔樹の下で」
 『小説現代』79年1月号      「指」
 『問題小説』79年1月号      「滝姫」
 『小説現代』79年9月号      「魔女」

【80年代】
 『問題小説』80年6月号      「泣く椅子」
 『SFアドベンチャー』80年12月号  「バック・ミラー」
 『問題小説』81年2月号      「密室遊戯」
 『月刊カドカワ』83年7月号    「鳥少年」
 『オール読物』83年8月号     「血浴み」
 『問題小説』84年3月号      「サイレント・ナイト」
 『問題小説』84年8月号      「黒蝶」
 『問題小説』85年3月号      「卵」
 『問題小説』88年8月号      「緑金譜」
 『問題小説』89年1月増刊号    「沼」

【90年代】
 『問題小説』91年9月号      「坩堝」
 『毎日新聞夕刊』99年8月11日付  「ゆびきり」

 てな感じで、おおよそ80年代を中心に収められているというカラクリ。にしても、その文章の安定感、うつくしい日本語の数々を挙げるまでもなく、ひとつの短篇小説としての出来栄えの不変さにはただただ驚くばかり。
 進化がない、と言いたいのではない。はじめから完成されている、のだろう。そしてそれは常人の目には違いなどわからないくらいに洗練されてきている、に違いない。
 とりあえず、俺の目には約二十年の歳月が凝縮されているなんて思えはしないのだ。これらが今から20~40年近く昔に書かれたことすら、悪い夢のように思える。書いた当時40代~60代の作者でありながら、雑誌や新聞の端々にこれら痛ましい傷を残しつつも陽の目を見ることもない作品たち、そして今なお健在で、小説界の一線をひた走り、ようやくその疾走が何びともの視界に入ってきたことすら……なにか夢を見ている心地。少年少女、創造的狂気に囚われた人間たちが、思い描いた夢の、鋭く妖しげな切っ先を覗き見ているような……心地。
 感慨にふけるのはよしとして、内容をば。

「幻想文学」インタビューにて、小説における怖さとはなにかという質問に、作者はこう語っている。
最初から怖いぞ怖いぞというのではなくて、普通にすっと読んでいって最後にひっくり返されたときに、わっ、これは怖いと思うような……。(中略)合理的なもので隠されてしまっているけれど、理屈では説明できないような怖さに、一瞬パッと光りがあたった怖さ。
 作者の短篇(長篇もしかり、だが)はホラー、ミステリ、幻想小説などジャンル分別をする暇もなく、上述の好みがきっちりと反映されたものが多い。確かに本書に収録されているのは、ひとことでホラーや幻想小説とは呼べない作品ばかりである。事実、この世ならぬものが明確に登場する作品はひとつかふたつきりしかない。その他はおおむねサスペンスの類だ。
 しかし、
①「卵」や「黒蝶」における大衆演劇の舞台裏、「坩堝」の鋳造工、そして「火焔樹の下で」の精神病院、「サイレント・ナイト」のスキー場などの設定の妙
②「緑金譜」の『玉虫物語』や「沼」の僧と稚児の話、「滝姫」の〈鬼姫滝〉、「ゆびきり」における隠れ座頭の噂など、背景にあるもうひとつの物語との共鳴
③死者に化粧を施す「指」、間仕切りから隣室を覗きこむ「密室遊戯」、青年のパネル写真に囲まれて暮らす「魔女」などのうつくしき病たち
④書簡形式の「火焔樹の下で」、美文調の「ゆびきり」、ラテンアメリカ文学に火種をもつ「バック・ミラー」など紡がれる文章技巧
 見慣れた日常にこれらがさっと入ってくることによって、たちまち人工的な世界が構築されていき、なんとも形象のしがたい独特な小説は最後、時に首をかられたような衝撃と、淡い砂楼を眺む余韻、それぞれにうつくしき終わりを迎える。それを恐怖小説と呼んでも差し支えないだろう。モダン・ホラーとも、サイコ・スリラーとも、サスペンスミステリーとも。うつくしき終わり……作者曰く「最後にひっくり返されたとき」とは、どんでん返しともショッカー的なオチとも呼べる。つまり皆川作品では本質的にミステリとホラーの境界がない。ミステリ領域における謎は人間心理の謎であり、人間心理の謎は総じて怖ろしいものなのだ。
 なにはともあれ舞台は日常である。五感で手に入る情報が至極トリヴィアルに、且つうつくしい綾で織りなされたリアル、それだけの違いなのである。しかし、自らの日常が淡色すぎると悔しがってしまうほどに、皆川女史の築く日常は、刹那的で、うつくしく、末期的に、おそろしい。こんな日常があるなら、そら、世にも不思議なことがあって然るべき、あぁ、うらやまし。
てな具合なのである。

「火焔樹の下で」はもっとも目に分かりやすい技巧で愉しませてくれる、否、怖がらせてくれる逸品。傑作と語り継がれるのも、表題作をさしおいて本書梗概の筆頭に挙げられるのもむべなるかなという。
 舞台は地方にある古めかしい精神病院。狂気と天才的想像の関係について取材をしている作家・江森朔郎はとある婦人誌に掲載されていた『絵画療法』についてのエッセイに目をつける。記したのは精神科医・穂積桃子。彼女の勤務する病院に取材を申し出たことから、作家と病院関係者の交流が始まっていく……。
 患者・矢沢英二の存在はあたかも「頭を天に接し、脚を死者の間に踏まえた燃え上がる焔の如き一樹」すなわちタイトル「火焔樹の下で」とはハンサムな入院患者によって引き起こされる関係者たちの群像悲劇であるわけだ。より事態を混迷に導くのは、一方的に江森に投書を繰り返す同院の看護婦・小野和子。
 作品の大半は桃子と和子から江森に宛てられた手紙の文面、必要に応じて江森が著した『迷宮の住人たち』からの抜粋、カルテなどが挟まれる。本作を技巧的たらしめる構成の妙。
 中枢となるトリックの以前に、ひとつのミスリードを生んでいるのが和子の思いだろう。その書面からうかがい知れる桃子に対する嫉妬、江森への憧憬。上調子な文面から江森への好意を覗かせつつも、実は矢沢への鬱屈した思いの捌け口を求めたためで、医師の立場を利用して矢沢に最接近する桃子への反抗でもあるのだ
 そして、火焔樹を火焔樹たらしめる、一大事。さらにはその後の、カタストロフィ。新聞の見出しや距離が狭まった桃子と江森の電話口での会話、捨てられた手紙や投函されなかった手紙を通して、もう一つの絵、もう一つの事件ともう一つの真実。ここで明らかにされるのはミステリではお馴染みのトリックであり、一つ目のカタストロフィから生じる転換として成功しているとは云い難いものでありながら、重層的な悲劇の過程がより深く読む者の心を抉るのは確かだ。
 そして重大なのは一連のやりとりの受信者たるべき江森が、最後に明かされた真実を知らないという一点に尽きる。
 事件の終焉は、桃子の告白と返答を介して、悲劇の絶頂の一歩手前で桃子が発した「本当に、迷っているのです」のことばどおり、混迷の果て、桃子の精神がいかなる末路を選択したのか明かされる趣向。それが江森には知られることのないまま、読者だけに判る形で書簡と書簡の狭間の余白に沈黙として残り、とある文面が告げる大団円こそが真の狂気の発露であることを知らしめる。書簡小説の奇蹟的な成立。物語と構成と伏線すべてが結実する技巧の粋だろう。
 途絶え途絶えの書簡が、そのすき間の沈黙を明かさないように、人は他者との〈疎通性〉に苦しみながら生きる。だからこそ、火焔樹の絵を燃え盛る樹と人の顔とに解釈を違えるが如き、読者もまたその描かれた事件の図に秘されたべつの絵の共有者にさせられてしまうのだ。あたかも、“自分の見たいようにしか物事を見ない”作家の代わりに。

 作者興趣の本領とも云うべき大衆演劇の世界。紡がれるは、幻想が現実に食らいつく一瞬を捉えた「卵」
 手伝で来た若い役者・不二京之助が座長の跡目になるという話をなじみの客から聞かされた副座長。それ以来、化粧前に卵が置いてあるのを見る。副座長は諸々が頭から離れず、舞台中、口出て芝居のセリフをとちってしまう……。
 若くして優秀なものに先を越される失意、焦燥感。その力の差を立場や境遇のせいにして自身をごまかす副座長の愚かさに笑えるのは、さぞ心神の強い御仁だけだろう。
 誰しもの心にふと過ぎる魔、共感こそするはずだが、やっぱり彼の〈業〉には、あっと声を上げてしまいそうになる。彼の嫉み・妬みに共感する一方で、彼が手を血糊で染めてしまう間際に垣間見せられた両者のすれ違う思惑によって、さらなる苦悶。一度割れた卵がもとには戻らぬように。

 女の情念はおそろしい。本書では都度そのことが胸を斬りつけてくるのだが、まずは捨てられた女の悲しさで免疫をつけよう。
 武地耕次は、高校時代ミニコミ誌サークルの活動の折、広告料を援助してもらったことから名家の娘・有原夏代と知り合った。性に奔放な女として有名な夏代。一度結婚し出産しながらもなお浮名を流し、妊っては都度その子を産み育てていた。そして今夏、久しく会ってなかった彼女の腹はまた膨れていた。
 耕次は夏代と、傷心の須賀光子の三人で、バーベキューをしに夏代の所有する山小屋に向かう。光子は体の付合を知らぬ夫がいるが、誘われて抱かれた男に女の悦びを教わった矢先、その男に捨てられたのだという。
 買い出しに寄ったスーパーでたまたま見かけたひとりの男に夏代が詰め寄った。同伴していた若い女と去っていった男が、光子を捨てた相手だと察した耕次。夏代は「見たこと忘れてや」と言い捨てた……。
 夏代、光子が秘めた思惑こそミステリだが、ここで取り入れられたトリックはスーパーで出会った男との関係にある。彼は誰なのか、明かされると同時にその罪を受け継ぐタイトル「血浴み」による洗礼者の胎動が、女の〈勁さ〉を、こよなく怖ろしく、悲しく感じさせる。

 次いで「指」。女は男に抱かれることよりも、そのうつくしさに見惚れ、女としての孤高を求める。
 夫の浮気を知り、動転のさなかにいる依子は、昨年叔父と結婚した歳の近い嫁・美也の元を訪れる。式で一度目にかけたきりだったが、その勁い印象に惹かれた依子は、窶れた自らの心に踏ん切りをつかせて欲しいがため、彼女を頼ったのだ。
 美也が招いた部屋には二人の男が睡っており、依子が身の上話をしている間、美也は男たちの爪を切り、化粧をし始める。依子も勧められるがまま片方の男に化粧を施す。美也は化粧を終えた男たちを写真に撮り、依子はそれらが収められたアルバムを手に取る。その中には……。
 素顔を隠す濃い化粧の魔力とも云おうか。献身的に夫に尽くしている依子が何より知りたい夫の気持ち、それを美也に問わなければならない依子の気持ち。どれもこれもことばにしようのない感情の〈機微〉。あるいは、悩める女の深淵とも云うか。
 小指の紅は、空洞から溢れだした女としてのうつくしさか、血なまぐさい嫉妬心の残滓か。或いは、「華麗な狂気の世界」の爪痕のようにも思える。

 またしても大衆演劇の、ささいな悪夢。
「黒蝶」に登場する演者は若嶋城吉(65)、大月徳蔵(56)、立花知弘(35)の三人。彼らは若い座長が率いる藤川千冬劇団の舞踊ショーの助っ人に雇われた。特別興行が始まるさなか、舞台裏では二人の老演者のいがみ合いが、地味に齢を重ねた三十路の男の目の前で繰り広げられる……。
 歳の食った男同士が若くうつくしい演者を取り合う構図に埋もれて、歳下の座長に対する立花の〈嫉妬〉が示唆される結構。業に感化されたと云ってしまえば元も子もない。しかし、何を根拠にしても悪意は不意に現れ、ふとそのことに気がつく。

「密室遊戯」の主人公は、暮らしに倦怠を感じ、贅沢はしないということを自らに課し、肉屋の二階の狭い部屋に下宿しているわたし。
 ある晩、部屋の間仕切りと天井の隙間から灯りがもれているのを見つけ、覗きこむと隣室が見下ろせることに気がついた。覗くという行為には昂ぶりを、隣室で暮らす27、8の女に親しみすら覚えた。女は夜な夜な自傷行為を行っており、真似て熱したナイフを腿に押しあててみると、その痛みはわたしに倦怠を忘れさせた。
 やがて、もう一方の隣室に住む男へとわたしの興味は移る。同じ昂ぶりを味わわせてやりたいと思ったわたしは、わざとすき間に灯りを近づける……。
 途中挟まれるスナックでの男女の会話。それは夜のわたしの顔だと思わされる。しかし、その正体が明かされるラストの会話で、何が密室遊戯だったのか、わたしだけが愉しんでいた遊戯の閉所性がぐっと拡がる。同時に、わたしがあたかも密室に閉じ込められていた観察物であるかのような、冒頭に触れられているとおり、密室とは永遠すなわち連関していく〈悪意〉であるかのような推測に至る。

 編者解説ではホラー趣味が濃厚と謳われるのは「密室遊戯」だが、実読してみれば「坩堝」こそホラーの極致であることは一目瞭然。 
 ドイツと思しき国にハネムーンに来た季雄と友紀子は、宿泊したホテルで風呂の湯がぬるく少ししか出ないというトラブルに直面。フロントに駆け込んだ季雄が部屋に戻ってくると、ドア越しに友紀子の悲鳴を聞いたのだが、当の本人は詳しく語らず、昼間観に行った拷問博物館の影響ではないかという。季雄は、確かそこで目にした古めかしい拷問具やミイラからの連想で、以前に取材をしに行った鋳造工房の職人・御堂菁子のことを思い出したのだった……。
 怪異のカラクリは遺物とそれに込められた怨念であり、書き手が変われば単なる怨霊譚で終わってしまうだろう。しかし舞台立て、小道具、それらを軸とする情景の一切の巧みさにただ感嘆するばかり。
 友紀子が上げたちいさい悲鳴、どうして季雄は菁子を思い出したのか、などちいさな謎を用いて怪異と真実を導く手続きはもとより、ぬるくなった湯、魔鏡など道具としてしか機能しないものどもが〈怨念〉の結晶であることに気がついた時の戦慄ははかりしれず。また、読後にタイトルを振り返れば、弥立つどころか身の毛が焦げ尽きてしまうほどだ。

 悪意や、嫉妬、肉欲……これが天上界ならば罪悪として堕落の対象になってしまうであろう感情の持ち主はなにも成人ばかりではない。その感情がともすれば原始的に持ち合わせているものだと思わされる「サイレント・ナイト」
 舞台は客で賑わうスキー場。ロッジのホールでケイコの背中をかいているミキオ。ケイコとはさっき知り合った。ケイコはミキオの手を鎖骨へと手繰り寄せ、そこに出来た瘤に触れさせる。窓から落ちて折った痕だという。脇腹にはケロイドがある。自らナイフで切ったという。ケイコの両親は別居中であり、ミキオの両親はすでに離婚している……。
 そんな父と母が向こうで仲睦まじくなっていくのを見ながら、他愛なく会話する子ども。膚には触れるが、耽美と呼ぶには未だあどけないか。しかし、充分な年頃だ。無垢ゆえの残酷さ、悪意の芽はすでに肥えて芽ぶいている。
「新しいお母さんて欲しい?」
 このセリフからいくらでもハートウォーミングな結末に転化できるはずなのに、作者が用意したのは共感者ともなり得る二人の、その共感、孤独の共有こそ伴に奈落に落ちていくための枷だというかのような、〈悪魔主義〉に充ちている。

 女の情念はおそろしい。またそのことばを蒸し返してしまう。ここで登場するのは、まさしく「魔女」
 美容師・桜井六也の部屋は彼自身の写真で溢れている。髪を整えてもらいながら私はその話を聞いている。前の担当だった白川佐保子が一ヶ月前に死んだ。六也の写真を撮ったのも佐保子だった。
 佐保子が死ぬすこし前のことだ。実家の美容室を大きくするという夢に陰りが生じた六也は、ディスコ通いをしているうちに孤独感を強めていった。そのことを打ち明けた矢先、佐保子にテニスに誘われた。同席したのは二人の中学教師、長岡と小田。淡白だが魅了的な佐保子に翻弄されていく男たち。六也は悪い夢を見始め、長岡と小田は喧嘩をする……。
 青年の悪夢で幕を開ける物語。
 悪夢を媒介として、生気が吸い取られたかのように痩せ細っていく六也は、作中でもあからさまに触れられているとおり現代のドリアン・グレイだ。しかし、それもまた孤りの女の魔力なのか、恋路の渦中に引きこまれ、妬みや恨みを人知れず蓄えてしまう六也の純朴さこそ魔女の餌なのか。そしていよいよ現れる魔女、あるいはその代弁者。
 知らず知らず男を弄していく魔女はもとより、知ったうえで恋の魔術を行う魔女のがより兇悪だ。しかし、それすら〈耽美〉を思わせてしまうのは、六也の純朴さが意外と強かなためか、作者の技巧ゆえか……。

 さて、げに美しきは刹那の珠玉こそを云う。それに類するは「緑金譜」こそ相応しい。
 伝統舞踊を習い、創作舞踊にまで手を出した姉。その作品こそは、慕う后の命を受けた若者が千疋の玉虫を集める旅に出るという『玉虫物語』。弟である私は、姉と生家の記憶、姉が十四の夏に珍しく同行した虫採りの日のことを思い起こす。のちに姉がお付きの作家に『玉虫物語』を脚色させたのは、そのとき出会った一疋の玉虫のせいだろう。
 半世紀が経ち、生家を取り巻く環境は変わっていき、玉虫を見つけた雑木林もいまはもうない。生家を守り続けた私は、いよいよ林を蘇らせようと庭の手入れを断つ。そしていまケヤキの樹の皮から這い出してきたのは……。
 本作の謎はもちろん姉の末路にある。しかし、もうひとつ。相伴している謎こそ、語り手の目的にある。本書中どの作品の人物のなかでも、語り手の行為は終始一貫して常軌を逸しているが、これこそ、うつくしさを追求する者の振る舞いとして真理と呼ぶに値するだろう。
 一瞬の美を永劫のものにしようという欲望と、反して限りある人生の〈刹那さ〉。そのジレンマに遅かれ早かれ人は気づいてしまう。うつくしいものばかり追い求めて、現実を確かめる頃には眩さで盲になっている。そんなとき、人は網膜に焼きついた耀きを振り返る。
 ここでの美とは、玉虫であり、姉であり、若々しき自らの記憶だ。

 男に誑かされる女性の物語は見たくない。そう思うのは慈愛の賜物ではない。誑かされた果てに女が向ける牙を、皆川作品を通じて知ってしまったからである。「血浴み」や「魔女」に登場する、否、「火焔樹の下で」や「指」にさえ登場するファム・ファタールの釁れた牙より、「滝姫」のそれは深く心臓を傷つける。
 離婚の翌年、村野八千代は秋生の生家を訪ねに行った。雑貨屋兼住居であるその家は、かつて商人宿と娼家を兼ねていたらしく、確かに曰くつきのようで、首を白く塗った女が二階に見えたりもする。秋生の家族は手厚い出迎えをしてくれた。開かない風呂場の戸、湯船に得体のしれない長い髪の毛など妖しき現象が度重なるが、八千代は古民家特有の陰翳に惹かれてさえいた。一度だけ愛しあった秋生との淫夢を想像するほどに。
 ガソリン・スタンドで客と店員の間柄として知り合った二人。秋生が八千代に惹かれた理由は、三十手前で死んだという母に似ていたかららしい。流産を経験し、夫の転勤が決まった八千代は先立って秋生をドライヴに誘う。向かった場所は悲恋の地〈鬼姫滝〉。しかし、地図は嘘つきで牛池を経て滝に着くはずが、池と滝の看板が立つ分岐路に出くわした。二人はそれぞれに異なる道へと入っていった……。
 時系列を軟らかく綴るのも技巧のひとつである。いかにも叙述トリックが秘匿していたものこそ、冒頭で触れられている八千代が逢った、ある〈女〉の正体だ。つまり、秋生の〈母〉のことなのだが、生家での怪現象に恐れをなさない八千代の振る舞いによって融和性が高いことに気がつくのは結構。だがその心身喪失したかのような落ち着き払った態度をさらりと描くからこそ、ラストの憑依が目覚ましい。
 多重世界の解釈などとうそぶいてしまっては魅力も半減してしまうだろうが、時系列の錯誤はそれこそ物語の反復を効果的に見せるための技だ。いつか別れ別れになってしまった分岐路に戻って来、彼が進んだ〈鬼姫滝〉へのルートへと踏み入る八千代と滝壺の傍で待つ探し人。その邂逅が〈鬼姫滝〉/「滝姫」を重ね合わせ、有閑マダム/ハイカーの娘を重ね合わせ、そして然るべき八千代と〈女〉とを重ね合わせる、悲恋は実にアクロバティックに反復する。
 二つに分かれていたそれらを強引にひとつのものとして受け止めるのは、心の底から再会をよろこぶ秋生の腕。たとえば仮に似通った世界があったとしても衝突すれば双方消滅してしまうのと同じく、本作で描かれる〈狂気〉ももうひとつの〈狂気〉が受け止めることで、すべては無に帰す。
 刃は鈍らにもなろうが、空白は刃金に関係なく風穴を開ける。流麗な文章と昂奮に乗せられて、読みきった瞬間に心臓が受けた衝撃。傷は深い。単なる心霊ものだと思ってしまったが余計に……。

 あまりに蠱惑な美文調。ふと、脳裏を過るのはありもしないノスタルヂアの風景。
 夕暮れ時に、ままごとをしている四人の女の子。遅くなると隠れ座頭が出るからと他の三人は帰り、独り取り残された少女はままごと道具を片付け、蠟燭にマッチで火を灯す。それを最初から見ていた少年は、少女に歩み寄り、一緒に蠟涙作りを愉しむ。至福の時であった。そこに現れた、座頭の影……。
 私事ながら〈約束〉が成就せぬ物語に弱いのかもしれぬ。
 その夜の出来事を秘匿しようとゆびきりをした二人、その行く末は段落が変わったあとに明かされる。万引き女が捕まった店の支配人を口説くひとり語りが徐々に調べを変えていき、あの日の真実を語りだすのだ。
 「ゆびきり」というひとつの物語に封入されるにしてはあまりにそりの合わぬ二つの文脈の落差で、女が呑んだ針二千本分の苦しみを味わうとともに、どうして一度ならず二度までも戒めを破らねばならなかったのか……彼女の真意こそ明言はされないが、その感慨の深みこそ〈哀しみ〉である。落ちていき、溶けて固まった蠟涙の溜まり場である。ほんとうに哀しい。

 クァーオ!と鳴く少年が唐突に家にやってくるとは、莫迦みたいな話である。
 それはそうと、今回文庫化のために描きおろされた(絵師・伊豫田晃一氏曰く“羊皮紙に水彩・色鉛筆・イカ墨等で描かれ”たという https://twitter.com/locus_solus/status/394044383248392192)画も絶品ながら、講談社ミステリや本書と同じく東京創元社の津原泰水諸作品、サイモン・アークの事件簿の装画でお馴染みの北見隆氏による単行本表紙に慣れ親しんだ人間としては、やはりあの無表情ながら空虚な目の鳥帽子(烏帽子に非ず)を被った紳士気取りの学生服男が黄昏のグラデーションを背景にさも堂々と樹上で顎を上げている様が、ざらつきのある紙質と相まって、なんとも奇妙に、なんとも神妙に感じられて好みだったわけ。
 それこそとびきりの幻想小説を期待したものが、実に昭和のイヤ~な部分を覗かせるサイコものだったときのショックも遠き幻。ある意味でトラウマを持つ、表題作「鳥少年」
 矢藤鳰子(思えば主人公の名前も多分に示唆的)はゴーストライターを頼まれた町の文化人・半沢悦子とともに一泊旅行の温泉に来ていた。鳰子の体に出来た傷に興味を示した悦子、ふと漏らした鳥少年の話にも更に食いつく。それはひと月前のこと。鳰子の家に木谷秋久が現れ、全身を震わせた挙句にクァーオ!と叫んだ。
 恋人のルポライター・左内驍と夜の横浜に出かけた鳰子は、左内がトイレに立っている間に、数人の男たちに乱暴された。彼女の体の傷はその時に出来、木谷秋久は乱暴した男どもの一人だった。襲われた数日後、親同伴で謝罪に来た木谷秋久。そのわずかな対面の間に、木谷と鳰子は不思議と交感してしまう。そして、クァーオと啼いたあの日。木谷の体には折檻の痕があり、どうやらろくに言葉を喋れなくなっているようだった……。
〈鳥少年〉の正体は奇想にかたよることなく(とはいえ鳥の鳴き声とは過剰な気もするが)、きわめて理知的な真相ではある。作品発表当時のことを考えれば、時事的ですらあるのかもしれない。だからといって最終的に、物語上の解決が為されるわけではないから面倒くさい。
 ラストで示されるのは、諸問題のより近いところにいながら、何もせず傍観している者の告発というわけだが、鳰子と木谷の関係を踏まえればその思考こそ異様の極みだ。簡単に言ってしまえば、意味が分からない。そもそもシュールで不安定な人物たちの交感が、さらに物語に破綻ならぬ歪さを生じさせ、読む者を途方に暮れさせる。お、俺が悪いのか……? とさえ口にしてしまいそうなほどだ。
 もしくはその無理解による〈戯れ〉こそ、ページの向こうの〈鳥少年〉たちに指をさされかねない身勝手な解釈なのかもしれないが。とにかく冷え冷えとした異端のミステリである。

 ここからが併録された単行本未収録作3篇。筆頭は、軋む椅子がシンボリックに立ち現れる「泣く椅子」
 妹・芦子の浮気相手・春原明男を尾行している永子。尾行がばれて問い詰められた永子は、なおも芦子と別れるよう申し入れるが、春原はまったく相手にしない。仕事を辞め芦子の家に入った永子は、芦子とその夫・大垣志郎との三人暮らし。永子はブティックで働く芦子の給料を預かり家計を切り盛りしていた。諸事に対し献身や助言をしているのだが、芦子は永子の心配をよそに流産し、旦那も聞く耳を持たない。
 芦子の幸福を望んで自らを犠牲にすることを厭わぬと感じる永子だったが、2人の男と交流するうちに芦子という存在が彼らと自分とを結びつけていることを実感し始める。脚の具合が悪くぐらついてしまう椅子を自分たちに喩えながら、四本脚だからいけない三本脚ならばがたつくことはないのだと、とある策を思いつくに至る……。
 トリックに代替するミステリ的な見どころは、永子の調査が及ばなかったとある人物同士の繋がりである。それ自体はあまりにデキすぎたシナリオながら、灯台下暗しの驚きがある。むしろ理屈をこねくり回して自己犠牲を押しつける主人公の挙動に、嫌がるもよし、共感するもよし、そして案じた計画にさも悲劇的なオチを期待するも可能域。
 親切が変異した〈自己愛〉が一瞬で崩れ落ちる幕切れはさながらブラックコメディの様相、しかし自業自得の中にも、居場所を喪った人間の、死よりも無残な末路にはほくそ笑むことさえ奪われる。読む者が孤独に敏感であればあるほどに。

 文末にわざわざラテンアメリカ文学の著名な作家の名を挙げているとおり、独特な時空間の切り取り方が鮮烈な「バック・ミラー」
 クラスメイトの青木がユウコに唆されて校長の飼い犬をぶっ殺し、代わりに青木は目を潰された。青木は殺した理由を語らなかったが、ユウコが殺させたのは周知の事実であり、なぜ殺させたのかと内輪で妄想が膨れ上がった中学時代。結局、青木はレーサーの夢を諦めざるを得なかった。
 卒業が目前に迫る頃、東京組と地元組の話題が持ちきりだった。東京の高校に行く小沢を中心にさよならパーティーに講じる面々。夜の海岸で踊る少年少女。小沢は抜けがけをして、ユウコとどこかに消えてしまう。
 日数がたち、中学のクラス会の連絡が来る。幹事は青木と山下エミコ。高校卒業後、東京に出ていた吉田と小沢は、斎藤の車で故郷に帰る。寿司屋の2階で開かれるクラス会。級友たちと話に花が咲くが、幹事の片割れである青木が来ない。小沢は吉田とトイレに立つ。裏庭に青木が立っていた……。
 雑誌『問題小説』の増刊号として発刊された『SFアドベンチャー』の初期に掲載された本篇。その語り口はラテンアメリカ文学からの衣鉢を継ぐ近代的マジックリアリズム。一見すれば、SFの風体とは思えない(掲載された頃は特に珍しかったのではないか)。タイトルの「バック・ミラー」をモチーフに時空間の同一性を語り一応のSF興味に準じる一方で、青春時代の回顧というストーリーをよりセンチメンタルにさせる手際は多分に幻視的。
 おもしろいのは語り手の所在で、いちおう吉田かと推察できるものの、散漫される視点と消えていく青春というテーマによっては集合意識の形象だとも類推できる。閉鎖的、閉塞的な情緒は作中舞台である地方の土地柄に起因しよう。しかし、それこそ「火焔樹の下で」や「密室遊戯」にも通じる、豊かな感性が生み出した心の隔壁――〈孤独〉の副産物だともいえる。

 末篇、「沼」。『絵小説』にも同名短篇が収録されているが、まるで異なる、作者入魂のアンファンテリブルもののひとつ。
 菖蒲が影を落とす鈍色の沼に、女の子の軀はしずかに沈んでゆく。――
 小学生の周子と慈子は母親の違う、同い年の姉妹である。周子は祖母から聞いた、沼の逸話を慈子にせがまれる。同級生に話していたのを慈子は聞いていたのだ。僧が男を騙して手に入れたその子どもである稚児の首を狩り、その軀を沼に捨てたという話。首だけの稚児は「肉が欲しや、血が欲しや」とねだり、いとおしさがつのった僧は指をしゃぶらせる。周子はその話がはらむ妖気に惹かれていた。
 外見にも恵まれた慈子のことを日頃から疎ましく思っている周子は、仕方なしに僧と稚児の話をしてやる。好奇心旺盛な慈子は面白半分に話を膨らまし始める。腹を立てた周子は思わず慈子の背中に手を伸ばす……。
 小品は小品ながら、叙述による魔術の恩恵をしっかりと受けた理想的な一篇。怪談調の逸話を下敷きに、怪異の迫るギリギリまで寄せつつもきちんと悪意のあるミステリ的極致に落としこむ手練の技。「サイレント・ナイト」の童女も「密室遊戯」の少女もまだまだ可愛い。へたすれば本書中のどの〈おんな〉たちよりも怖ろしい、悪女の業。
 これらがこれまで雑誌を除いて陽の目を見ていなかったとは……遺憾の一言、ひとえに愕然。


 にしても、やはり文庫落ちの際に未収録作品を併録するぐらいなら、それらかき集めて一冊の作品集にした方が良心的だと思うのだが。まぁ、それよりも悪しきはこの流れに乗じる形で12月に文庫化する『少女外道』が増補もなし、というのがなんともはや。ここまで来たら解説のためだけに買い直すのも、なんともはや。
 ところで、本書。単行本時にはなかった誤字が見受けられた。といっても二箇所ぐらいか。ひとつは183P「魔女」の佐保子が左保子になってること。もうひとつはなんか忘れてしまった。刊行に急いだのか知らんが、もっと几帳面にしてくれんと。
 あと、編者解説。仕方ないのかもしらんが、いまさら作者の短篇集が云々とか近況の活動報告とか長々と書かれるのは御免こうむる。確かに本書を語る上では特に言及すべき背景だろうが、『皆川博子コレクション』という全集には劣る擬似兵器を投下しておきながらもうその語りぐさは飽きてしまった。え、もちろん買いますよ。買わせてもらいますけどね。
 本は一過性のものではないので、すぐに解説としての意味がなくなってしまうよという話です。もっと内容に踏み込んだ解説が欲しかったですな。そうでなくても個々には語られ難い短篇集の一冊だからこそ。
 あとまた併録作品の話に戻りますが、ただ単行本収録作のおケツにおっつけただけというのもおもしろみに欠けますねぇ。本書の場合は割かし違和感はなかったけれども、次に来たる『結ぶ』。あの精髄の一冊を〆るのが「心臓売り」だからこそ印象的だったわけで、ちょっと心配という。まぁ、本書でいうところの「バック・ミラー」と同じく長いこと名前だけ知られていて、遠き彼岸に行ってしまわれたかのような一篇「メキシコのメロンパン」が拝めるだけでも、感謝感激なんだけれど。
 はい、調子こいた文句はこれまで。
 いやほんとうに日下三蔵氏の仕事には感服、しております。

 世に出た時期も重ならず、半ば無作為に収集したかのごとき本書。一読して、ほのかに浮かび上がる共通項は本書にとどまるものではなく、皆川博子という作家の魂に刻まれた黥の如し。
 これまで温存されてきた本書収録作品でさえこの出来ならば、他も期待できるだろうというあなたの見解は正しい。
 皆川作品のなかでは不思議と地味めの(そう感じるのは俺だけ?)本書だが、皆川作品の端々を啄み、ここから某文芸評論家が名づけた皆川魔界(これはこれでどうかと思うが)に向けて巣立つのもいいだろう。そして、毎作品に酔わされ心かき乱され、作者の築いた幻日に嫉妬しながら、飽き飽きの現実にうしろ指差されようとも喝采を送ろうではないか。
 十数年の時を羽ばたいてきた〈鳥少年〉の翼に乗って。クァーオ!と啼いて。



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