日本ホラー小説大賞は、ノスタルジアの塊だ。
朱川湊人や恒川光太郎の諸作品を引き合いに出すつもりはない。日本ホラー小説大賞というムーヴメントに、他を圧倒する郷愁を感じるのである。
かつてこの賞がすべてだった。年に一度、この賞の結果が出るたびに、タイトルだけで興奮を覚えた少年時代。角川ホラー文庫の黒い背表紙に飾られて、ある時は封じられたおぞましさを隠すような無機質なCG、またある時はレジに持っていくのも憚れるような酸鼻なイラストに想像力を掻き立てられたりしたものである。
まだ科学を理科と呼んでいた頃に出逢った、深緑のリキッドを纏った男のイメージ『パラサイト・イヴ』は生涯はじめて触れた本格的なSFであったし、ブランコに乗った子どもの障子越しのシルエットに肝を震わせた『黒い家』。女のうすら笑いが土俗的という言葉と、それに容易に表現できぬ奥ゆかしさ、立ち入れぬ異郷の深淵を感じた『ぼっけえ、きょうてえ』……それらは確かに恐怖を感じさせた。ただ恐怖に虜になっていた少年にとっては格好の宣伝材料なのであった。その表紙をくぐり抜けた先に待っている、学校の怪談とも、昔話の類とも、都市伝説とも異なる、怖気のヴァリエーションを期待しながら、周囲から好奇な目を向けられるのを承知で手にとったものである。
ところが……いまだ憶えている。唯一、手にとれなかったあの表紙を。平積みに、あげくは書店で最も目立つ新刊コーナーの一番上に、5、6冊並んでいた単行本……口を開けた白眼のない女、それも三人、熱気をも感じさせるような紅を背景に、こちらを見下ろすが如く、現れた、三人の女。昭和の邦画のタイトルバックにも似たわずかに輪郭に歪をもたせてある……『姉飼』なる文字。
それはまるで……記憶の中のエフェメラたちを思い起こす。
小学校の夏休みから秋ごろにかけて、通学路の途中、電信柱にポスターが貼り付けてあるのを見た。そう、福島が生んだ奇怪な見世物小屋主人(?)渡辺文樹の『バリゾーゴン』。今でこそ実態を知っているものの、あの過剰宣伝との遭遇は当時の嫌な記憶の一つとして数えられる。小学校の裏側の、桃畑に囲まれた墓地に隣接した通学路だったからこそ余計に。
またひとつ記憶を紐解こう。『バリゾーゴン』とは異なり、出自が明らかになっていない。体育館の壁に貼っていたような感覚もあるし、おなじく電信柱に貼っていた感覚も、職員室の掲示板に貼ってあった……どれも朧げで、そのうえそのポスターの全容さえ覚えていないが、ただひとつ暗室にピアノが置いてあり(傍らに人影があったようななかったような)、そして欄外に縁取られた文字で“人食いピアノ”と記載されたポスターだ。映画なのか、舞台なのか、なんなのかさえ分からない。無論、大林宣彦『HOUSE』ではないことは確かだ。
俺の小学校は体育館のステージそばにいつでもグランドピアノが置いてあった。くだんのポスターが記憶にあったから、何度も蓋のすき間から内部を覗きこみ、弦と響板しかないことを確認したりもしたものである。
(※このたび検索しなおして、おおよそ
これではないかと思えるものを発見した。してしまった。少し時期もイメージも違う気がするし、オリジナルビデオのポスターを見る機会があったようにも思えないのだが、思い出補正というのもあるのでもしかしたら……だとすれば、探さなければよかったという結論に落ち着くのだが……)
閑話休題。
『姉飼』が醸し出すノスタルジアは、これら幼少期のトラウマと同種のものであった。そしてそれから数年が経ち、女達が消え、代わりに併録作『キューブ・ガールズ』をイメージしたかと思われるイラストに摩り替わった文庫版になってようやく読んだという次第なのだ。初読からさらに数年経っているが、改めて思う。
圧倒的に、気色悪い。時期が時期であれば生涯嫌いになるであろう尺度の不気味さである。ただ惜しむらくは、いまの俺はそれが最高に気持ちいいのである。さしずめ表題作の語り手、あるいは『妹の島』に登場する大黒柱・辰巳吾郎の性癖のごとく。
蚊吸豚、脂神輿、祠部矢など、まず目につくは過剰装飾ともいえる造語・宛字の類。作中、達磨への言及があるように、姉という存在をひっくるめた
『姉飼』という短篇は、都市伝説を土俗的伝承に押し上げた作品とも読めるのだが、くだんの造語によってファンタジーにとどまることしかできなかったとも考えられる。
それは惜しむべき欠点ではない。この手の話を読むとき、まず行うのはメタファーの解釈なのだ。蚊を吸う豚とは、脂を形成させた神輿とは、縁日で売られる姉とは……端からそういうものだと割り切れるならそれでいい。しかし、何かしらの意図を読み解こうとするのが、俺の性なのである。と自慢げにいったところで話の腰を折れば、本作に限ってはあえてそれをしないでみる。
なぜか。それはこの短篇が、下敷きとなっている達磨の都市伝説を踏襲したつくりになっているとおり、何もメタファーで意味を語ろうとしていないからである。
謂わば、日頃(性欲だけでは)満たされない男の欲求を満たしくれる(例えば“玩具”や“奴隷”、“所有物”といった意味をも含ませる)キャラクターの代表として“妹”があるとしたら、本作に登場する“姉”はまさしくその皮肉の意味もあるだろう。“妹”という呼称に自動的に上下関係の下が適用できるなら、“姉”はその逆であり、これをマゾヒズムの道具ととるか、あるいは本来上位に属するものをあえて卑下にすることで生まれる快楽をテーマとしたより病的なサディズムととるか、そのような議題も挙げられる。
ただ本作に限っては、“姉”は『姉』であり、それ以外の“姉”の意味をもたない。もたせない、方が幸福なのである。もっと云ってしまえば、女偏がついており、女性に類することばであればなんでもよいのかもしれない。嫁、では近すぎる……姥、では老けすぎている……姪では、少し遠いか……やはり『姉』がちょうどよいのだが。
そのほかの言葉も世界観の造形には役立っているかもしれないが、物語の秩序としてはなんの役にも立たない。脂の塊を担いで回るくせに、露店の姉はやはり異形のものだと位置づけされる価値観のずれだとか、一人称が俺の女児だとか、思わせぶりな歪を生じさせているだけである。
では、このまま歪みつづけ、最後にはすべてが崩壊してまったく見たことのない世界が現出するのかと思えば、なんのことはない。至ってまじめな着地点に落ち着く。さながら世界中の珍味という珍味を集めて、いったいぜんたいどんな豪快な料理を提供してくれるのかと思えば、小奇麗なグラスに乗せられたカプセルの盛り合わせ……珍味を乾燥粉末処理したものを無味無臭のカプセルに封じ込めたものであったときのようだ。見た目はドラッグジャンキーの朝食を思い起こさせいささか奇妙だが、摘んで飲み込んでしまえば、珍味ゲテモノの独特な風味もない。ほんのり異物を飲み込んだという感覚だけが舌と食道に残り、珍味の粉が胃の内部に拡散する様をイメージする、ただそれだけがいつもとは違うだけの瑣末な非日常感。
珍味の喩えは別として、本作の結末はいち小説としてみれば大変にスマートなものであり、前述のとおり達磨の都市伝説を踏襲したがごとく、辻褄の合う納得できるつくりだともいえる。だからこそ俺は好意的に受け止めているのだが、世の中はそんなに甘くないのかもしれない。
『キューブ・ガールズ』はうってかわって記憶喪失の少女によるひとり語り。
amazonの感想をななめ読みしていると同賞からデビューしたからか小林泰三との類似をあげているものが散見される。私見では、異形コレクションXXXVⅢ『心霊理論』で発表後、個人短篇集『臓物大展覧会』に収録された『ホロ』にもっとも近しい状況であると考えられるし、人を食ったような人物同士の問答劇は小林泰三のデビュー作『玩具修理者』にも通じる。もっともそれだけでは比較できないほど、この構成はありきたりである。
また、(これもamazonの感想でも指摘されていたが)2003年に筧昌也が発表した短篇映画で、のちに世にも奇妙な物語でもセリフリメイクされた『美女缶』に類似している。『姉飼』で受賞後、本書の単行本が出版されたのが同年の11月なので、万一どちらがどちらなのかと話になれば万一でなくともこちらがパクったのだろう(笑)このような設定も実にありきたりである。
ネタはともかくとして、堪能すべきは語り口である。いかにも頭のネジが緩んだ女子のひとりごちる様がぽんぽんと記述されていくのは爽快で、且つ『姉飼』との落差に目をみはる。さらにキューブ・ガールズが流行した社会のシミュレーションも抜かりなく仮想され、単なる設定止まりではないことを強く思わせる。仮に作者が小林泰三であればSF設定を切り口に技術を掘り下げていくところだろうが、こちらはあくまで模写した現代に投げてよこされた奇怪なガジェットとして、取り巻く消費者や社会の様相を考えつく限りのヴァリエーションでもって描いている。まぁ、ありきたりではあるが。
落とし所が単なる消費期限の誤魔化しであるところや、男との間に大したドラマが見えないところ、最後の男の行動などはさすがに浅薄な印象もあるが、尻切れトンボの幕引きを含めて、表題作と同様、作為的に小説の規範を守ろうとする律儀な姿勢を示しているのかもしれない。つまり、それがありきたりということなのだが。
ここまで一読すれば表面的にはアイディアの人であるという評価ができるだろう。串刺しにされた人でないもの『姉』、箱から生まれる性具少女『キューブ・ガールズ』、そしてワンアイディアの勢いは遊具のジャングルジムを語り手としたメルヘンストーリー
『ジャングル・ジム』で更に加速する。
冒頭こそ純粋なジャングルジムと人々のふれあいを描くものの、やはり女が絡んでくると急激に男性性が暴走し始めるのは言わずもがな。ジャングルジムもレストランで食事やSEXをするという(アイディア的には)サービスシーンも交えながら、ユニセックスであるはずの単なる遊具が男として没落していくさまは痛々しいと同時に、ある種、秘匿され続けてきた辱めを見せつけられているようで他人事とは思えなくもある。
しつこいようだが、冒頭から顕著な童話性を取り逃すことなく、幕引きは実にリリカル。のちのちに発表される短篇『カデンツァ』や評論家としての著作を引き合いに出して、クローネンバーグも真っ青の無機質と人間の融合をテーマに語りきることも出来ようが、とりあえずは残酷童話の無邪気さとB級Jホラーの静謐さを併せ持った作品として愉しむべきである。
意外と前述した人喰いピアノのホラームーヴィーも、似たような骨子だったりするのかもしれない。
表題作と対応するかのような題名。読む者さえ期待する“妹”の登場だ。
四作目
『妹の島』なのだが、その期待はいろいろな意味で裏切られる。まず目を引くのは冒頭から殺人事件が起こるという、これまでの作品とは一線を画した娯楽性を提示するところである。もっともその殺人に付随して、蠢くの文字どおりにわんさかと昆虫の群れが描かれるわけで一般受けする娯楽要素ではないのだが。
そしてより明確な違いは、この物語が多視点であることだ。断章を積み重ねいろいろな視点から捉えることで、閉鎖された島の奥行きを感じさせる。それとともに事件の広がりと、犯行の隠蔽を行っている。これが作為的なのは、各断章の繋ぎ目が符合していることから判る。
たとえば、下記のとおり。
(前略)吾郎の肉体は日に日に膨れ上がってゆく。膨れ上がると同時にゆるんで液体に近くなってゆく。
ゆるんで液体に近づいている。そんな腐れた果肉があちらこちらに散らばっている。(後略)
(前略) かたちだけ、かたちだけで十分だ。俺のほんとうの管轄地域は本土なんだから。
「本土に行きたいのお」
仁三郎が嘆くようにいう。(後略)
映画の手法でいうところのマッチ・カットのような感じ。いかに小説の規範のなかで遊ぼうとしているかが窺い知れる、一例ではなかろうか。
もっともこれらが酷く常套なものだとしても、事件が起こる=ミステリーと考える読者の方が悪質なのだろう。本書は日本ホラー小説大賞受賞の本であり、作者はミステリー作家でもミステリィ作家でもミステリ作家でもなく、推理作家協会賞の候補になるのだってずっと後(『壊れた少女を拾ったので』)なのだ。
本篇の容疑者はまっとうに暴かれ、なんの衒いもなく動機や犯行の様子が描かれていく。そして、ダークキャッスル・エンターテインメントの因縁作『リーピング』のような昆虫に愛された少女を軸に更なるパニックホラーと化すか、村田基の『白い少女』を彷彿とさせる淫靡に発展するか、あるいは津原泰水『埋葬蟲』のように内部から食い散らかされるか、あるいは原点に立ち戻るなんて意味でも坂東眞砂子の『蟲』に……なんて思いあぐねいていると作品の主眼(主犯ではありません)は容疑者兄妹ではなく島を統治するデブおやじだったことが明かされていく。
このデブおやじは蜂に刺されると快感を覚える特異体質。殺人事件の凶器でもあった蜂では死なない……無敵! と思ったのもつかの間、くだんの蜂は毒針でなく卵管でぶっ刺すことからおやじの体に産み付けられた卵達が孵化してぴよぴよ……となる一歩手前で、奥の座敷に閉じ込めていた本妻(発狂中)が終盤になってようやく登場。あっという間に島の崩壊と女の哄笑で、幕引き―――。
とまあこちらの期待なんてつゆ知らず、その実、乱歩リスペクトといった風情の『孤島の鬼』『パノラマ島奇談』を踏襲した探偵小説、楽園崩壊モノだったのである。乱歩フリークならこの2作の取り合わせでピンと来るはずだろうが、なにせ6ページに渡って『姉飼』を映画化しようと模索する大槻ケンヂによる本書の解説(傑作!)にも記されているのだ。引用してやれ。
さてどうやって映画化したものか。
この奇妙な物語の軸を何と考えるべきか、だ。
(中略)
ズバッ! とSMポルノと考えることもできる。この場合は僕ではなく、70年代に「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」を撮ったころの石井輝男で映画化してもらいたいものだ。デヴィッド・リンチでもいいけれど、なんか、リンチだとフツーにされちゃいそうなんで石井輝男に一票! って、もう石井輝男生きてないけど。
といった具合で、カルト嗜好であればあるほどズブズブとハマっていく食虫花のような作品集のなかでひときわ多肢の可能性を見い出せ、それぞれの方面の読者の期待を逆撫でして弄ぶかのような一篇なのであった。
ここまで記してしまえば、思いの丈をぶちまけてしまえば、冒頭に書いたようなトラウマも息をひそめるというものである。
蠱毒の壺も蓋を開ければ、蛇の抜け殻しか残っていない場合もあるのだ。トラウマとはそういうものなのかもしれない。たとえばあれだけ鮮烈に記憶にプリントされていたポスターも、なんのことはないオリジナルビデオが正体だったように。(いやほんとに、今回はじめて知ったのです)
だが、俺は本書を駄作とは思わないのである。本書だけが判断材料の場合はそうも言ってられなかったかもしれないが、各作品に散りばめられた規範に則った作法が天然に因るものなのか、作為的なのかは、本書以後に徐々に明らかになっていくのである。それらを踏まえたうえで記すとすれば、そうなる。
現在進行形だった“謎”はやや解明の兆しがみえ、その裏付けとして遡及した結果なのである。
だからこそ云おう。本書は……表題作『姉飼』は、怪作である。傑作である。
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