手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『嗤うのっぺらぼう』

[解題]
一時期、怪談を勉強していたのだけれど、結局怪談は俺にはあわねえな、ということでエログロに走ったのも昔の話。今まで書いたなかでは怪談のフォーマットに最も即している。書くのも楽しかった。けど、やっぱり怪談はあわねえな。


「おや、またおる」
 農道の先に目的の宿屋があると、案内に出向いた下女が突然足を止めて、傍らの畦道の方を覗き込む。下女の道草に私は苛立ちを覚えながら、背中ごし、畦道の中ほどに行き成り現れる杉の木立に目を移した。淫らに浴衣を羽織った三十半ばの女が草叢に膝を埋め、顔を手で覆っていた。
「泣いて、おるのですか」
 口の中がひどく渇いていて、ぐにゃぐにゃと舌が縺れた。下女は自慢げに眉を上げて、「珍奇なことじゃねえです。あの女、いつもああやって一時間、長ければ二、三時間泣きっぱなしでおるんですよ」
「なにか理由でも」
「半月前、地蔵の前さ、赤んぼが捨てられとったんです」
 目を凝らせば、確かに木立に囲まれたなかに、社はおろか前掛けも持たぬ地蔵が一体設えてある。けれども、それは地蔵というよりか道祖神を祀る石碑とも遠い、単なる黒石の塊に見える。だが、下女が地蔵と呼ぶのだから地蔵なのだろう。
「ははあ、その赤子を捨てたのが、あの女性という」
 下女は、まあ気にしねえことです、と一度止めた足を進めた。農道を歩いて、ちょうど泣き噎ぶ女の背後を通り過ぎようとしたとき、ふと覗かれているような気がして、気配のする方を向こうとした。すると突然前を歩いていた下女が、「余所見はしねえで」と振り返りもせずに言い放ったのだ。面食らった私はその場に留まって「余所見したらどうなるんで」と問うてみた。
 僅かに顎だけこちらへ向け、下女は呟いた。「嗤われる」

 宿屋に着くなり、黒坊主には近付かんほうがええ、と念を押された。黒坊主とは例の地蔵だ。きっと地蔵は子守を担う菩薩であるから、あの女の罪は報われるだろう。そんなことをやんわり考えながら、夕餉をとり床に入った。
 翌朝、道案内の下女に礼をいい、宿屋を離れた。下女は去り際まで私の顔を脅すように見据えては、昨日の話を忘れねえで、としつこいものだから、いい加減に私も不貞腐れて別の道を通るよと嘘を吐いた。
 昨日通った農道に入り、あの畦道が見えてくると奥まったところの木立の陰、見覚えのある浴衣が目に付いた。砂地で跫音を立てぬように近付く。昨夜の下女の話を思い出す。

 あの女、男を乞うて捕まえては孕んで、そのたんび、できた赤子を捨てとるんです。

 声をかけると、女は振り返った。

 黒坊主は子守なんかしてくりゃあせん。縁結びの仏ですから。

 ああ、確かに。女の肩越しに、石くれの黒い顔が嗤った気がした。
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