気の戯れに、蚊になる夢をみる。
真昼間だというのにカーテンの締め切ったワンルームに潜り込んでは、体温と湿気を探して宙を漂う。きっと夢をみている俺の耳元で、実在の蚊が飛びまわっているのだろう。ぶんぶんと羽音が、耳をついて離れない。それは今でこそ己の翅翼が発する音なのだろうが、音波めいた振動のノイズであることに変わりはない。ソファーベッドに寝転がる人間を誰だか知っている。夢で自らの血を啜るという、なんともいえない恍惚と嫌悪。その踝部分にしがみついて、口を刺したら、つつうと生暖かい蜜が体内に入ってくる。甘く、塩辛く、ほろ苦く、味覚をも超越した芳醇なものを嗜む。
凄い力で、体が持っていかれた。地面が揺らぎ、天と地がさかさまになるような、もの凄い力。寝返りを打った人間の踝から振り落とされ、俺はふたたび宙を漂う。僅かながら口に残る血液は、満足するにはあまりに少量で、その名残だけがはっきりしているからこそ、余計に満腹の欲求が昂ぶってしまう。もっと肉の柔らかい部分を攻めるべきだ。
どこだろう、二の腕、腿の付け根、首筋、柔らかい上に皮膚から血管までの距離が薄いものがよい。隙をみて、不時着。唾液の準備は出来ていた。刺す。吸う。どくんどくんと血管の鼓動に合わせて、後ろ足で拍をとりながら、餐にありつく。こうして体内に人間の血が流し込まれてくるのを感じると、この灰色の細長い切れ端で出来たような小さな体そのものが、化石化した血液で出来ているのではないかと思い始める。絲のような足の先端まで、新鮮な血漿、ヘモグロビンで、充満し、血もなにもないであろう本来の蚊の体を形作る組織となる。ぐびぐびと飲み干す傍ら、膝の裏側に痒みが迸る。これではまるで本当に俺が蚊に食われているようだ。違いない。いま俺は気の戯れに、蚊になる夢をみているのだから。きっと実在の蚊が、俺の膝の裏側に食らいついているのだろう。これではまるで蚊になる夢ではなく、蚊が人間になる夢をみているようだ。普段の俺は俺ではなく、蚊の餌になるためだけのまぼろしであって、この夢の主は本来の俺である、蚊、なのではないか。これが蝶であったなら、少しは神秘さも増したはずなのに、蚊というだけで卑下に感じる。けれども、それも又おつなものよ。
俺は痒みに気がつき、起き上がる。膝の裏側に潜む害虫を潰す。
ぺちん。同時に俺という存在は、血の振り撒きとともに破裂する。
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