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 手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『バリでの一夜』

[解題]








二日前の狂騒が嘘のように静かな夜、耳になじまぬガムランとプールに滾々と湧く水の音ばかり聞いていた。福島の片田舎、汲み取り便所の平屋に住み、乳癌を患った母と過ごしてきた人生は二十五年目を迎えた。恵まれていない生活のなか、それでも愛しき夢を持ち、愛しき人と出会えたことを幸せに思う。
 披露宴の反省点は幾つもあるけど、忘れよう。本州すら出たことのない人間が新婚旅行にだって来れたのだ、何よりじゃないか。七月の澄んだ夜空には故郷から見ることのできない星の列なりがあり、胸をくすぐるお香の匂いがヴィラで過ごす一夜をくるんでいた。

 魂が集まる神々の島……虚飾もあるだろう、でも何か映ればと思ってケータイを持った。間接照明が浮かぶプールサイドを撮影しつつ、もし本当に映ったら、という恐れもなくはなかった。怖い話が好きで怪談を書くこともある。でも想像と遭遇は違うし、むしろ遭遇したくないから書いているようなものだ。
 そんな僕が、霊感もないのに気持ちを昂ぶらせ、翌朝もツアーのハードスケジュールが待っているというのに床につく気すらない。
 数十分前、兄から連絡があった。骨盤を蝕まれ寝たきりだった母。痛み止めで朦朧としながら、車椅子で列席した母。霊感を持ち、文学少女だった母。ずっと愛しかった母。幾度となくこんな場面をシナリオにしたことはあったけど、やはり思いつくのと体験するのとは訳が違う。魂になれば、海だって越えられる。だから現れてほしいと心から願った。

 帰国してすぐ葬儀は終えた。
 今日で半年は経つというのに、あの夜に撮った動画は封印してある。愛しきものを変わらずに愛し続けていられるのは、きっと映っているという期待と予感と恐れとが、拮抗しているおかげなんだろう。
 つまり僕の魂はまだ、夜のバリ島にある。

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