三面鏡の中心にマーマがいて目の端にわたしがいる。
肩のへりに掴まって口紅を、青い(普通の、ルージュの)口紅に人差し指をつける。マーマ、かぶりを振って、時計をみる。誰も時針をいじくるなんて真似できやしないわ。だってお気に入りの、鳩時計。すぐ朝一番の声を鳴らすわ。雄鶏も雌鳥もでかけの仕度をし終えて、スーツを着込んで出て行っているというのにお寝ぼうさん。けれど、いいのです。マーマは働くことを知らないの。
下地を塗って、おめかし。首すじには甘い霧。赤い櫛を入れた髪の毛、きしきしに痺れた毛先が、妹たちと散らばっていく。クルックー、そうね、そんな声。予定どおりの場所に時針はたどり着いている。玄関のチャイムが鳴って、翠のイヤリングが転がる、マーマの耳朶という、懐におさまる。妹たちも押し黙ってしまって、マーマは傾げた首でいまを掻き消す。部屋のなかの空気がとろける。火曜日だから漂うのはバニラ、パーパの知らない退行記憶のバニラ。
フライパンのへりにぶつけて片手で卵を割る、マーマ。
パーパは新聞紙をひろげてポーションのからを捨てる、見もせずに、だからミルクが飛び散り、マーマの知らないところで妹たちが起きだしてくる。液晶テレビではまたひとりもふたりも死んで活字になっていく。予言を持たない彼らに寄り添い、妹たちは飛び去っていく。パーパはニュースを扇ぎながらカフェオレを嗅ぐ。乳の声、気化して、マーマは蛇口で手の泡を洗うの。数時間後にはパーパは何者でもなくなり精製されたミルクで喉をうるおすし、マーマはじゃれるだけの甘味となって昼に融けるの。はさまれてわたし、罪深きベッドの下で眠るの。鳥は、今週も踊りにいく。享楽なんて難しいことばを腋にはさんで、妄りに卵の酸いを吸い尽くして。
ハミングなんて幼稚な詩語で、パーパの耳には悲鳴に聞えるかしら。妹たちも望んでいる。あの羽を毟るのも、喉をつぶすのも。焼かれて胃袋におさまったら、パーパの無防備を腐らせてしまえばいいし。
誰かの心みたいに透きとおった冷たい水に、ミルクをひとしずく垂らして嗜むことが幸福なら、瑞々しい魂から滴るうららかな酸をまぜ、上質な毒にすることだって正しいと思うの。他人の灰汁を頬に浴びせて、玄関を跳ねるように飛び出していく少女を殺すのはたやすいことで、若さを膿ませて死なすことができたなら、別にわたしは産まれてこなくていいのです。
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