手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『邪魔しないでキャンディ』

[解題]
非現実なキャラクターを妄想してて、こんな昆虫を思いついた。想像ではもっときちんとした冒険譚になるべきはずが、自殺なんかと結びついたことで魅力を引き出せずに終わってしまった。何より、女性主人公の描き方に苦労する。


 自殺するついでに、キャンディを手放そうと思っている。

 樹皮の硬い木の枝を主食とするような生き物だから、飴玉を好む。だからキャンディ、ぷるるん蜘蛛、メス、二歳とひと月。

 なかば透明な体の彼女は目を離すとどこかに行ってしまう。一緒に入浴なんかすると大層彼女は機嫌をよくしたものだけど、わたしが体を洗っている間、つるんと浴槽に落ちてしまえば、湯水に同化して一目では見つけられない。ビー球のような八つの目が、底のほうで瞬きをするので、やっとそれが彼女だと分かる。拾い上げると、ぷるるんと身を震わしてタイルを擦るような音で鳴くのだ。
 ぷるるん蜘蛛は学習能力が高いわりに適応能力が低い。柔軟性がないともいう。ゼリーみたいな体のくせに。
 だから成虫は譲ることも売ることも難しい。一度懐いた人間にはこの上なく気を許すが、それ以外には見向きもしない。けれど大した世話も要しないから、若い女性には人気があった。女性誌で知って興味を抱くパターンが多い。わたしもその口だ。
 死に装束ぐらいめかし込みたいと式典用のヒールを履いてきたから、余計な体力を奪われた。けれど引き返せない。わたしは森の深奥で沼に対峙した。丸二年でたぷんと健康的に肥えたキャンディを茂みに下ろすと、彼女は水を求めてのしのし這っていき、なぜそんなところに突っ立っているのか、入浴しないのかというような素振りでこちらを見る。
 ここなら安心して暮らせるから。
 ぷるるん蜘蛛を調理するなんていうバラエティの企画があったが、喉ごしは絶品である反面、煮ようが焼こうがかわいそうなほど調味料と馴染まず、なら蒟蒻で充分だという見解が浸透しきって、食材としての注目はすっかり失せてしまった。けれど鴉や野良犬、雑食性の生き物に捕食されるので、繁殖能力はきわめて低い。

 わたしは剃刀を握り締め、ぬるりと嫌な感触のする水面に半身を沈めた。手首に宛がおうとしたところで、剃刀が水面に奪われた。腐葉の雑じった泥水のなかで八つの瞳が瞬いた。
 泥水が胸元によじ登ってきてきゅっきゅっと鳴く。あんなに入浴をせがんでいたのに、必死でわたしを陸に上がらせようと躍起する彼女。ぷるるん蜘蛛の弾力のある体を抱きしめていたら、決心も潰えてしまった。
 帰ろっか。キャンディがきゅんと嬉しそうに鳴く。
 邪魔されるのはこれで三度目。次こそは絶対に死んでやる。
 今度は、絶対に邪魔しないでね、キャンディ。
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