手のひらの海に、汐はまた満ちる。それまで待とう、死ぬのは。(皆川博子『ひき潮』より) ―――吉川楡井の狂おしき創作ブログ。

-週刊 楡井ズム-

   

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『詩人の水』

[解題]
タイトルから平沢進1stアルバム『時空の水』を想起させるが、確信犯ではありながらも内容の意識はしていない。
むしろ津原泰水『安珠の水』の影響が色濃いだろう。ここ最近、課題としている水を体現する小説というものの一パターンとして書いた。この課題は『安珠の水』や皆川博子『断章』から継承するもので、1000文字以外で挑戦する予定がある。
本作はそっちで用いる予定のない水の流れを素直に表現しようと思った。モチーフは感情の渦……否、心の洗濯とでも言っておこう。



 お姉さま、河が氾濫しましたの、夕べのながい雨で、あの果樹園は流されてしまいました。

 緑も赤も分からないぐらい。だって落ち葉が綺麗に列をなして下流に下っていったのを見ましたもの、手をのばしても届きませんでした、ごめんなさい、あれほどお姉さまお気をつけていらっしゃったのに、お祖父さまの代から、何代もお姉さまが守ってきた、あの果樹園。

 毎朝の、絞りたての、ジュースも、毎晩、お兄さまが呑む、シードルも、河になってしまいました。沈む、林檎、洋梨、柑橘、見ましたわ。あぶくのなかを転がっていって、気持ち良さそうで、逃がした、とんでもない、河が氾濫しましたの、必死で追いかけましたもの、風雨だか、涙、分からないけど、夕べの水、苦いのよ、ご存知。

 枯葉舞って、用水路に足をとられて、バケツでさえもう自由がきかないぐらいに、飛ばされてしまって、あのバケツ、お姉さまが鼠を沈めたバケツよ、憶えてらっしゃるかしら、鼠は気味が悪いけど、だから、バケツを嫌っているわけではないの、あたしなの、あのバケツにお姉さまの、ノート放ったの。お姉さま、詩作に夢中で、あたしのこと、見向きもしなくなった、うらやましくなったの、ノート。だからバケツに水を汲んで、そのまま浸したの、表紙が固いから、少し水、含んだら拾い上げて、破って、沈めちゃった。ほうきで、かき回して、攪拌、文字がおどっていたわ、目の回るぐらいに。インクは溶けないのね、お姉さまと同じで、しがみついている、あたし、お母さまの大事にしていた、絹の、帽子も、そんな風に、毀しちゃった。

 ごめんなさい、だからあたし、お姉さんの、インクで全部、書いてのこしたわ、読んでいるのね、お姉さま、内緒にして、お母さま、悲しむから、またお体をわるくさせたら、あたしのポーチも、お絵かき帳も、なにも見て、くださらなくなる、そうしたらあたし、どうして雨が降り出したのか、分からないもの。

 だって、帽子、水につけたのは、お母さま、大事な、白い、熊の、キーホルダー、ちいさな縫ぐるみのついた、お姉さまもご存知でしょう、あたしの、だめにしたの、お兄さまが、ズボンから取りわすれた、鼻紙、とおなじ、だから雨が、降って、あたし用水路、せき止めて、幹を、蹴って、お母さま、水に浮かべて、お父さま、浮かべて、お兄さまの胸にキス、口止めして、追いかけて、踊るの、……苦い渦とあたし、お姉さまの、詩になって。
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